平成5年2月11日付のうわじま新聞に宇和島の鹿踊に関する記事が掲載されている。これは当時の宇和島市立歴史資料館の山口喜多男館長が執筆したもの。その中で龍光沙門伝照(龍光院第六世院主、宝暦四年、66歳没)の旧記なるものが紹介されている。「宝永三年(一七〇六)、星霜五十七回を経て鹿頭悉く破損。時の町会長・今蔵屋與三右衛門隆久(旧裡町三丁目、長瀧氏)、紺屋忠大夫(旧裡町四丁目、山崎氏)、町内の有志に諮って修理。鹿頭等十体。不朽に後裔に貽す」以上がその内容である。1706年の段階で、すでに57年前、つまり、宇和島の一宮祭礼の始まった慶安2年(1649)に鹿踊が登場していたことを証明する史料ということになる。私は先日発表した南予鹿踊に関する論文「南予地方の鹿踊の伝播と変容」(『愛媛まつり紀行』、愛媛県歴史文化博物館、2000)では、この史料を取り上げることができなかった。というのも、原典が確認できなかったのである。山口氏は故人となり、直接お話をうかがえなかったため、直接、龍光院に問い合わせてみたものの、この史料自体、昭和11年に焼失しており、寺側でも史料の内容がわからないらしい。どこかに写本があるのだろうと思って、方々探してみたが見つからない。果ては宇和島の近世史料に最も精通している松山大学の先生にも聞いてみたが、写本の存在はご存じなかった。このようなわけで、内容的には興味深いが、一次史料としては使えず、論文では取り上げることができなかったのである。論文では、18世紀半ばの宝暦年間には宇和島藩領内各地に鹿踊が伝播しているので、18世紀前半以前に鹿踊が仙台から取り入れられたと結論付け、17世紀半ばの慶安年間に宇和島に鹿踊が存在した記録は確認できないと記した。龍光沙門伝照の旧記が写本でもよいので、確認することができれば、結論は変わってくる。さて、この史料の内容から推測できるのは、慶安2年の一宮祭礼の始まりとともに鹿踊が登場していたこと、さらには「鹿頭等十体」とあることから、鹿の頭数を考えるヒントになると思われる。十体とは、裡町三丁目と四丁目の各五体の合計とも考えられるし、八つ鹿の8体プラスその他の頭2体ということも考えられる。実際、現在の鹿踊でも、子供の扮する兎が出る所もある(瀬戸町三机の事例)。ただし、宇和島の鹿踊は江戸時代末期以前の記録から、五ツ鹿であったことが証明されているし、八ツ鹿になったのも大正11年と近代になってからであることから、やはり5体の2セットの計10体と考えるのが妥当だろう。確証はないが・・・。以上、原典が確認できないものの、興味深い内容の史料からわかることを、ここで紹介してみた。原典、写本が確認でき次第、史料紹介もしくは論文に仕上げてみようと思うが、どなたかが見つけてくれれば、先般発表した鹿踊の拙稿をたたき台に、論文を書いてもらえれば、私の研究の進展にもつながると思う。
2000年08月30日