我が郷は足日木の垂水のほとり

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公約修正、小沢氏主導…「内閣一元化」形だけ

2009年12月18日 | 記事紹介
  ニュース 速報 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091220-OYT1T00012.htm?from=nwlb

2009年12月20日配信

  記事の紹介(抄出)です。

公約修正、小沢氏主導…「内閣一元化」形だけ

民主党は、16日に鳩山首相に提出した2010年度予算への重点要望の中で、衆院選政権公約(マニフェスト)の見直しに踏み切った。

 ガソリン税などの暫定税率を維持し、子ども手当には所得制限を導入する内容で、小沢幹事長が主導した。

 ◆自ら財源試算

 「財源がなければ政策はできない。暫定税率は維持する。土地改良の予算も半減だ」

 15日夕、衆院2階にある民主党幹事長室。小沢氏は高嶋良充筆頭副幹事長(参院幹事長)と細野豪志副幹事長にこう告げた。

 子ども手当の所得制限も、小沢氏が決めた。

 高嶋氏が作成し、小沢氏に渡した要望の原案には、子ども手当の所得制限には触れていなかった。小沢氏は秘書に資料を取り寄せさせ、子ども手当に所得制限をかけた場合の財源を自ら試算し、制限導入を決めた。

 政府は14日、新規国債の発行額を「約44兆円以内」と明記した予算編成の基本方針を決め、鳩山首相も「44兆円以内に収めるよう最大限努力をしてもらいたい」と明言した。

 小沢氏は当初、発行額を44兆円以内に抑えることには否定的だった。高速道路や整備新幹線など地方から陳情の多い予算を抑制すれば、来年夏の参院選は戦えないと見ていたからだ。

 しかし、首相が抑制方針を明確にしたことで、小沢氏も「首相の言葉は重い」と受け入れた。党内では「暫定税率などに関する小沢氏の方針転換は、国債発行を抑制する中で、高速道路などの地方向け予算を確保するにはやむを得ない、と考えたからではないか」という見方が出ている。

 ◆党内にも危ぶむ声

 政権が目指した「政策決定の内閣一元化」は有名無実化している。

 調整が山場を迎えた14、15の両日、小沢氏は原口総務相や馬淵澄夫国土交通副大臣らを国会内に呼び、長妻厚生労働相にも電話するなど、積極的に関与した。長妻氏への電話では同省のある政策について、「政府が決めることだが、党の立場としては絶対反対だ」と語気を強めた後、「羽毛田も厚生省だったな」と、天皇陛下の特例会見問題で対立した宮内庁の羽毛田信吾長官が元厚生次官であることまで持ち出したほどだ。

 今回の予算要望は、同党の陳情改革が発端となっている。自治体や業界団体などからの陳情を閣僚や官僚に受けさせないことで、「政官業」の癒着排除や政府の負担軽減を目指すという大義名分があった。

 16日の要望提出の際、小沢氏は報道陣が部屋を出た後にマイクを握り、「党で一括してやるうまい仕組みを作ったのに、政府の方で調子よく要望を聞いてしまうやつがいる。経団連や農協、医師会と会ってるじゃないか」とまくしたてた。日本経済団体連合会との意見交換会に出席した藤井財務相らを批判したのだ。

 しかし、予算要望の内容からは、自民党支持団体の力をそぎ、民主党への支持の拡大を図るという選挙対策の狙いも透けて見える。

 典型は、自民党が影響力を持ってきた土地改良事業の予算縮減だ。要求額を半減し、党の看板政策である農業の戸別所得補償制度の財源とするよう求めた。

 暫定税率の維持、子ども手当の所得制限などについて、小沢氏は首相に「全国民からの要望だ」と迫った。ただ、党幹部には「実際はそんな陳情は1件も来ていない」という声もある。

 小沢氏のやり方に、党内では「十分な議論もなく公約を修正するようなことが続けば、国民の反発を招く」と危ぶむ声が出ている。

(2009年12月20日00時06分  読売新聞)

  記事の紹介終わりです。

 

 

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迷走する鳩山政権には困ったものです。いや小沢政権でしたね

