我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

平沼赳夫

2009年12月04日 | 政治家

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平沼赳夫【わが郷・政治家】1939 ~ 平沼赳夫 政治家

 

平沼 赳夫( ひらぬま たけお )
1939年(昭和14年) 83日 生まれ

衆議院議員(10期)。

運輸大臣(第70代)、通商産業大臣(第66代)、経済産業大臣(初代・第2代)を歴任。養父は第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎。

2010年(平成22年)4月 新党たちあがれ日本を結成し、代表に就任。

座右の銘は、「天命を信じ人事を尽くす」。 

 

 

 

 

 

わが郷の記事

2010 04 09  自分の足で 「たちあがれ日本」 わが郷

 

 

 

旗揚げした「たちあがれ日本」にマスコミの風は冷たい。今年の春は寒い。桜を見るには好都合です。日持ちがします  

☆☆

 

Wikipedia よりの、メモ

平沼 赳夫(ひらぬま たけお、1939年(昭和14年)8月3日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。

運輸大臣(第70代)、通商産業大臣(第66代)、経済産業大臣(初代・第2代)を歴任。養父は第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎。

2010年(平成22年)4月、与謝野馨らとともに新党たちあがれ日本を結成し、代表に就任した。

座右の銘は、「天命を信じ人事を尽くす」。

 

生い立ち [編集]東京市渋谷区代々木大山町にて、中川恭四郎・節子夫妻の長男として生まれる。父・恭四郎は群馬県知事、特許庁長官などを歴任した内務官僚中川友次郎の四男で、農林中央金庫に勤めていた。その後、三井生命、学校経営、大協石油と職を変え、大協石油の特約店・朝日商販の社長となった。母・節子は早稲田大学総長を務めた平沼淑郎(平沼騏一郎の兄)の孫娘であった[1]。

赳夫が2歳のとき、子供のいない騏一郎は、恭四郎・節子夫妻を一家養子として迎えた[2]。


立候補 [編集]佐藤栄作、中川一郎の秘書を経て、1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙、1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に立候補するが、連続して落選。落選の最大の理由は、当時タブーとされた憲法改正を前面に掲げて戦ったためである。

また、戸別訪問をした際には「騏一郎には実子がなかったはずだが…」といぶかしがられ、関係を問い質される苦労もあったという[5]。

自由民主党時代 [編集]1980年(昭和55年)の第36回衆議院議員総選挙にて、旧岡山1区で立候補して初当選する。以後10回連続当選。この間、石原慎太郎、亀井静香、中川昭一といった中川一郎に近い保守派の議員らと行動をともにする。村山改造内閣で運輸大臣として初入閣。その後も第2次森内閣で通商産業大臣に、第2次森内閣 (中央省庁再編)で初代経済産業大臣に、第1次小泉内閣でも再び経済産業大臣に任命された。派閥は中川一郎率いる自由革新同友会に所属し、中川一郎の死後は石原らとともに清和会へ合流した。清和会を離脱した亀井静香らのグループと中曽根康弘が率いていた政策科学研究所が合流し、志帥会が発足。名称は初代事務総長である平沼の命名による。

清和会の創始者である福田赳夫は、自身と同じ名前を持ち、長男・福田康夫の中学・高校の3年後輩である平沼を公私に渡って可愛がった。

なお、政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。

 郵政民営化法案に反対 [編集]ポスト小泉(小泉退陣後の後継総理)の有力候補として注目されていたが、小泉内閣後期では拉致問題や政治手法の違いから徐々に溝が生じ、2005年(平成17年)7月5日、郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の阿部俊子を破り、9回目の当選を果たした。特別国会の首班指名選挙では、小泉純一郎に投票したが、郵政法案の衆議院再採決では反対票を投じた。解散総選挙で自民党を非公認になり、無所属で当選した13人のうち再び反対票を投じたのは平沼一人であった(野呂田芳成は欠席)。

