乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

ウィーンの観光、劇場、カフェハウス

2024-10-27 | 資料での旅

ウィーンの観光、劇場、カフェハウス

 

観光  

 カールス教会  シュテファン大聖堂  ペーター教会 宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。  

 

 また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、カールス教会など建築分野でも傑作が存在する。  

 

 宮殿、大聖堂 シェーンブルン宮殿 ベルヴェデーレ宮殿 ホーフブルク宮殿 カールス教会 シュテファン大聖堂 ヴォティーフ教会 ペーター教会 聖ミヒャエル教会

 

 

劇場

 ブルク劇場 ドイツ語圏で最高の格式を誇るとされる劇場

 

 

カフェハウス  Kaffee Alt Wien

 ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。

 19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。

 多くのカフェは当時と変わらぬ姿で多くの観光客を惹きつけている。

 なお、ウィンナ・コーヒーは「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。

 

  ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。  

 カフェ・ゲルシュトナー (Gerstner):1847年創業。

 旧皇室御用達 (k.u.k.) でケルントナー通りにある。

 国立歌劇場内やウィーン楽友協会ホール内にも出店しており、コンサートの休憩時間に利用できる。

 美術史博物館内にも支店がある。

 

 カフェ・ラントマン:ウィーンで最もエレガントなカフェと呼ばれた老舗。

 1873年創業。東京の青山に支店がある。 ホテル・ザッハー:国立歌劇場の裏にある。

 ザッハトルテの元祖。

 

 カフェ・デメル (Demel):同じくザッハトルテが名物。旧皇室御用達。 カフェ・ハイナー (Heiner):旧皇室御用達。 カフェ・ツェントラール (Central):ペーター・アルテンベルク、アルフレート・ポルガー、エゴン・フリーデルなど多くの「カフェ文士」が愛用。

 

 ポルガーに『カフェ・ツェントラールの理論』なる文章がある。

 グリーエンシュタイドゥル (Griensteidl):フーゴ・フォン・ホーフマンスタールなど多くの世紀末ウィーンの文人・芸術家が愛用。 シュヴァルツェンベルク (Schwarzenberg):楽友協会やホテルインペリアルに近い。

 

 リング沿いにある由緒あるカフェ。 ショッテンリング (Schottenring):リング沿いで最も歴史のあるカフェであったが、建物改装を機に閉店。 アルト・ヴィーン (Alt Wien):内装など、店名の通り古さを感じさせる店。 オーバーラー (Oberlaa):歴史は古くないが、ウィーン市内に多くの支店をもつ人気のカフェハウス。

 

 ハヴェルカ (Hawelka):旧市街の中心部にあり、開店以来内装を変更していない。 カフェ・ムゼーウム (Museum):アドルフ・ロースによる開店当時の内装のままに復元されたカフェ。

 グスタフ・クリムトはじめ世紀末ウィーンの建築家や画家が多く出入りしていた。 ティローラーホーフ (Tirolerhof):自家製のアプフェルシュトゥルーデルが人気。

 

 カフェ・モーツァルト (Mozart):国立歌劇場裏。

 ブルクガルテンにあるモーツァルト像は、かつてこのカフェの目の前にあった。

 ブロイナーホーフ (Bräunerhof):ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが常連だった。

 

 カフェ・シュペール (Sperl) 美術館・博物館  美術史美術館  美術史美術館  ベルヴェデーレ宮殿  ウィーン軍事史博物館 ウィーンの歴史を反映して多数の美術館・博物館がある。

 

  美術史美術館 - コレクションの一部はエフェソス博物館などの分館にも展示。 ウィーン自然史博物館 ホーフブルク王宮内宝物館 - 美術史美術館の分館であり、聖遺物として聖槍(ロンギヌスの槍として知られ、さらに中央部に聖釘が針金で固定されている)や数々の聖釘がある。

 

 アルベルティーナ リヒテンシュタイン美術館 オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ) - ベルヴェデーレ宮殿の上宮にある。