2009年12月18日 | 記事紹介

訳わからん このシャバは

http://blog.goo.ne.jp/kazu4502/e/c48ed5cf3c20bb5ef97efafb1d1551a6

2009年12月19日配信

  記事の紹介(抄出)です。

さて、民主党が提出した「重点要望」が「全国民の要望」ではなく、小沢一郎の要望であったことが発覚し、民主党の欺瞞と性小沢の横暴性について民主党の支持者のみならず、そのような要望をしなかった関連業界から批判が殺到しているそうだ。
まるで詐欺師まがいの小沢要望書が堂々とまかり通る政治が民主党で行われている中で「国民の思いここにあり、という思いで行動したい」と答えた鳩山由紀夫の騙されやすい性格に果たして政権能力があるかという疑問は、おはり内閣支持率に現れ、とうとう支持率が50%を割ってしまいました。
内閣の不一致どころか、醜態まで見せ始めてきた鳩山内閣、予算がないのに場当たり的に大風呂敷を広げた結果、国民と約束した一律の子ども手当てまで財政上の都合で所得制限を設ける始末だ、その中で長妻厚生労働相は19日、記者団に、制限を設けるべきでないとの考えを改めて強調しました。
「社会全体で面倒をみます、子どもは社会で育てる」と言っていたのは民主党です。
私は子ども手当てには一貫して反対してます。それは少子化対策どころか経済的波及効果が少ないということだ。今は書きませんがもっとやるべきことがいっぱいあります。
しかし、民主党が政権公約で訴えていた、一律に給付すると言うことから考えれば長妻厚生労働相の考えは正しい。つまり少子化対策としての所得制限はまったく主旨が違ってくるからです。だからこそ、制限に800万とか2000万とかの根拠もない意見が出てくるんです。主旨が違う政策変更には正解なんてありません。ただ党利党略で決めるしかないんです。したがって誰も決めることは出来ません。つまり決定権は小沢一郎が握っているからです。最後は小沢が決めるでしょう。来年の選挙のために低いハードルでね。
もう全てが迷走中だ。これだけを考えただけでも民主党の政権能力のなさには思わず目を覆いたくなりますよね。
経済支援対策もほったらかしの民主党は今年の4月になんと言っていたと思いますか。
自民党麻生政権の経済対策を批判し「民主党が独自の追加景気対策、2年間で総額21兆円」という政策を打ち出していました。
それがこれです。
『民主党は4月8日、「次の内閣」の会合で、2010年度から2年間で総額約21兆円に及ぶ独自の追加景気対策を正式決定した。
小沢代表は会合の冒頭であいさつし、「政府・与党(の対策)は景気が悪いから当面こうしますという考え方で泥縄式に作られたものだが、我々(の対策)は国民の安定した生活を将来にわたって確保できる」とアピールした。
対策は各世帯の可処分所得を増やすことに重点が置かれ〈1〉月額2万6000円の「子ども手当」支給〈2〉高速道路無料化〈3〉ガソリン税の暫定税率廃止〈4〉太陽光パネル設置や低燃費車の買い替え補助〈5〉中学生までの医療費無料化などを盛り込んだ。』
これは、政府・与党(麻生政権)に先んじて公表し、小沢代表の資金管理団体を巡る政治資金規正法違反事件で傷ついた党勢を立て直したい考えだったが、5月11日小沢一郎は党本部で記者会見し辞任しています。
しかしここまで言っておきながら、来年度概算要求が95兆円に始まり、その予算に切り込むはずだった事業仕分けも中途半端に終わり、その決定は党に一元化され、単なる客寄せのショーに終わってしまいました。
対策なき「デフレ宣言」が逆に景気を冷え込ませ、緊急経済対策ではなし崩し的にバラマキ予算を復活し、あれだけ自民党がやってきた公共事業対策に対して徹底して批判をしておきながら自分達が公共事業を復活させるとは驚きですね。
これも全て小沢が提案し、小沢が決めて小沢が変更し壊す、これが民主党の基本政策なんです。民主党は小沢の私物なんです。つまりバカな国民は小沢一郎に振り回されているだけだ。それを応援し支持をしているのが鳥越俊太郎や吉永みち子そしてテレビ朝日の面々とTBSである。
内閣はドタバタ劇を展開し、よく考えれば、左翼市民団体のおねいちゃんが少子化担当大臣なんて前代未聞、恐れ入りました。これでは政策に一貫性がないは当然のことです。
そして、全国民と称して公約破りの口実に使ったゴロツキ小沢、益々監視が必要になってきました。
これからも子供にカネを配 って国民を騙し続けるか、また、国民も騙され続けるのか、見ものです。