 自民党からの離党勧告 [編集]郵政と選挙における行動によって、自民党から平沼に対して離党勧告処分が下った。ただ、法案に再び反対した平沼には除名処分が確実といわれていたが、首班指名選挙では小泉純一郎に投票したため離党勧告処分にとどまった(野呂田は首班指名選挙で国民新党代表の綿貫民輔(当時)に投票したため、除名処分となった)。自民党党紀委員長の森山眞弓(当時)は、平沼が他の造反無所属衆議院議員と同じ離党勧告という処分だったことについて「自民党の行動にすべて反対しているわけではない。『政治的信念を変えられない』ということで、理解できないこともない」と説明した。

 

 

 

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。

大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。

 

 

 

 

政治家の顔

 

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自然と共生

2009年12月04日 | 日記

 

 

    

 

 

 

西洋の文明は自然を征服する文明だとは、良く言われること。

日本など東洋は、自然を恐れて棲み分けている。森林は神の棲む領分で人は滅多に立ち入らない。

かつてヨーロッパを旅したことがあった。空からイタリアやスペインを眺めてみれば、丘という丘はほとんどが禿げ山である。耕地と言えばそうなのかも知れぬが、日本では森林であるはずの部分に、木がない。樹木は河川に沿って狭い帯状に残されているばかりである。

 
 

  

日本は先進工業国であるにもかかわらず、森林面積が多い。水田を造るには、丘陵は不向きで、棚田は例外。この棚田とて、周辺に豊かな森林があるから、水を得られる。

北海道の農地は、西洋のそれであろう。稲作には不向きだったので、麦やジャガイモを作る畑が作られた。丘の立木を伐採して全てが畑にされた。こうしてなだらかな丘は緩い起伏をもつ畠となった。

牧草地も作られた。山羊や羊は乾燥地に向く。雨の多い土地には不向き。牛が飼われる。


北海道の西洋式農業は歴史が浅いので、大自然の多くが残されている。

何千年以上の歴史を持つ地中海地方では、自然は開墾し尽くされている。ここで農地を広げるには、他人の農地を奪わねばならぬ。ヨシュアは神に約束された土地だと信念して、他領を簒奪した。乱暴で血に飢えたものが勝ち、弱きものは滅ぼされる。あるいはラハブ(※ 参照)のように町を売り、勝者に隷属する。

権力とは、 power つまり暴力のことであり、それが恒常化すれば、authority となる。

日本の村には権力者はおらず、長老が若い者から聞かれれば、物語りをする。

 

 


※ ラハブ

<ラハブ(Rahab)は、旧約聖書のヨシュア記に登場する娼婦の名。またはユダヤの伝説上の海の悪魔、怪物。>
詳しくは。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%96

 

 

      我が郷の付録
        和をもって雨と共生
  「長めの記事」は別記事として、「別冊」に分けました。読んで頂ければ幸甚です。
 

 

 

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ビルジニア・ラッジ

2009年12月04日 | 政治家

 政治家

ビルジニア・ラッジ【わが郷・政治家】1978~ ビルジニア・ラッジ イタリア

 

 

 Virginia Elena Raggi

ヴィルジニア・エレーナ・ラッジ(伊: Virginia Elena Raggi、1978年7月18日 - )
イタリア共和国の政治家。2016620日よりローマの市長。
(wikipedia)

イタリア・ローマ出身。ローマ・第3大学(イタリア語版)卒業後に弁護士となる[1]。 ベッペ・グリッロ(イタリア語版)が旗揚げした新党『五つ星運動』からローマ市長選挙に出馬し、マッテオ・レンツィ率いる与党民主党の候補ロベルト・ジャケッティ(イタリア語版)を下して、イタリア人女性として初となる市長当選を果たした。

 

 

 

2016 12 06 ユダヤの 攻撃を廃す。【わが郷・政治】 

 