 クリムトをはじめ、オーストリアの画家の作品を集めた美術館。

 レオポルド美術館 - エゴン・シーレのコレクションでは世界最大のもの。

 ユダヤ人の眼科医レオポルド博士のコレクションを、オーストリア政府が買い取り美術館にした。

 

 ルードヴィヒ財団現代美術館 ミュージアムクォーター (MuseumsQuartier) 内。 造形美術アカデミー絵画館 - 造形美術アカデミー(美術学校)の学内にあり、ヒエロニムス・ボスのコレクションを持つ。

 アドルフ・ヒトラーはこの美術アカデミーの受験に失敗した。 オーストリア応用美術博物館 (MAK) ウィーン軍事史博物館 ウィーン民俗博物館 ウィーン路面電車博物館 オーストリア演劇博物館 ウィーン犯罪博物館 エスペラント&地球儀博物館 エッセルコレクション - ウィーン北郊クロスターノイブルクにある現代美術館。Baumaxの創業者エッセルにより建てられた。 エゴン・シーレ美術館 - シーレの出身地トゥルン(ウィーン郊外)にあり、デッサンなど小品が年代順に並んでいる。

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ウィーンの鉄道

2024-10-27 | 資料での旅

 

ウィーンの鉄道

 

鉄道  

 ウィーン中央駅

 主要幹線はオーストリア連邦鉄道 (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。

 

  かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。

 例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。

 また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。

 このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。

 

 周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。  

 

 西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かうオーストリア西部鉄道はEUからTrans european network (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。

 このため、高規格路線化の工事が順次進められている。

 

 2008年末の新車両の導入により最高速度200 km/hで運行されている。

 ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。  

 

 また、ポーランド南部まで延びている軌間の広いシベリア鉄道をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。  

 

 

 市内の主要駅は以下の通り。  

 

 ウィーン西駅 (Westbahnhof):ドイツ、スイス、リンツ、ザルツブルク、インスブルック方面。

 地下鉄U6・U3が発着。

 市内最大の商店街であるマリアヒルファー通りに近い。

 

 

 ウィーン中央駅 (Hauptbahnhof):2015年に全面開業し、全ての国際列車、優等列車がこの駅に停車するようになった。

 ウィーン・ミッテ駅 (Wien Mitte):Sバーンの主要路線および、地下鉄U4・U3, 空港特急CATが発着し、チェックイン設備もある。

 地下鉄を含めた1日の発着列車数がオーストリア国内で最も多い駅である。 ウィーン・マイドリング駅 (Wien Meidling):ウィーン中央駅が開業するまでの間、南駅の機能は主にこの駅に移されていた。

 U6やWiener Lokalbahn, 路面電車62などが通じている。

 ウィーン西方面からウィーン中央駅に向かう列車はすべてウィーン・マイドリング駅にも停車する

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ウィーンの川と運河、森林と公園、気候

2024-10-27 | 資料での旅

 

ウィーンの川と運河、森林と公園、気候

 

以下、Wikipedia

川と運河

 

 市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。

 かつては氾濫を繰り返したこの川は、19世紀に大規模な治水工事が行われたことでまっすぐな姿になった。

 

 旧市街に接してドナウ運河が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。

 

 ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、左岸は地下鉄の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。

 

 

 森林と公園

 市西部はウィーンの森として知られる森林地帯になっている。

 散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。

 

 13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、市民に開放されている。  

 

 元皇室の料地でヨーゼフ2世が一般市民に開放したプラーター公園があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した観覧車がある。  

 

 墓地 ウィーン中央墓地は、帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。

 

 著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。  

 

 サンクト・マルクス墓地(ドイツ語版、英語版)にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、中央墓地に墓碑がある。グスタフ・マーラーの墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区のグリンツィング墓地にある。

 

 

