『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬
15頁、16頁、17頁
『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
川崎剛志:解題・翻刻
高橋修 :附説
1999年
96頁
『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬
15頁、16頁、17頁
『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
川崎剛志:解題・翻刻
高橋修 :附説
1999年
96頁
チェコの料理
チェコの料理のイメージがわかないので、Wikipediaで調べてみた。
あまりにも知らないので、リンクを張ったままにした。
一つ一つ開けて遊ぶ楽しみといった気分で、時間を費やしている。
チェコについて、ほとんど何も知らないんだなぁ、、、と、あらためて気づく。
チェコの料理(Wikipedia)
料理
プッチーニ《マノン・レスコー》全曲 テバルディ/デル・モナコ
『マノン・レスコー』
あらすじ
主人公は、マノンではなく男性。
マノンを心より愛しすぎているために、不幸になった男
世界の果てまで行こうとも、マノンの後を追っていこうとする騎士グリュー。
オペラでも、バレエでも、気に留めるのは、恋の魔力にボロボロになっていくグリューの姿。
グリューはマノン・レスコーと出会い彼女の魅力のとりこに。
グリューはりっぱな階級の出身でマノンは家格のつりあわない下層階級の女性。
しかしグリューはそんなこと気にも留めず、マノンとグリューは恋愛関係になる。
パリで結婚する約束をしましたが、親の承認が得られず、結婚不可能。
パリでの同居生活は順調に見えましたが、やがてお金が尽きる。
するとマノンは遊びのために、他の金持ちを家に連れ込んでしまう。
グリューは衝撃を受ける。
マノンを独り占めしたいほかの男の戦略で、グリューは実家に連れ戻されてしまう。
浮気な女との恋愛をあざわらう周囲の人たちの嘲笑に負けず、グリューは自分の恋愛を貫く。
「かえしてもらいたいのは彼女なんだ」
「他の男はマノンの心を獲得しません。マノンがぼくを裏切るなんてことがあるでしょうか。いや、ない。ぼくを愛さなくなるなんてことがあるでしょうか。いや、ない。」
「ぼくは男の家に火をつけよう。そして不貞のマノンもろとも黒焦げに焼いてやこう、、、」
グリューは恋愛の狂気に陥る。
マノンは他の金持ちの男に囲われたまま。
マノンの愛情に比してしかるべき金を払い、いい暮らしを与える。
グリューは僧門(キリスト教)に入ろうとする。
世をすてて隠遁し、家柄にふさわしい宗教者への道を歩もうとする。
『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬
12頁、13頁
『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
川崎剛志:解題・翻刻
高橋修 :附説
1999年
96頁
『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
九百九十九人の后たちの悲しみ
12頁
『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年
川崎剛志:解題・翻刻
高橋修 :附説
1999年
96頁
ウクライナ国立バレエ(旧キエフ・バレエ)「白鳥の湖」全編 KYIV BALLET/SWAN LAKE
乱鳥徒然 / ウクライナ国立バレエ(旧キエフ・バレエ)「白鳥の湖」全編
昔、キエフだった頃、大阪にキエフバレエが『白鳥の湖』を演じられたことがあった。
その時、子供濱札小さかったが、大奮発して家族全員でバレエを楽しんだことがある。
話も半ばだろうに、子供たちは其美しさや強弱に思い入れるところがあったらしい。
音楽や舞台とは、理屈で見るのも良いが、完成に任せて楽しむのも良いのかもしれないと思う今日この頃である。
「白鳥の湖」
あらすじ
演出によって物語の展開に相違があるが、あらすじはおおむね次のような内容である。
第1幕・第1場
ドイツのとある王宮の前庭。
王子ジークフリートの成人を祝う宴が開かれており、王子の友人たちが祝福の踊りを踊っている。
そこに王子の母親が現れ、明日行われる舞踏会で花嫁を選ぶよう命じる。
まだ結婚したくない王子は憂鬱な気分になる。
やがて日が暮れると、白鳥の群れが空を飛んでいくのが見え、王子は白鳥狩りをしようと湖へ向かう。
第1幕・第2場
湖畔でのパ・ド・ドゥ 静かな湖のほとり。
弓を構えている王子の目の前で、1羽の白鳥が岸辺に上がり、美しい娘に変身する。
王子の姿に気づいた娘は驚き、怯えるが、やがて身の上話を始める。
娘の名はオデットといい、とある国の王女だったが、侍女たちと共に悪魔ロットバルトから呪いをかけられてしまった。
そのために昼は白鳥の姿となり、夜だけ人間の姿に戻るのである。
この呪いを解くただ一つの方法は、まだ誰にも愛を誓ったことのない男が、オデットに愛を捧げることである。