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小沢幹事長が方針転換? 持って生まれた性格は変わらない

2009年12月18日 | 記事紹介
訳わからん このシャバは

http://blog.goo.ne.jp/kazu4502/e/2003458899f3aca686bf0aff8b79bfe9

200912年21月日配信

  記事の紹介(抄出)です。

 【筆者記】
鳩山政権の支持率が急激に低下しています。一方では小沢独裁政治の批判は小沢本人に留まらず民主党の支持率まで影響を与えてきました。
その批判に対して小沢本人も相当参ったのか、「重点要望」を提出した17日の勢いはどこに行ってしまったのでしょうか、まるで飼い猫のようにおとなしくなってきました。
ある民主党の関係者は「陛下と国民を愚弄したことに相当のプレッシャーを感じたらしい。」と述べています。
さて、それを考えてのことなのか、民主党の小沢幹事長が地元の盛岡市で挨拶し来年の予算案の焦点となっているガソリン税などの定率減税の取り扱いや子ども手当ての所得制限について最終的には鳩山総理大臣の判断に委ねる考えを示したそうです。
民主党は政府に対し、来年度の予算案の重点要望を行い、ガソリンなどの暫定税率
は現在の水準を維持し、原油価格の高騰時に法的措置を講じることや子ども手当てに所得制限を設けることなどを求めました。
これについて、小沢幹事長は党の会合で挨拶し、実際は「全国民」からの陳情がなくでっち上げを行ったことに関し「私どもとしてはほとんどの国民のみなさんの各地域の要望を可能な限り、吸い上げて政府に伝えたものです」とわざわざ持ち出して疑義を否定し、「最終的には政府が決定するもの」として、国債発行額をおよそ44兆円に抑える決定のあとだった為、要望内容は政権が決めたことを無責任に否定するものはやめ、可能な限り国民の要請を実現するものにしたと述べました。
しかし、民主党自身が約束したことを「可能な限り国民の要請を実現するものにした」というのはおかしな話です。このような発言をしているから嘘つき、公約破りと言われるんですよ。公約したのは国民ではなく、民主党です。民主党が政権公約で約束したことを確実に実行すれば言いだけの話です。なんら難しい話ではありません。それを国民の要請とは収支千万、横暴のなにものでもありません。
国民からみれば「なめるな、おんどれ、10年早いで、バカ野郎」ということです。
要するに、民主党の政権公約は、しっかりした検証に基づくものではなかったということだ。ただ、選挙に勝つためにその場合わせの公約を国民に約束し、言いたい放題の野党と言う立場を利用して前政権がやってきたことにケチをつけて、無駄を省けば何でもできると、国民からみれば、おいしいバラマキ政策を約束することであたかも簡単に現実化するかのように国民を扇動し、得票を得たということだ、これじゃ信用した有権者は民主党に投票します。
しかし、選挙が終わって「出来ませんでした」ではどのように民主党は責任を取るのだろうか、あの衆議院選は一体何だったのでしょうか。私から言えば騙しです、いや本物の詐欺集団です。

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ネール

2009年12月18日 | 政治家

政治家

 

ネール【インドの政治家】1889 ~ 1964 ネール インド

 


ジャワハルラール・ネルー ネール

जवाहरलाल नेहरू,  Jawaharlal Nehru, 18891114日 - 1964527
インドの初代首相。インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。
名前の最初に、「学者(最高位のバラモン)」という意味の
「パンディト(पंडित, Pandit)」が付けられる場合もある。
ファーストネームの 「Jawāharlāl」 は、ペルシア語起源で「ルビー」を意味する。

(wikipedia)

 

 

 

生い立ち

1889年、インド北部イラーハーバード(現在はウッタル・プラデーシュ州に属する)の富裕なバラモン階級の家柄に生まれる。父のモティラル・ネルーは弁護士であり、インド国民会議派の独立運動家として活動し、議長に選出されたことがある。

    

ネルーはイギリスに渡り、名門ハーロー校に入学する。同校を卒業した後、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、自然科学を専攻した。1910年に同大学を卒業。そして1912年に弁護士の資格を取得して帰郷した。

 

 

 

独立運動[編集]

しかしネルーはそれから間もなくインド独立運動に身を捧げ、インド国民会議派の幹部としてマハトマ・ガンディーやスバス・チャンドラ・ボースなどと共にイギリスからの独立運動を指導するようになる。

1928年にネルーは「ネルー報告」を発表し、インドの即時独立を求めた。ただしこの報告には、1916年に国民会議派が約束したムスリムの分離選挙を反故にし、さらにムスリムの議席数の確保を否定する内容が含まれていたので、全インド・ムスリム連盟を中心とするムスリムとの対立を招くことになる。