 気候

 ウィーンの気候はケッペンの気候区分によれば、西岸海洋性気候と湿潤大陸性気候(亜寒帯湿潤気候)の変わり目に位置する。

 夏は適度な暑さで、平均気温は22 - 26℃の範囲で経過。

 最高気温は30℃を超えることもあり、最低気温は15℃位である。

 冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がる。12月から3月にかけては降雪も見られる。

 春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。  年間平均降水量は620 mm程度。

 ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で、年平均降水量が700 - 800 mmになる。

 平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと、市内では乾燥した区域である。

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現代のウィーン

2024-10-27 | 資料での旅

現代のウィーン

 

現代のウィーン(whikipedhia )

 1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。

 150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。

 

 これは2004年に中東欧8か国が欧州連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリア、2013年にはクロアチアが加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。

 

  ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。

 このため2005年に法人税などが引き下げられた。  

 

 ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。

 

 またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。

 

 他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。

 ICCAによる2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。

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ウィーンの歴史

2024-10-27 | 資料での旅

ウィーンの歴史

 

 

ウィーンの歴史(Wikipedia)

 古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。

 これがウィーンの地名の起源と言われている。

 

  ハプスブルク家の帝都  1683年のウィーン  18世紀のウィーン  シェーンブルン宮殿  1900年ウィーン国立歌劇場 中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。

 

 1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。

 

 1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。

 バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。

 

 14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。

 この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。

 

 やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。

 

 16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。  

 

 ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。

 

 1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。

 しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。

 

 1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。

 これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。

 

 18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。  

 

 19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。

 1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。

 

 1873年にはウィーン万国博覧会も開催。

 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。

 路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。

 

 現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。  

 

 オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。

 

 帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。  

 

 帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。

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ウィーン  概要

2024-10-27 | 資料での旅

 ウィーン  概要

 

 

概要  (Wikipedia)

 

 ウィーンの位置

 左のアルプス山脈と右のカルパティア山脈(図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもある  

 

オーストリアにおけるウィーンの位置  

 ウィーン市街の遠景 左に国際機関本部の集積地(ウィーン国際センター)があり、ドナウ川をはさんで旧市街が広がる ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。

 

 マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。

 

 リングと呼ばれる環状道路とその周囲の街区は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいたグラシと呼ばれる防御用の空地を利用して造られたものである。

 

nシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。

 

 ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(現在は[いつ?]大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。

 

 

 ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。

 ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である。

 そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。

 

 

 オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。  

 

 

 その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。  

 

 

 また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。

 これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。  

 

 

 現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。

 ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。  国際連合ウィーン事務局 (UNOV) 国際原子力機関 (IAEA) 国際連合工業開発機関 (UNIDO) 包括的核実験禁止条約機構準備委員会 (CTBTO) 国連薬物犯罪事務所 (UNODC) 石油輸出国機構 (OPEC) 欧州安全保障協力機構 (OSCE) 国際新聞編集者協会 (IPI) 国際ドナウ河保護委員会 (ICPDR) 2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された[5]。ヨーロッパの都市ではロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリン、フランクフルトに次ぐ6位。

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ウィーン / ウィーン6選 おすすめの場所

2024-10-27 | 資料での旅

 ウィーン / ウィーン6選 おすすめの場所

 

ウィーン6選(NEWT)

 

ウィーン(Wikipedia)

 ウィーンはオーストリアの首都。

 9つの連邦州のひとつの都市州である。

 

 2017年1月1日時点での人口は186万7582人。

 

 ヨーロッパ有数の世界都市である。  

 

 第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。

 

 クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。

 

 

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『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

2024-10-27 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

観音菩薩に祈願する。

5頁、6頁、7頁

 

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

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大千穐楽と市川團十郎の楽屋入り

2024-10-27 | 舞台・音楽 雑感メモ

 

大千穐楽と市川團十郎の楽屋入り

 

 

 大千穐楽に芝居に行ったら、案の定、大賑わいで熱気むんむんであった。

 人々の拍手の爆発、大向こう。

 成田屋さんのはっぴをお召しになられた方々。

 

