照明を一つに落とした薄暗いバーの店内で、
彼女はカウンターのスツールに腰掛けていた。
綺麗に片付けられた店内には、
静寂と、彼女と、その脇に置かれた
バカラのグラスが一つ。
琥珀色のウィスキーが、口をつける主のいない
その真新しいグラスの中で、
微かな香りを漂わせながら沈黙している。
軽く頬杖をついて、遠い一点を見つめるような眼差しを向けながら、
彼女は空いたもう片方の手にそっとグラスを取った。
ゆっくりと回したグラスの中で、
カラン、と透明な氷が音を立てた。
ふと見上げた夜空に、氷のような月が浮かんでいる。
なだらかな坂を上っていた足を止めて、
吉岡は凍りついた孤月をゆっくりと仰ぎ見た。
凛と冴えわたる月明かりは冬の夜天の星を消し、
蒼白い光を吸い込んだアスファルトは、
街路の木々の影を黒く映して、周囲はまるで、
息をひそめるように蕭然と静まり返っている。
抱くような眼差しで月を見上げる吉岡の瞳は、
深閑としていて、それはまるで月の下に佇む湖面のように、
ひっそりと、物静かに、孤高の光を守っている。
透き通った氷が、片手に持ったグラスの中で、
静謐な光を放っている。
行き場を失った思い出を辿るように、
彼女の瞳がグラスの中を漂っていった。
さっちゃん、
ふと、静まり返ったバーの店内に、
彼女の好きだった、大好きだった優しい声がそっと響いて、
彼女の瞳が霞んで揺れた。
耳を澄まし、彼女はかつての面影を追い求めるように、
視線を宙にさ迷わせた。
木漏れ日の中で微笑んでいるあの人の顔が、
青葉のきらめきを受けながら、
遠い記憶の中で呼びかけてくる。
さっちゃん、
サチ、と本当はそう呼んでほしかったのに、
出合った頃からそうしていたように、いつも、
さっちゃん、と呼びかけていた、あの優しい呼び声に、
返事をしたくても、彼女の声はもう届かない。
思い出の中から呼びかけてくる声は、
遠くて、遠くて、サチにはもう追いつけない。
さっちゃん・・・
音にならない微かな呼び声が、
わずかに開いた吉岡の唇の間から零れ出て、
それは風に舞う雪煙のように、
真夜中の空へと細く立ち消えていった。
見守るように仰ぐ月は、ただ静かに、そっと
仄かな光で吉岡の瞳を揺らしている。
さっちゃん・・・、
月に被って浮かんだサチの面影が、
さっと吹いていった夜風とともにはかなく消えていった。
夜気を吸い込んだ肺に錐が食い込むような痛みが走り、
吉岡は思わず俯いてコートの胸元を掴んだ。
後方から車が一台、ゆっくりと背後に近づいてくる気配を感じて、
吉岡は視線を前方の道へと戻した。
再び足元の坂を踏み出しながら、吉岡は冷え切った左手を、
そっとコートのポケットの中に入れた。
氷が指先に伝える冷たさに、
サチは持っていたグラスをテーブルの上に戻して、
そっと右手に息を吹きかけた。
冷えた指先を温めるはずのその息は、
しらずに切ないため息へと変わり、
サチは口元に当てた右手を軽く握り締めた。
(寒いね)
照れたようにそう言いながら、自分のポケットに
握った手を入れて温めてくれたあの人は、
冬支度を始める街模様がとても好きだった。
街路を黄色に敷き詰めたポプラの落葉と、
柿色に染まった西の夕空には藤色の薄い雲。
家路を急ぐ人の波の中、立ち止まった駅の改札口で、
互いになかなか言いだせなかった、
また明日。
明日会える幸せは、今では遠い記憶の中。
深く沈んだ瞳を、サチは横に置かれたグラスへと戻した。
透明なグラスの上に、仄白い照明が、
じっと黙視するような光を無機質に落としている。
闇を裂くような車のヘッドライトが吉岡の背後ですっと消えて、
黒塗りのベンツがそのままゆっくりと横を通り過ぎていき、
街路脇に建つアパートの手前でぴたりと止まった。
歩速を変えず、まっすぐに歩いていった吉岡の真横で、
ベンツの後部座席のドアが静かに開いた。
「乗っていただきたい」
艶のある落ち着いた声が宵のしじまに低く響き、
吉岡は、ゆっくりと顔を横に向けて、
後部座席に座っているその声の主を見た。
「どうぞ」
そういって更に大きくドアを開けたその男は、
高級スーツに体を馴染ませ、穏便な態度をとってこそはいるが、
しかしその目は幾分の隙もなく、じっと鋭く吉岡の顔を据えている。
吉岡は無言で車の反対側に回り込み、
自分でドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
前部座席には、真夜中だというのにサングラスを掛けたがたいのいい男が二人、
運転席と助手席に砦のように陣取っている。
「先日はうちの若いものが失礼をしたそうで、申し訳ない」
ドアを閉めた後、別段悪びれるそぶりもなくそう言って、
男は手に持っていたタバコに火をつけた。