また、1923年に党内対立から国民会議の一派閥としてチッタランジャン・ダースと共にスワラージ党を結党していたが、ガンディーに懐柔されて1929年に父モティラル・ネルーから国民会議の議長の座を引き継いだ。ネルーを議長とした同年の国民会議ラホール大会では「プールナ・スワラージ(完全独立)」が採択される。コミンテルン系である帝国主義反対連盟のメンバーでもあった。

その後もネルーは1936年、1937年、1946年にも国民会議の議長に選出されているが、その間何度も投獄を経験した。獄中生活は通算で10年に及ぶ。獄中でネルーは『父が子に語る世界歴史』(1934年)や『自伝』(1936年)、『インドの発見』(1946年)といった著書を完成させている。


初代首相[編集]

第二次世界大戦後、インドは独立の方向へと向かうが、ムハンマド・アリー・ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟とヒンドゥー教徒が主体のネルーら国民会議派の対立が激化した結果、1947年8月15日にネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、インドとパキスタンが分離独立する。ネルーは独立インドの初代首相に就任した。

首相となったネルーは自ら社会主義者である事を宣言し、国家が経済を主導する計画経済を推進した。1951年には第一次五カ年計画による経済開発政策を打ち出し、その後も5年ごとに五カ年計画が発表された。ネルーは、企業の私有は認めるものの、民間部門に厳しい規制をかけ、公共部門が基幹産業を管理する混合経済体制を築いた。また、国内産業を保護し、輸入品から国産品への代替を推進することで工業化を目指す輸入代替工業化政策を採用した。

国際的には「非同盟・中立」の外交を推進した。1954年、中華人民共和国の周恩来と会談を行い、領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の5つからなる「平和五原則」を掲げた。翌1955年には第三世界の中心的存在として、周恩来、インドネシア大統領のスカルノ、エジプト大統領のナセルと共にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催した。この会議では反帝国主義・反植民地主義を謳い、前述の平和五原則を拡充した「平和十原則」が定められた。

内政的には、民主主義体制を堅持し、インドを世界最大の民主主義国家とした。一方で、ネルー率いるインド国民会議派は国内唯一の全国政党であり、政治的にも左派から右派までの包括政党として広い支持基盤を持ち、さらに各地の地方ボスの多くを抑えていたうえ、ガンディー及びネルー自身のカリスマとあいまって国民会議派は選挙で圧勝を続け、ネルー政権下のインドは一党優位政党制国家となり、ネルーが死去するまで政権交代は一度もおこらなかった。

また、パキスタンの分離独立によって分割されることになったパンジャーブ州の新州都としてチャンディーガル市の建設を決定した際、この新都市をインドの伝統にとらわれない現代的な都市にすることを目指し、ル・コルビュジエへと都市計画を依頼した。この都市計画には賛否両論があるものの、チャンディーガル市は現在でもル・コルビュジエの代表作のひとつとされている。

イギリスからの独立後も国内に残っていたフランス領インド(英語版)およびポルトガル領インドの回収も行い、1954年にはフランス領インドがインドに返還され、ポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年にはアントニオ・サラザール政権の下であくまでも返還を拒んでいたポルトガル領のゴアなどを武力占領し、ゴア州、ダマン・ディーウ連邦直轄領、ダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄領を設置。これによってインド国内の植民地はすべて消滅した。

このような高い理想に基づく政治や彼の立ち居振る舞い、廉潔さ、さらにはマハトマ・ガンディーに後継者に指名されたことなどはネルーにガンディーに勝るとも劣らないカリスマ性を与え[1]、国民会議派は選挙に勝利し続けた。

しかし晩年、ネルーはさまざまな問題に直面することになる。友好的な関係を築こうとした中華人民共和国とは、チベット亡命政府をインドが抱えていることや国境線などをめぐって対立を深め、中印国境紛争が勃発するが、この紛争はインドの敗北という結果に終わってしまう。また、計画経済政策の行き詰まりなど、内政にも問題が生じるようになった。技術力や工業力、それに農業生産なども確かに上昇したものの、人口増加についていくことができず、国民の多くは貧しいままだった。そして1964年5月27日に首相在任途中で心臓発作により死去する。遺体は荼毘に付され、墓としてシャンティ・ヴァナが建立された。


家族[編集]

妻カマラ・ネルーとは1916年に結婚。妻もまた独立運動に参加したが、1936年に結核で死亡した。妻との一人娘にインドの第5代・第8代首相となるインディラ・ガンディー、孫(インディラの子)に第9代首相となるラジーヴ・ガンディーがいる。のちにこれは「ネルー・ガンディー王朝」とも呼ばれるようになるが、ネルー存命中にはインディラが1959年にインド国民会議総裁に就任し1年で辞任した程度で、特段の世襲化の動きはなかった。