 私は松竹座の行帰りは楽屋入り口を歩くが、千穐楽は3、40人の方々が團十郎さんの入待ちをされていた。

 もうすぐだということだったので私も待つこと2分。

 大きな黒ワゴンの車から團十郎さんとご子息が下りてこられた。

 楽屋の入り口まで車が付いた楽屋入りを始めて見た。

 

 人々は

「團十郎さん、おめでとう」

「千穐楽、おめでとう」

と、黄色い声を放たれていた。

 

 大千穐楽

 そう

 この日で市川團十郎の襲名披露は、二年をかけて、すべて終える。

 

 いやーーー

 大千穐楽も良いものだ。

 

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Mozart 6  モーツァルト:魔笛  あらすじ/魔笛  /モーツァルト《魔笛》ミラノ・スカラ座1995年

2024-10-26 | 繰り返し記号 memo

モーツァルト《魔笛》ミラノ・スカラ座1995年

 

 

Mozart 6  モーツァルト:魔笛  あらすじ/魔笛  /モーツァルト《魔笛》ミラノ・スカラ座1995年

 

魔笛  あらすじ  

 

【時と場所】 

 古代、エジプト  

【登場人物】

 タミーノ(T): 王子 パミーナ(S): 夜の女王の娘 パパゲーノ(Br): 鳥刺し パパゲーナ(S): パパゲーノの恋人 夜の女王(S): 世界征服を狙う女王 ザラストロ(Bs): 大祭司 ほか  

 

 

【第1幕】

 時は古代、舞台はエジプトで架空の世界。

 王子タミーノは岩山で大蛇に襲われ気を失いますが、「夜の女王」配下の3人の侍女達が彼を助けます。

 それなのに、鳥の狩猟中にたまたま通りかかったパパゲーノが、助けてやったのは自分だと嘘を付きました。

 パパゲーノは侍女達によって、口に錠を掛けられてしまいます。

 

 王子タミーノは、侍女達から女王の娘パミーナの絵姿を見せられ一目惚れします。

 

 女王は、悪人ザラストロに捕らえられた娘を救い出してくれれば、娘を王子に与えると約束しました。

 

 王子は侍女達から「魔法の笛」を受け取り、ザラストロの神殿に行くことにします。

 

 一方、口の錠前を外してもらえたパパゲーノも成り行きで王子について行くことになり、「魔法の鈴」を受け取りました。

 

 ザラストロの神殿で離ればなれになってしまった王子タミーノとお供のパパゲーノ。

 

 パパゲーノが先にパミーナを見つけました。

 

 その後、魔法の笛と鈴の力で導き合ったタミーノとパミーナは、ザラストロの前でついに対面。

 

 お互いを運命の人だと思います。

 

 実はザラストロは悪人ではなく偉大な祭司で、世界征服を企む夜の女王の邪悪な野望の犠牲とならないようにパミーナを保護していたのでした。  

 

 

【第2幕】

 ザラストロはタミーノに、パミーナを得るための試練を授けます。

 ついでにパパゲーノも恋人を得るために試練を受けることになりました。

 まずは「沈黙」の試練。

 沈黙するタミーノに、事情を知らないパミーナは深く悲しみますが、立派に耐え抜きます。

 次の「火」の試練、「水」の試練は、タミーノとパミーナの二人で「魔法の笛」の力を借りて乗り越えました。

 

 一方のパパゲーノはというと、辛抱するのは大嫌いで、試練から脱落してしまいます。

 それでも「魔法の鈴」の力を借りて、とうとう若い娘パパゲー“ナ”と出会い、恋人になりました。

 

 さて、こうなってしまっては夜の女王も黙っていられません。

 侍女達とともに、自らザラストロの神殿に侵入を試みます。

 しかし、雷に打たれ闇夜に落ちていきました。

 ザラストロは試練に打ち勝ったタミーノ、パミーナたちを祝福して、太陽神の子オリシスとイシスを讃えたのでした。

 

 