2016 11 22  美女と、野次馬。 【わが郷

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和をもって雨と共生

2009年12月04日 | 政治

 

 

 

         

明治維新により日本は、今までの封建社会をうち捨てて、西欧の絶対王権の政治システムを取り入れた。京都の密やかな権威のみなもとは、江戸に進んでこの大都市を東京と改めさせた。

帝は江戸の将軍を破り、自ら軍事力をお持ちになられたのだと謂う。

これは、言い訳で実際の軍事権力は、徳川幕府を倒した、長州と薩摩が握っていた。軍制を整えたのは、山県有朋であり、徴兵制を敷き、西南戦争で西郷隆盛を破った政府軍の指揮をとっている。大隈重信は日本で初めて政党内閣を組織した、人物。帝国憲法を得た日本は緩やかなうねりを見せながら、西欧型資本主義帝國へと変貌してゆく。

日清・日露そして第一次大戦を勝ち進み、遂に大日本帝國はアジアの覇者となった。この歴史の中で造られたのが、官僚制度。建て前は帝の臣ではあるが、実際は主体的に物事を決める、行う絶対的権限が備わっている。

昭和20年の終戦によって、帝の大権は失われたが、官僚システムは温存された。国体は残ったのである。帝は明治の御代から実質シンボルであったから、ほとんど何もかわっていない。官僚制は温存された。

変わったのは、軍事と外交。軍事力が削がれれば独自の外交は出来ない。戦後政治はアメリカの其れを追従するばかりで、国民の方は向いていない。日本国民のほとんどは農民であった。食糧の生産効率はアメリカのほうが遥かに高い。ここで、リカードの比較優位の法則の大躍進時代が始まった。農産物価格は緩やかに下落を続け、農民の子弟は沿岸部の工業地帯に流れ着く。日本は世界の工場の中心、メッカとなった。最近のデータでは、日本の専業農家の割合は、何と0.3%で日本成人の300人に1人が農業で喰っているにすぎない。そのうえ安い小麦に比べれば高い米とさげすみの視線すら浴びせられる。これでは、地方は寂れるばかり。

日本はアメリカの食糧と飼料を輸入して国家の形まで変えてきた。水田は守られているので、自然の景色はそれほど変わらない。しかし精神風土は激変した。地縁、血縁の絆は細くなり、人は会社や職場の業務に縛り付けられる。ざっくばらん、有り体に言えば「労働者」に成りはてた。この事である。税制改革から始まった、構造改革の流れは次第に水かさを増して遂には、終身雇用の堤防を乗り越え、その堤をも押し流してしまった。これで日本の零落した農民のなれの果ては、マルクスの時代のロンドンの労働者と同じ境遇に堕とし込められた。終戦を敗戦と「民主教育」で諭された、その子の次の世代が甘受すべき境遇。乾いた砂漠を風に弄ばれる、根無し草。これが日本の精神風土と成りはてました。

このような荒廃した日本国にあって、豊かな人達がいます。その数およそ2,000万人。日本人の二割の人達は、セレブなのです。選ばれた人達。誰によってか。知りたくば『ヨシュア記』を読まれよ。

「ブログ市長」が語る食税族のアッパー待遇>を読めば普通の国民ならば、腹が立つ。しかし、食税族にしてみれば、『何のこと?』ととぼけるに決まっている。ヨシュア記の大殺戮に比べれば、可愛いものと思っている。そして大概の公務員諸氏は民草の台所事情など知らないし、気にも留めない。第一彼等、彼女らは新聞も読まない。見るのは低俗なテレビ番組ぐらい。年収が800万円以上はザラでは、今の日本では庶民の部類ではない。庶民は年収400万あたりが平均で、若い衆は定職もないのが一般。ところが大概の公務員は実態は世襲制。情実で公職を遣り取りするのは、大分教育委員会ばかりでは無い。