2人は惹かれ合い、王子は自分が愛を誓おうと申し出るが、夜明けとともにオデットたちは白鳥の姿に戻り、飛び去って行く。
第2幕 第2幕
舞踏会に現れたオディール(中央) 王宮の舞踏会場。
ジークフリートの花嫁候補が様々な国から訪れるが、王子は彼女たちには目もくれず、オデットのことを思い続けている。
そこへ、客人に変装した悪魔ロットバルトとその娘オディールが現れる。オディールは悪魔の魔法によって、オデットと瓜二つの姿になっている。オディールをオデットと思い込んだ王子は、その場で結婚の誓いを立ててしまう。その途端、ロットバルトたちは正体を現し、広間の窓に映る悲しげなオデットの姿を示しながら、王子をあざ笑って去っていく。
王子は自分の過ちを悔い、急いでオデットのもとへ向かう。
第3幕
再び湖のほとり。
侍女たちのもとへ戻ったオデットは、王子の誓いが破られたことを告げる。
後を追ってきた王子はオデットに赦しを請う。
オデットは王子を赦し、2人は湖に身を投げる。
2人の愛の力を前にした悪魔は滅び、恋人たちの魂は永遠に結ばれる。
演出による違い 上記は3幕4場構成の場合のあらすじであるが、4幕構成で上演される場合は、第1幕第1場・第2場がそれぞれ第1幕・第2幕となる。
また、物語の結末は演出によって様々である。
上記のあらすじは、オデットと王子が命を落とすものの死後の世界で結ばれる、というものであるが、2人が湖に沈んで終わる悲劇的な結末や、悪魔を倒した2人が現世で結ばれるというハッピーエンドもある。
チェコ共和国の地理と環境
地理
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。
国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。
北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。
高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェシカ山である。
環境
チェコには現在、4つの国立公園(シュマヴァ国立公園(英語版)、クルコノシェ国立公園(英語版)、チェスケー・シュヴィーツァルスコ国立公園(英語版)、ポディイー国立公園(英語版))と25の保護景観地域が設けられている。
2018年の森林景観保全指数(英語版)の平均値は1.71/10で、172ヶ国中160位にランクされている。
「法然と極楽浄土展」(前期)に行く。
カタカナの中に漢字混じりの『方丈記』 は十二年目の再開で、感無量となり、厚いものがこみ上げてくる。
あまりの嬉しさに、『方丈記』の前に三度戻り、読み楽しんだ。
説明によれば、展示されていた『方丈記』のお軸は、【日本最古の写し】だと記されている。
しかし、お軸の初めの部分には、しっかりとした別筆文字で、【鴨長明 真筆】とし記されていた。
この二つの記述に対し、私は興味深いと感じた。
『第76回 正倉院展』奈良国立博物館 2024年秋
土曜日から始まった『第76回 正倉院展』に、行く。
月曜日で本来は博物館は休みだが、正倉院展の間は月曜も開催されているのか、本日見ることができた。
展示数は年々減っていくような気がする。
今年においては、ペルシャのガラスボールなどが全くなかったのが、残念。
今年の目玉は、「黄金瑠璃鈿背の十二稜鏡」(南倉70)だと思うのは、私だけだろうか。
七宝焼きのような鏡飾りであるが、今でも色鮮やかで美しい。
研究者によっては、鏡をかけるために軽量に工夫されている云々と唱えていらっしゃるが、私はそうは思わない。
鏡は儀式用あるいは祭儀用、飾るようであると思われる。
鏡はかけられていたのではない。
支えられる日本の手が出た道具に斜めに立てかけられていたと考えるのが、正当だと考える。
なので普段は飾りが表向き。
鏡面は使用されるときに表に向けられたと考えるのが、普通だと思う。
取っ手部分に紐をつけて持ち上げるので、軽量に、、、といった専門家のご意見だが、紐のみで持ち上げるといったことは、七宝焼き(ガラス仕立て)の文様の鏡では考えにくい。
一人、或いは二人で手を添えてていねいにもちあげたと想像するのは、私だけだろうか。
それほどまでに美しい文様の鏡であった。
下の写真がそれである。
月曜とあってか、並ばず入ることができたが、帰るころには長蛇の列であった。
昨年は前期二回、後期二回の合計四回を楽しんだが、この分だと今年は、よくて後一回行く程度かな(笑)
動画でわかる《マノン・レスコー》
『マノン・レスコー』アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ /動画でわかる《マノン・レスコー》
アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ (Antoine François Prévost d'Exiles、1697年4月1日 - 1763年12月25日)は、フランスの小説家。
