愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和海沿岸の津波の伝承と記録ー伊方町の事例ー

2012年09月03日 | 災害の歴史・伝承
2012年1月1日付の愛媛新聞41面(正月特集号)に掲載されていた宇和海の津波に関する記事。

そこからの情報である。


伊方町河内地区。中心部の湊浦から少し内陸側に入った地区である。

ここには、津波で浸水した境界を指すとされる地名「一浪」、「二浪」、「三浪」が残る。

一、二、三と徐々に標高が上がっており、津波の第一波、第二波、第三波の到達地点ではないかと推察している。

「一浪」と「二浪」の境界は海抜15メートル程度。

ただし「三浪」の最高点は標高397メートル。堂堂山の中腹。

この周辺に「船頭ケ岳」という場所があり、

大津波で流された小舟を船頭が松の木につないだという伝承が残るという。

この伝承が、どこまで歴史的事実を伝えているのかは不明な部分が多いが、

この地名を完全に無視するわけにはいかない。

地元でも近年では知る人も少なくなっているという。

自分は現地を見てもいないのだが、気になる災害記憶の伝承だったので、紹介しておいた。



なお、伊方町には、中浦の高台にある法通寺に

江戸時代末期から明治時代初期に住職だった秀本上人が記した

「当山略由緒」(そのお寺さんの由緒書)がある。

そこに本尊不動明王像と、弁財天の二体が

地震による津波で運ばれてきたと書かれている。
(同日愛媛新聞記事に掲載された写真より)

「文明六年之頃日本大地震津浪」で、室崎あたり(室ノ鼻)に

高さ二丈(6.06メートル)の山のような波濤が来て、

白崎(湊浦と仁田之浜の境界付近)の浜の中から黒い物が夜に光って、

人々は奇怪なことだと思ったら、

翌朝仁田之浜に二体の仏像が立っていたという。

文明6年は、西暦1474年。

このような津波伝承や記録が伊方町に残っている。



参考文献:愛媛新聞2012年1月1付41面 森田康裕記者執筆記事

【9月6日追記】
この法通寺『当山略由緒』のについては、2011年3月発行の『伊方町町見郷土館研究紀要』第1号の武田和昭・高嶋賢二「佐田岬半島地域の彫刻調査」において上記関連箇所が既に活字化されています。あわせて紹介ておきます。



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