『明浜町誌』(愛媛県西予市)の16頁に、1854年(嘉永7年、安政元年)に発生した南海地震の津波により犠牲となった方の慰霊のために、俵津の上ノ山の庵寺に、一宇を建立してお地蔵様を奉納してお祀りをしている、という一文がある。この記述には10数年前から私は注目していたのだが、現地での確認作業などは行っていなかった。自分の手元に置いておく災害関係ファイルにコピーしていただけであった。しかし、2011年3月11日の東日本大震災と津波被害の発生を契機に、愛媛でも南海地震が発生した際の被害がどうなるのかが気になって、再びそのファイルを見渡してみた。私が集めた資料では、愛媛の沿岸部では、津波被害で建物が流されたりした事例は数多く見られるが、供養塔や記念碑など、犠牲者を供養したり、祀ったりする有形資料はこの事例のみであった。そのため、大震災後、明浜町に3、4回ほど現地に話をうかがいに訪れてみた。しかし、地元の方でこのことを知っている方は皆無で、結局、明浜町誌の記述だけが頼りだった。関連する記述がないか漁ってみたところ、明浜町教育委員会が発行している『明浜町の文化財』に明浜町俵津脇の「庵寺の五輪塔」の記述を見つけた。その解説文は以下の通りである。「上の山の庵寺は、昔、徳長寺の建っていた所で、ここに室町中期の五輪塔が二基あります。しかし、石質、型とも違ったものを組み合わせているので、火災か何かで、散乱していた石を、後世の人が集めて、二基にまとめたものであろうと考えられます。また置かれている場所も、それらしい場所ではないようです。庵寺には、明治の始めに作られた弘法大師像、阿弥陀如来像、十一面観音像、子安観音像が安置されています。なお庵の左手には地蔵堂があり、古いお地蔵さんが安置されています。」明浜町誌では、俵津の上ノ山に一宇を建立してということで、お堂か祠が建っていいて、そこに地蔵が祀られていることになるのだが、この上ノ山で現地の方々に話をうかがうと、地蔵といえばこの『明浜町の文化財』の記述にある庵の左手にある地蔵堂のこと以外に思いつかないという。そういったこともあり、私はこれが安政の南海地震の津波被害者の供養のために建てられた地蔵ではないかと推察したわけである。しかし、実際に地蔵堂内の確認調査はいまだ行っていない。地元の教育委員会や所有者等と調整をして、近いうちに確認作業をしてみたいと考えている。これが確認できれば、管見の限りになるが、愛媛では唯一の津波犠牲者の供養に関する有形資料ということになる。そもそも愛媛になぜ津波碑が少ないのか。有史上の南海地震での津波被害を受けてきた高知県、徳島県、和歌山県、三重県に比べると極端に数が少ない。これをどう考えるべきなのか。単に愛媛には津波被害が無かったのか。それも違う。宝永や安政の南海地震の際には宇和海沿岸部を中心に津波が押し寄せた史料が数多く残っている。ただし、村浦が壊滅したとか、多くの死者が出たという具体的記述は、高知や徳島等に比べると少ないのは事実である。やはり、記念碑、供養塔を建立する主体は個人ではなく集団であり、その村浦で多くの犠牲者が出るといった未曾有の出来事でない限りは、記念碑、供養塔といった津波碑は残りにくいのかもしれない。つまり、甚大な被害が出た地域では津波碑が残って後世に記憶を伝えることができるが、村浦を壊滅させるまでいかない津波被害の地域では、かなりの建物被害が出たとしても津波碑は建立されず、数十年後には地域の中での津波の記憶は忘却されやすいのかもしれない。オールオアナッシングのような津波記憶の伝承形態である。このように災害の記憶が伝承されるメカニズムについて、もう少し深く洞察しないといけないのではないかと最近感じているところである。
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