カトリック教会の聖職者であったため、アベ・プレヴォ(Abbé Prévost、僧プレヴォ)と短縮して呼ばれることが多い。
人物・生涯 エダン(フランス語版)にて弁護士の子として生まれた。
イエズス会学校で学び、幾度か聖職を離れて軍に入隊したり、逃亡して外国へ行った経験が、高名な小説『マノン・レスコー』の土台となった。
また著作家として、15世紀以降のヨーロッパで出版されたあらゆる紀行文をまとめて『旅行の歴史』を出版した。
3分でわかる!バレエ「マノン」|新国立劇場バレエ団
『マノン』あらすじ
『マノン』
原作はマノン・レスコー
フランスの貴族アベ・プレヴォーによる1731年の小説『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』。
正しくは『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、7巻からなる自伝的小説集『ある貴族の回想と冒険』の第7巻に当たる。
ファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を描いた文学作品としては最初のものといわれ、繊細な心理描写からロマン主義文学の走りともされる。
この作品に基づくオペラ(歌劇)としては、マスネによる『マノン』の他、プッチーニの『マノン・レスコー』も有名。
なお、マスネによる歌劇『マノン』の音楽は、バレエ『マノン』では一切用いられていない。
バレエでの音楽は、元ダンサーのレイトン・ルーカス(Leighton Lucas/1903-1982)により、マスネの他の楽曲が編曲・アレンジされたものが用いられている。
あらすじ・ストーリー
パリ郊外の宿屋に一台の馬車が停まった。
中から降りて来たのは、ひときわ美しい少女マノン。
家庭の事情で修道院に入るため、途中で立ち寄った宿屋だった。
宿屋にいた若き学生デ・グリュー(グリュウ)は、この美少女マノンにたちまち一目惚れしてしまい、二人で駆け落ちしようと彼女を説得する。
マノンも優しいデ・グリューに心を開く。
マノンに惹かれたのはデ・グリューだけではなかった。
好色な老富豪ムッシューG.Mはマノンの兄レスコーに彼女の身請け話を持ちかけ、大金と引き換えに兄レスコーの同意を取り付けた。
しかし、ムッシューG.Mと兄レスコーが話している間に、マノンはムッシューG.Mの財布を抜き取り、デ・グリューと駆け落ちする。
しばらく二人は同棲を続けるが、デ・グリューの留守中にムッシューG.Mが現れ、大金でマノンを説得し、愛人として連れ去ってしまう。
ムッシューG.Mのパーティー会場で、マノンとデ・グリューは再会する。
マノンを説得するデ・グリューに、
「カードでイカサマしてムッシューG.Mの金を巻き上げられれば一緒に行く」
と答えるマノン。
だがイカサマは見破られてしまう。
逃げるマノンとデ・グリュー。
しかし荷造りの途中でマノンが警官に捕まってしまう。
アメリカに流刑になるマノン。
デ・グリューはマノンを追ってアメリカに飛んだ。
ニューオルレアンの刑務所に送られたマノン。
美しい彼女はすぐに看守の目にとまった。
看守がマノンを口説いている所へ踏み込んでくるデ・グリュー。彼は看守を刺してしまい、マノンを連れて逃亡する。
ルイジアナの沼地に逃げ込む二人。
疲れ果てたマノンは倒れ、デ・グリューの腕の中で静かに息絶えるのだった。
プリマ・ドンナ・オペラの最高峰!ネトレプコが迫真の演技と絶唱で大女優を絶唱
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ 1
(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。
その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。
イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。
JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998
『マノン』/ JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998
『マノン』 あらすじ(Wikipedia)
第1幕
デ・グリューとマノンの出逢い フランス、アミアンの宿屋。
この宿屋に、放蕩貴族のギヨーは友人のブレティニや高級娼婦達と食事をしに立ち寄る。
しかし、宿屋の主人がなかなか食事を運んでこないので腹を立てている。漸く食卓が整ったところに、1台の馬車が到着し、ブルジョワ達の群衆の中からマノンが降り立つ。
マノンはその享楽的性格から修道院に入れられることになっていたが、彼女自身はその運命を既に諦めていた。
マノンは、迎えに来た従兄レスコーに対して、この心情を表すアリア「私はまだぼうっとしています」を歌う。
マノンの美しさに目を奪われたギヨーは、金と身分にものを言わせてマノンを連れて帰ろうとするが、レスコーに阻まれる。
レスコーはマノンに節操を守るように説教し、自らは友人達と賭け事をするためその場から離れる。
