1854年の安政南海地震。愛媛県愛南町でも大きな被害が出ていたことを様々な地震記録から確認することができる。
『西海町誌』468頁に、以下のような史料が掲載されている。
「辰巳屋由来記」の地震記録
嘉永七年甲寅十一月五日、昼七ツ時より大地震い出し、其の上大津波御城下表、御城ならびに御家中、町内大潰家数軒有之候、怪我人も少々有之候、この大地震、しばらく震い治り、又昼夜少々あって、一時の間に三、四度も、ゆり出し、三ヶ年間程は、少なれども鎮不申追々静に相成申候。
右大地震は諸国に有之、隣国土州高知ならびに宿毛方、格別の大震、潰家数軒、其の上出火、猶津波に付、潰焼流れ大変の事と承り候。
其の内、当浦(※内泊と思われる。)にも津波候て、三四尺程上り道場(寺)の庭先まで浪先参り昼夜共二、三べん差込み候。
其の内御庄組在中にも格別の事無之候得共、貝塚村、新田に大潮にて一丈五六尺上り、流家も少々有之趣、無怪我人候、右様に大変なれ共、当地は西側の方石垣の方石少々くずれし事ばかりなり。
右大変の時は、流家は潰る事有之候故、茅にてかり屋致し、板などの処、十四五日も畑中、宮の社内之行候者有数人。
其の内、右宿も方承り、今様に成時候は火の用心、又肝要也。
『西海町誌』468頁に、以下のような史料が掲載されている。
「辰巳屋由来記」の地震記録
嘉永七年甲寅十一月五日、昼七ツ時より大地震い出し、其の上大津波御城下表、御城ならびに御家中、町内大潰家数軒有之候、怪我人も少々有之候、この大地震、しばらく震い治り、又昼夜少々あって、一時の間に三、四度も、ゆり出し、三ヶ年間程は、少なれども鎮不申追々静に相成申候。
右大地震は諸国に有之、隣国土州高知ならびに宿毛方、格別の大震、潰家数軒、其の上出火、猶津波に付、潰焼流れ大変の事と承り候。
其の内、当浦(※内泊と思われる。)にも津波候て、三四尺程上り道場(寺)の庭先まで浪先参り昼夜共二、三べん差込み候。
其の内御庄組在中にも格別の事無之候得共、貝塚村、新田に大潮にて一丈五六尺上り、流家も少々有之趣、無怪我人候、右様に大変なれ共、当地は西側の方石垣の方石少々くずれし事ばかりなり。
右大変の時は、流家は潰る事有之候故、茅にてかり屋致し、板などの処、十四五日も畑中、宮の社内之行候者有数人。
其の内、右宿も方承り、今様に成時候は火の用心、又肝要也。