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

Mozart 3  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕

Mozart 4  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

Mozart 5  モーツァルト:魔笛 /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

Mozart 6  モーツァルト:魔笛  あらすじ/魔笛  /モーツァルト《魔笛》ミラノ・スカラ座1995年

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Mozart 5 モーツァルト:魔笛 /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

2024-10-26 | クラッシック音楽

W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

Mozart 5 モーツァルト:魔笛  /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

オペラの内容  

 魔笛の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。

 歌や会話の言語もドイツ語で、レチタティーヴォに代えて台詞で筋を進行する、ジングシュピールの形式を用いた。

 

  物語は王子によるお姫様の救出劇の形で始まるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わる。

 シカネーダーが台本作成中に他の作品で似た筋書きが発表されたため急いで変更したためであるという説もあるが、単なる意外性を求めたストーリー上の工夫とみなすこともある。

 

 これまでの各種の解釈に対して、夜の女王の国と、ザラストロの国とでは善悪見方が相反するもので、全て相対的な世界であるとすれば筋について問題はないと考えられる。

  本作にはフリーメイソンのさまざまなシンボルや教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に象徴的に使っているのが目立つ。

 

 序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。

 2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。現在では否定されているが、モーツァルトの急死はフリーメイソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどである。

 

  いずれにせよ、第2幕ではそれまでの救出劇から登場人物の(フリーメイソン的な)修行と試練の内容に変わる。

 これと対照的なのがブッファ的・道化的なキャラクターのパパゲーノである。

 シカネーダー自身が演じる役なので当然だが、要所要所に登場し、場をもりあげる役割を果たしている。

 モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えており、魔笛を代表するキャラクターとなった。  

 

 途中から善悪交代する夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。

 このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。

 特に夜の女王の2つのアリア(No4, No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころに歌って注目をあつめることがよくある。

 

 ドイツ圏のソプラノには、若年期に夜の女王を演じた後、娘のパミーナへ役を転じる例も多い。

 その一人であるルチア・ポップに至っては、夜の女王の後で三人の童子の一人を演じた記録が残っている。

 ザラストロの2曲(No10, No,15)も、低音が豊かなバッソ・プロフォンド歌手にとって重要なレパートリーのひとつでもある。

 

  なお、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、「魔笛」を愛し、その第2部を執筆しようとしたが、多神教的性格を好まなかったためか断念した。

 

Mozart 1  モーツァルト ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488

Mozart 2  モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 k 550

Mozart 3  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲/全幕

Mozart 4  モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》  オペラ

Mozart 5  モーツァルト:魔笛 /W. A. モーツァルト:魔笛 (レヴァイン, 1991年)【全曲・日本語字幕】

 

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『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

2024-10-25 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

観世音のお計らい、とおぼし召し、御喜びはきりなし

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

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『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

2024-10-25 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

 

 

 十一面観世音菩薩

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

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『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

2024-10-24 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

 

 

 以前にもさらっと味わっていた『熊野権現縁起絵巻』を書き起こしながら読み始める。

 はじめのページに行く前に、おおむねの内容をさらってみたが、やはり縁起絵巻を含め絵巻物は興味深いと感じる。

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

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つれ/″\種 上  正徹本 7  第二十三段~第二十七段(3頁)

2024-10-24 | つれ/″\種→徒然草 詳密色彩大和絵本(八十六段より)

つれ/″\種 上  正徹本 7  第二十三段~第二十七段(3頁)

二十七段最初

 

二十七段、二十八段、

 

二十八段 二十九段

 

二十九段、三十段(つづく)

 

 

つれづれ種(徒然草)

正徹とは 清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本

卜部兼好 吉田 兼好  1  

卜部兼好 吉田 兼好  2   

つれ/″\種 上  正徹本 1  一段~二段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 2  二段~八段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 3  八段~十四段(5頁)

つれ/″\種 上  正徹本 4  十四段~十九段(6頁)

つれ/″\種 上  正徹本 5  十九段~二十三段(4頁)

つれ/″\種 上  正徹本 6  二十三段~二十七段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 7  第二十三段~第二十七段(3頁)

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