そこに、父の元へ向かおうとしていた騎士デ・グリューが登場し、マノンの美しさに目を奪われる。
ためらいがちにマノンに話しかけたデ・グリューは、マノンの修道院入りの話を聞くと、それを思いとどまらせて、2人でパリに行くことを提案し、マノンも同意。
2人は憧れの街パリへ逃れる。(以下、楽譜上省略可能)そこに登場したギヨーとレスコーはマノンが駈落ちしたことに怒り、集まった群衆はまんまとしてやられた2人を笑い飛ばす。
第2幕
パリ、ヴィヴィエンヌ通りのデ・グリューとマノンの家。
2人は、貧しくとも愛情に満ちた生活を送り、デ・グリューは、マノンとの結婚の許しを求める手紙を父に記す。
そこへ突然、マノンを我が物にしようとするブレティニと、彼に買収されたレスコーが現れる。
レスコーはデ・グリューとマノンとの仲を認めたふりをし、デ・グリューが書いた手紙を満足げに読み上げる。
その間にマノンはブレティニーから
「貧しい生活とおさらばして、贅沢な暮らしをしよう」
と誘惑され、さらにデ・グリューがその夜実家に連れ戻されることになっていることを知らされる。
奢侈を求めるマノンは葛藤を抱えながらも、デ・グリューとの別れを決意。
ブレティニとレスコーが一旦その場から離れ、デ・グリューは手紙を出すために不在にする。
彼女はアリア「さよなら、私たちの小さなテーブルよ」を歌う。
デ・グリューが帰宅すると、マノンが泣いている。
彼は、その涙の理由が分からず、アリア「夢の歌」を歌い、彼女を慰める。
そこへ父親の配下が現れ、デ・グリューを連れ去ってしまう。
マノンは窓辺に駆けより、「私の可哀想な騎士さん!」と絶叫する。
第3幕
第1場
祭りで賑わうクール・ラ・レーヌ。
ブレティニの目を盗んで、レスコーと3人の高級娼婦たちが遊びに繰り出している。
そこへ女王然として登場したマノンは、その美しさを群衆に讃えられる。ブレティニは、ギヨーの
「自分からマノンを奪わないでほしい」
との懇願を退け、金に物を言わせてオペラ座のバレエ団を呼び寄せ、マノンを誘惑する。マノンはここで群集を前にアリア「私は全ての道を歩く」、「甘い愛に誘う声に従いましょう」を歌う。
ここで現れたデ・グリューの父親、伯爵とブレティニの会話から、デ・グリューがサン・シュルピスの神学校にいることを知ったマノンは、友人の話とごまかしつつ、デ・グリューが自らのことを愛しているか尋ねるが、伯爵はデ・グリューがマノンのことを既に忘れていると述べ、マノンは衝撃を受ける。
マノンはバレエもろくに見ず、デ・グリューの元へ向かうためその場を立ち去る。
第2場
サン・シュルピス大聖堂。
デ・グリューはマノンとの思いを断ち切るために信仰に身を捧げることにした。
だが、マノンへの思いは断ち切りがたくアリア「消え去れ、優しい幻影よ」を歌う。
そこへマノンが登場。
それに驚くデ・グリュー。
彼はマノンのかつてのよりを戻す願いに耳を貸そうとしない。
しかし、マノンが「あなたの手を握ったことを思い出してください」という「誘惑のアリア」を歌うと、心が溶かされてしまう。
第4幕
賭博場ホテル・トランスシルヴァニ。
共同生活を再開したマノンとデ・グリューであったが、マノンの相変わらずの享楽的な生活は変わらない。
そのためデ・グリューは亡き母の遺産をとうとう使い果たしてしまう。
マノンはデ・グリューに賭博で金を稼ぐことを提案し、ためらう彼をホテル・トランシルバニアの賭博場に連れ出す。
そこにはギヨーがいて両者は賭博で対決。
幸運にもデ・グリューは賭博でもギヨーに勝利するが、それに腹を立てたギヨーはデ・グリューがいかさまをしたとでっち上げる。
2人は哀れ、警察に逮捕される。
第5幕
ル・アーブルへの道中。
捉われの身となったマノンとデ・グリューであったが、デ・グリューは父親の力添えで自由の身となる。
しかし、マノンは売春婦としてアメリカに売り飛ばされることになった。
マノンの奪還を試みるデ・グリューであったが、レスコーから
「兵が集まらなかった」
と聞かされ愕然とする。
マノンの奪還が絶望的となり落胆するデ・グリュー。
それに同情したレスコーは流刑船の関係者を買収し、両者の逢瀬の場を用意する。果たして。
マノンとデ・グリューの逢瀬は実現したが、マノンは衰弱して明日とも知れぬ命であった。
2人は熱い抱擁を交わし、変わらぬ愛を確かめ合うが、マノンは将に息絶えようとしていた。
デ・グリューは
「この手を握ったわが手を思いだせ」
と叫びマノンを励ますが、マノンは空しく息絶える。
チェコの歴史
歴史(Wikipedia)
古代〜中世まで 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。
その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。
7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。
9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。