ライターの火の中で、彫の深い角ばった横顔が、
宵闇の車内に一瞬鮮明に浮かび上がった。
「話を伝えて来いと言っただけだったのだけれど、
ちょっといき過ぎてしまったようで」
目線を前方に向けたまま、男はそこでタバコの煙をふっと吐き出して、
「どうも血の気の無駄遣いをしていけない、今の若い連中は」
といって口元だけで笑った。
「話とは、なんですか?」
余計なことは何も言わずストレートに質問を投げかけてきた吉岡に、
男は依然と前方に目をやりながらふっと鼻で笑った。
「相変わらずまっすぐだね。 別にそんなに急がなくともいいじゃないか。
それとも、時間がないのかな、君にはもう?」
「僕はただ、用件のみを聞きたいだけです、沢木さん」
沢木、と呼ばれた男は、黙ってマルボロの煙草の箱を
スーツの内ポケットにしまいこんだあと、横を向いて吉岡の顔を見た。
怯むことなく見つめ返してくる吉岡の瞳が、まっすぐに自分の目を捉えている。
沢木はゆっくりと口を開いた。
「頭のいい君のことだから、もう話の内容はわかっているだろう?」
吉岡は黙っている。
「私はね、無駄な血は流したくないんだ」
そういって沢木は、再び前方の道へと視線を戻した。
「君には借りがある」
「借りを作った覚えはありません」
静かに言い返した吉岡の言葉に、沢木は口元だけで苦笑した。
「君にとってはそうかもしれないが、私にとっては大きな借りだよ。
命を救ってもらったも、同然だからね」
まっすぐに見つめてくる吉岡の視線を横顔に捉えながら沢木は言った。
「あれは誰にとっても明らかに、あなたをはめ込むための
作為的な逮捕状でした。あなたはあの事件には全くかかわっていなかった。
誰も傷つけてはいなかった。だから僕は、あの件ではあなたを捕まえなかった。
ただそれだけです」
一呼吸置いてから耳に届いてきた吉岡の言葉に、
沢木はふっと乾いた声で笑った。
「国の正義と、人の仁義は別物だと、そういいたいのか?」
見つめてくる吉岡の視線が瞬時に強まった気配を感じとりながら、
沢木は更に言葉を続けた。
「君の目に明らかなことは、だからといって誰の目にも明らかなことじゃない。
目先の水溜りばかりに気を取られている連中には、君が見通している大海は
決して見えてこないんだよ」
沢木はそう言うと、一口吸った煙草の煙を天井に向けて一息に吐き出した。
「真実は確かにどこかにあるだろう。だけど真実なんてものは、
目に見える場所では簡単に捻じ曲がってしまうものなんだ。
そうじゃないかい?」
沢木は、長くなった煙草の灰を、後部ドアに備え付けられた灰皿に落とした。
車窓から射す月光を受けた沢木の横顔は、吉岡に向けた半面が暗く翳っている。
月影の滲むその凄味のある横顔を、吉岡はじっと静観していた。
「私にも仕事がある。それは人生をだからね、多様な糸が
そこには絡まってくる。複雑に絡み合ったその糸には、
それを手放すまいと必死になっている輩が背後に無数に蠢いている。
己の欲が絡めた糸に、みな自らがんじがらめになっているんだよ。
絡まった糸を持つ互いの手に、芳情心なんて塵ほどもない。
自分の利を崩さないがために繋がっているだけの釣り糸だからね、
そこに人情なんてセンチメンタルなものはなにもないが、
欲情は強く絡まっている。欲情のためになら、人はなんだってするだろう。
都合のいい目隠しだからね、欲情は。
だから己の繋いだ欲望の糸を一本でも切りつけようとしてくるやつは、
消してしまえばいい。それがやつらの単純な答えなんだ。情なんてない」
沢木は指先に残った煙草をくしゃっと灰皿にもみ消した。
「邪魔する奴には、消えてもらわなければならない、絶対に」
「背を向けるつもりは、ありません」
沢木は見つめていた吸殻から微かに視線を上げた。
敢えて見なくとも、吉岡がどんな顔をしてそういったのか、
容易に想像がついた。
「やめるつもりは、ないということかな?」
「やめません」
沢木はゆっくりと視線を前方の道に据えた。
街路脇の電灯が、消えては点き、点いては消えながら、
か細い橙の光を路面に落としている。
「犬死してもか?」
沢木は低く言葉を吐いた。
「ぼろきれのように捨てられるとわかっていて、どうしてそこまでする?」
重くただれたような沈黙が、満ち潮のように車内を浸していった。
前部座席に座った二人の男は、微塵も動かないまま、
じっと不気味に押し黙っている。
「死に、美しいも醜いもありません」
吉岡の物静かな声が、確かな意志の響きをもって、
車内の空気を揺らした。
「命が尽きて、消える。その事実があるだけです。
大切なのは、それまでどう生きたのか、そこに光は宿るのだと、」
沢木はじっと前方を見据えたまま黙り込んでいる。
「僕はそう思います」
その横顔を迷わず見つめながら、吉岡は言った。