日本との関連[編集]

日本帝国の勝利を称賛[編集]

日露戦争における大日本帝国のロシアに対する勝利を、日本が白人国であるロシアを打ち破ったことで、欧米列強の植民地支配にあえぐアジア諸国の民が自らの力でそれを打破することができるということを示したと賞賛した。

日本帝国の植民地支配を批判[編集]

しかしその後大日本帝国が欧米帝国主義と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたことを批判していた。『父が子に語る世界史』では、日露戦争とその結果について、日本の勝利がいかにアジア諸民族を勇気付けたか、それにも関わらずその結果は、帝国主義列強の一角に日本を付け加えただけであり、その悲惨を最初に舐めたのは朝鮮であったとして、日本が期待に沿わなかったことを厳しく批判した。

インドゾウを寄贈[編集]

第二次世界大戦前、上野動物園には3頭のインドゾウが飼育されていたが、空襲の際に逃げ出し暴れるのを恐れた行政側により殺処分(実際には餓死)され(この際の顛末は戦後童話になった『かわいそうなぞう』に詳しい)、日本で生きたゾウを見ることが出来るのは名古屋市の東山動物園だけであった。

「東京でゾウが見たい」という子供たちの声は時の行政を動かし、各国にゾウの寄贈を打診する。ネルーは「日本の子供たちにゾウを見せてあげたい」と1頭のゾウを上野動物園に寄贈することを申し出る。このゾウには「インディラ」(ネルーの愛娘と同じ名前であり、彼が愛したインドの国の名そのもの)と名付けられ、1949年9月に上野動物園に到着、1983年に死亡するまで上野動物園のシンボルとして子供達に愛された。

仏舎利を寄贈[編集]

1954年(昭和29年)、日本とインドの友好と世界平和を祈念して、ネルーは10粒の仏舎利(釈迦の遺骨)を日本に贈呈した。これを受け、日本の各地に仏舎利塔が建立された(札幌市藻岩山の仏舎利塔など)。


日本語訳された著書[編集]
印度の統一 (松本慎一訳、育生社弘道閣、1942年)
娘インディラへの手紙(脇山康之助訳、豊国社、1942年)
ネール自叙伝 印度の最近の事象に関する冥想(竹村和夫、伊与木茂美共訳、 国際日本協会、1943年)
マハトマ・ガンジー(ガンジー平和連盟訳、朝日新聞社、1951年)
自由と平和への道 アメリカを訪れて(井上信一訳、社会思想研究会出版部、1952年)
インドの発見(辻直四郎、飯塚浩二、蝋山芳郎訳、岩波書店、1953年)
ネール自伝(磯野勇三訳、東和社、1953年、のち角川文庫)
アジアの復活(宮西豊逸訳、文芸出版社、1954年)
父が子に語る世界歴史 第1-6(大山聡訳、日本評論新社、1954年、のちみすず書房)
古代史物語 父から娘への手紙(戸叶里子訳、日本評論新社、1955年)
ネールは主張する(ティボール・メンデ共著、大山聡訳、紀伊国屋書店、1957年)
忘れえぬ手紙より 第1-3(森本達雄訳、みすず書房、1961年-1965年)
ネール首相名演説集 英和対照(黒田和雄訳、原書房、1964年)
ネルー 自叙伝(蝋山芳郎訳、中央公論社(世界の名著)、1969年)


日本語の関連文献[編集]
ネール 人間・思想・政策(坂本徳松、日本協同出版、1952年)
ガンジー・タゴール・ネール(K.R.クリパラニー/森本達雄訳、アポロン社、1957年)
ネール 第1-2(ヴィンセント・シーエン/須賀照雄訳 論争社 1961年)
ネールなきインド その光と影(フランク・モラエス/山口房雄訳、弘文堂(フロンティア・ブックス)、1965年)
ネルー(中村平治、清水書院(センチュリーブックス 人と思想)、1966年)
インド現代史 ネルー・その政治的生涯(M.ブリッチャー/張明雄訳、世界思想社(現代政治シリーズ)、1968年)
三人のインド人 ガンジー、ネール、アンベドカル(荒松雄、柏樹社(柏樹新書)、1972年)
ガンディーとネルー その断食と入獄(山折哲雄、評論社(東洋人の行動と思想)、1974年)
人物現代史 11 ネール 第三世界の立役者(大森実、講談社、1979年)
インドを支配するファミリー ネールー・インディラ・ラジブ(タリク・アリ/出川沙美雄訳、講談社、1987年)

 

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