大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。
カレル4世時代のボヘミア王冠領 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。
907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。
10世紀後半からカトリックが普及した。
11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。
12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。
13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。
14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。
ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。
首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。
この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。
15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。
その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。
チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。
この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。
なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。
チェコ共和国
チェコ共和国(Wikipedia)
通称チェコは、中央ヨーロッパにある共和制国家。
首都はプラハである。
国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
概要
国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。
かつてはチェコスロバキアと呼ばれた共産主義体制国家の構成地域であったが、1989年からの革命によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ分離して現在の同国が成立した。
NATO・EU・OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。
国名
正式名称(チェコ語)は Česká republika(チェスカー・レプブリカ)。通称は Česko(チェスコ)。
英語での公式名称は Czech Republic[6]であった。
チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechiaがあり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが、現在一般的に使われているとは言いがたく、Czech Republic をそのまま用いることが多い。
ドイツ語では Tschechische Republik。
外務省統
表記はチェコ共和国である。
通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された。
かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。
これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。
チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした Čechy、ブルノを中心とした Morava、さらにポーランド国境近くの Slezskoの3つの地方がチェコ共和国を形成している。
ボヘミア地方を示す Čechy(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。
歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。
そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、Česká republika、Czech republic を用いる。
現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける Česko は、チェコスロバキア時代の通称 Československo から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。