自民・公明は建設や土建の利権が主流であった。民主などの利権は『人』と言っている。官僚利権の取り崩しが、事業仕分けであるはずだが、どこまで徹底できるのかははなはだ疑問。自民や公明がかつての利権を全てはぎ取られて、頭が冷静になれば見えてくるものがある。教育、医療そして大企業の利権に切り込む剣を研ぎ澄ませば、民主連合の料理も出来るが、その力量が備わるのはかなり、そうとう未来のことか。

  

普天間移設「新しい場所を」首相が指示>の読売の記事を読めば、鳩山総理の脳裏にある移転先は米領グアムとある。つまり普天間基地のアメリカへの撤収。沖縄施政権返還からもう少しで40年になる。この辺で全在日米軍基地の撤収も視野に入れるべきなのだろう。其れが自然な歴史の流れではある。70年代の日本反米反政府闘争は、アメリカから見れば革命前夜であった。今回の政権交代はアメリカから眺めれば、革命成就なのかも知れない。無血の明治維新のようなものと平成の政権交代を自賛してみせるには、深い根拠があるのか。アヘン戦争に見られる欧米列強の侵略から我邦を守るには、惚けた江戸幕府では無理なことであった。南蛮の凶暴を知りうる、薩摩、長州であったからこそ出来た「革命」が明治維新。もっとも日本のお国柄、皇統の尊順は顕彰し帝國憲法では、神聖不可侵としたから革命とは言えぬ。明治「維新」である。庶民の艱難辛苦を知りうる民主、社民そして国民新党だからこそ、アメリカの横暴が見えてもいたし、戦いの必要性も理解していた。買弁間諜の自民親米派にては見えぬ、国民の辛苦があった。そこで政権交代、自民側からの『民主はアカで反日』の宣伝も、底が浅かった。在日外国人参政権問題に見られる、世論の実相をみればイカナ、コミンテルン感染頭でも、こりゃマズイと知れる教育効果があったのか。

自民や公明のコンクリート利権には斟酌無用が現政権の腹づもりではある。ならば米穀の利権だけ尊重すれば、事が足りる。まだ言われてはおらぬが、そのうち、グアムの空港も日本のカネで造る。こう言い出すかも知れぬ。日本からは言わぬ。それは交渉ごとの常套。まずは、釣り糸を垂れて、太公望。CIAの作ったとされる読売新聞がそのネタに食い付いた。精々立派な空港基地を造ってやればよい。アフガニスタンやイラクの被った損害に比較すれば、たとえ一兆円や二兆円は安いもの。こんだけのゼニをたれ流せば、経済にもプラスになる。悪鬼米軍の追撃費用としてみれば安いものではある。

日本人は労働信仰で雨は黄金神話。バランスがとれている。グアム基地建設には日本からも応札で自民・公明関連の土建屋が息をつく。

   

これから、二十年も経てばグアムは実質日本の経済圏のただ中にある。アジア共同体の夢の中で、彼の島はハワイより手前の観光地。日本と豪州それにインドシナ半島からは等距離である。アメリカ国民が軍産縮小に成功したころには、アジアとアメリカを結ぶ巨大なハブとなるは必定。空港建設費を返せなどと野暮は言わぬ。民間機も入れろと言うだけ。

グアム観光の絶対条件。それは日本人の不逮捕特権。これがなければ、三浦和義氏の二の舞が懸念される。一思いに留置所で縊られたのではかなわぬ。日本公邸の中にホテルやプールそれにリゾート・ビーチも造らねばならぬ。

 

   以下は参照記事です。 

 
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記事紹介・一覧 09年12月24日~10年01月13日

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2010年 1月 8日配信 海賊対処法、適用検討も
20       年  月  日配信 鯨肉 とは
2009年 9月 1日配信 帳簿価額
2007年11月21日配信 時価会計と簿価会計
2009年12月  日配信 300人委員会
2007年  7月  5日配信 小泉とフェルドマン
 
 
 
 
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