晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

某教育委員会のこと。

2006-10-07 09:55:38 | 社会 生活 教育 文化
 死をもって答えるしかなかった無念を抱いたまま、お亡くなりになった小学生の死を悼み、お悔やみを申し上げます。

 全くひどい話だ。学校と教委が一緒になって事件を秘匿し続けた罪は大きい。市も教委も同様の罪を犯したことになる。なぜこのようなことが起きたのか不思議で仕方がない。息を引き取ったのは事件の4ヶ月後の病院とのことであるが、事故の発生したのは間違いなく学校の、しかも自分の教室で起こされたのだ。おまけに遺書7通も残しているのに、周囲の人特に担任教師もみんなで無視しつづけたのである。亡くなった本人は全く浮かばれないでしょう。

 遺書を手紙といった人もいた。それでも教職にある人の言葉ですか?
遺書とは、遺言を書きしるした書付けであり、遺言とは死を覚悟した人が、死後の処置について身寄りの人に言い残す言葉である。手紙とは全く異質のものであり、その重さが違いすぎます。

 われわれ世代では(今は、難しいと聞くが)先生にでもなるか!といった時代でした。教員になってしまえば、よほど大きな失敗をしない限り階段を登りつめ校長へ、そして最後には教委に残るのが理想と聞く。そうした体制が今回のような重大な間違いを起こす温床になっているのかもしれない。父兄も学校任せではなく、しっかり監視していなければ、閉ざされた学校の中で何が起きているかわからない。

 わが子を守るのは、まずは両親だ。これが実感であります。