日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

京極へ

2017-11-10 08:46:32 | 日記
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」コロサイ2:6



三条通りから京極へ入ります。若い時は三条から四条は我が家の庭みたいなもの。学校帰り友達とよく来ました。いや別に悪い事した訳ではないですよ。急に授業が早く終わる時があったのです。のんびりした時代でした。今なら名所旧跡が一杯ある学校近辺をもっと歩くべきでした。その頃は名所には興味がないのですよね。私には家を継ぐという重荷で希望がなく、1時の楽しみを追い青春を謳歌していたのかも。



海外からのお客さまは京極へ来られますね。





京極にホテルなんて考えられなかったですが、ホテルが出来てました。こんな料亭があったかな?



広場に鳩が。平和です。

上の言葉
イエス様を主と信じること、これが「受け入れる」ことです。「主」でありますから、イエス様の命令に従います。また、イエス様のしもべであります。そうなると、当然日々の生き方が変るはずです。自分の損得利害や情欲・感情に従えなくなります。そのように、生き方が変らなければ信じるとはいえません。イエス様にあって歩くことが私たちの救いであり、幸いを得る道です。(KE)

京都へ

2017-11-09 09:25:15 | 日記
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8



ものくさな私は京都や神戸は近いのにめったに行かなくなった。この宇治市で充分まに合うことが多くなった為でしょうか。宇治市で出来ないものは仕方ありません。先日京都三条へ行きました。ガレージも京都風です。



浮世絵を沢山販売されているお店の様です。



この日は祭日。多くの若者であふれてこちらも気を若く持って。



何のお店でしょう。



オシャレなお店です。バッグ欲しいな。

上の言葉
人は自分より強い者には卑屈なまでに従順になり、弱い者には高慢不遜になりやすいものです。そのために、行動や存在が不安定になり、根ざすところの無い浮き草のようです。イエス様は本来人のあるべき姿です。絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。たとえそれが死の道であっても、神様のみこころに服従するとき、神様もまたそれに応答してくださいます。主に倣う者となってください。(KE)

山の上へ

2017-11-08 08:33:17 | 日記
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ6:12



少しいつもの場所から上へ登ります。山の天辺ですが。山といっても標高400m位でしょうか。山はいいです。爽快であります。本格的な登山なんてやった事はないですから、車で登れる所ばかり。弱虫ですね。



遠くを見れば何と濃い霧でしょう。ゴーストなのか霧なのか、変なものが映ります。



ススキも多いです。



茶畑のアングルも変わります。



これからもう少し高いところへ登りたいです。

上の言葉
信仰生活はある意味で戦いの連続です。神様を知らなかったら有りえない戦いです。神様に敵対する力は私たちのうちにあるもので、外側の境遇などではありません。私たちを不安に落としいれ、怒りに駆り立て、恐れを抱かせて、失望落胆させ、絶望的な死へ追いやる力、これがサタンの姿です。自分のなかに働く悪の力に打ち勝つには十字架による以外にありません。(KE)

夫の腸検査

2017-11-07 18:39:07 | 日記
「だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」第一コリント3:7



今日は夫の腸検査の為に早朝から家を出発し、9時から下剤の入った2Lの水を2時間かけて飲みました。初めむかつきがあり心配しましたが、何とかそれは終了。2時間後は内視鏡検査。



結果は大腸にポリープ5個も。私は胃にポリープ5個ですが、腸のポリープが癌化する率が高いのでしょう。普通なら検査で切除ですが、血流が早くなる薬を常用してるものですから、切除は12月でしょう。年と共に病気が出るものです。市民検診で陽性だったものですから、今回の検査をしたのですが、市民検診は大事ですね。



長くて付き添いも疲れます。帰りは家に5時半でした。



二人で医者の梯子かも。でもこの病院の唯一の楽しみはレストランの食事が美味しい事です。伏見の病院ですが、こちらから少し不便なんです。信頼できる病院となると選んでしまいます。



与えられた命と体。大事に使いたいものです。 この写真は宇治川べりの大銀杏です。

上の言葉
 人はどんなに小さなことでも、自分の手柄、誇りにしようとしますが、考えると自分は有っても無くてもいいもの、取って代わる者はいくらでもいます。しかし、神様に代わる者はなく、また神様がいらっしゃらなければ何ひとつことは起らないし、ありえません。だからこそ、すべての栄光を主に帰すこと、これが私たちのすべきことであって、誇るものは何もありません。(KE)

2017-11-06 08:45:26 | 日記
「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10:36



柿は美味しいものですね。先日、我が故郷にある1本の柿の実を持ち帰り、教会で何かに使えるか?と飾っておいたのが熟し皆で食べられるかどうかと、突いたら甘い!とのこと。大きな渋柿ですが、甘くなるものです。干したら最もいいけどおいて置いても甘くなります。11月末にはこの宇治田原にも、猿が柿の実を多く食べに来ます。



薄い霧と思っていたのですが、案外濃くてびっくり。時々薄くなったり濃くなったりですが。



宇治田原では殆ど渋柿ですが、柿屋といってお正月のお飾りに使う古老柿用の棚で段を造って干されます。その柿屋がアチコチにありましたが、近年は正月の飾りも極少なくなり、柿屋も少なくなりました。



藁で編んで作るつるし柿もとっても美味しいものですね。



上の言葉
 私達は「信仰」とよく言いますが、それはまた「忍耐」と言い換えることが出来ます。ただ、一般的な「忍耐」は、どうなるかわからないが、ほかに方法や手段がないから、ただ我慢することです。しかし、ここで言われる「忍耐」は神様の約束、み言葉を信じて、その結果を楽しみつつ待つことです。だから、信仰に生きるとき、お先真っ暗ではなく、お先はばら色、よろこびです。大いに期待しつつ待ち望みましょう。(KE)