心の真ん中からまっすぐに見つめてくる
吉岡のひたむきな瞳が、サチはとても好きだった。
一度としていい加減な光を放ったことがないその瞳は、
不確かなことは何もないと、サチを守り抜いてくれる、
揺らぎのない大きな力を内に秘めていた。
いつだってそうだった。
いつでも、どんなときでも、そっと見守っていてくれた
あの澄みきった瞳は・・・
サチ、耐えてくれ・・・
電話口で最後に聞いた父の切実な声が、
ふとサチの耳の中でこだました。
お父さんはね、もうすぐ出張から帰ってくるわよ
そう言いながら父の好物だったシチューを
毎日飽くことなく煮込んでいる母の姿が、
その声に被さって浮かんできた。
会社の金を持ったまま忽然と消えた父の現実を、
母は受け入れずに放棄してから長い月日がたつ。
父も、母も、サチの前から消えてしまった・・・。
さっちゃん、
吉岡の声がまたふっと耳に聞こえてきて、
サチの目から涙がこぼれた。それと同時に、
吉岡を、どうか諦めて欲しい。
父親の事件発覚後、家にまでやってきて、
畳に土下座をして吉岡との別れを懇願した山村警部の姿が、
消えないしこりとなったまま、サチの心の奥底に沈んでは、
またすぐに浮かんでくる。
さっちゃん、僕は・・・
別れを告げたサチに、言葉を失くして佇んでいた吉岡の姿を、
サチは忘れようとしても忘れることができない。
いつもいつも優しく自分の名を呼んでくれたあの笑顔を、
サチは切り捨ててしまった。
差し出した手を、いつも離さずに握っていてくれていた、
あの強くて優しい手を、サチは振り切ってしまった。
さっちゃん、僕は・・・
そう言ったまま、あのとき吉岡が呑み込んだ先の言葉を、
サチはもう聞くことはできない。
サチ、耐えてくれ・・・
お父さんはね、もうすぐ出張から帰ってくるわよ
吉岡を、どうか諦めて欲しい
父の声と、母の背中と、山村の頭を下げた姿が、
真新しいスーツを着て照れながらも喜んでいた吉岡の笑顔と、
サチの心の中で交錯していった。
新任刑事として所轄に初めて配属が決まった日、
桜色の風の中で笑っていたあの人の姿は、
とても眩しかった。
あなたはいつでも、私の誇りだった。
大切なことは、二人で一緒にいることだとわかっていながら、
大切なことを手放す以外には、どうすることもできなかった。
どうすることもできないまま、どうしようもないままに、
サチの想いは舵を失った小船のように、悲しみの海を漂っている。
ゆっくりとスツールから立ち上がって、
サチは入り口のドアへと向かって歩いて行った。
物憂げな細い手が、上着掛けにかかっている
キャメル色のコートを手に取った瞬間、
小さな鈴の音が床の上に落ちた。
チャリン
と音がして、リビングのテーブルの上に鍵が置かれた。
幾つか連なったその鍵の輪に、小さな青い鈴のお守りがついている。
吉岡は激しく咳き込みながら、そのまま洗面所へと駆け込んだ。
口を押さえていた右手の指の隙間から、真っ赤な鮮血が溢れ出てくる。
胸の底から押しあがってくる嘔吐感に堪えられず、
ゴボっと咽こんだまま吉岡は大量の血を吐き出した。
真っ白なシンクの中に、鮮血の花びらがおびただしく散っていく。
吉岡は俯いたまま、止まらない咳とともに血を吐き続けた。
荒い息を繰り返す背中が、大きく上下に揺れている。
吉岡君、
サチの呼び声が不意に耳に聞こえてきて、
吉岡は顔を上げた。
目の前に映った鏡の中から、
蒼白に衰色した顔が自分を見返している。
下唇から、一条の血が、つーっとシンクに滴り落ちた。
目線を落として口を拭った手の甲に、
吐き出された血は赤い色を染めていく。
吉岡君、
吉岡は再び顔を上げた。
サチの呼び声がする。
さっちゃん、僕は・・・
シンクの縁をぎゅっと両手で掴んで、
吉岡はふらつく体を懸命に支えた。
僕は・・・、
僕は君に誇れるものは何も持ってはいないけれど、
でも君にしてあげられることがあるのなら、
僕はそれをやり遂げる勇気だけは持っているんだ。
君の微笑む場所にはもういられないけれど、
君と未来を語ることはもうないけれど、
でも僕は、君の望む場所へと、
君を守り抜いて運んでいく、
君の羽になりたい。
それができるのなら、他にはもう
何もいらないんだ。
さっちゃん、
僕は君を・・・
僕は君の・・・・
小さな赤い鈴のお守りが、
サチの手でそっと床から拾い上げられた。
それはいつか吉岡と二人で立ち寄った小さな神社で、
互いに買い合った番いのお守りだった。
掌でしっかりとお守りを握り締めながら、
サチは入り口のドアを開けて暗い外へと出ていった。
パタン、と静かにサチの背後で扉が閉まって、
ひっそりと静まり返った暗い店内に、
バカラのグラスが一つ、
カウンターの上にひっそりと置かれている。
つづく