月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

窓辺の風景

2009年03月04日 | 思うコト



悲しみの佃煮のようになっていた民雄への気持ちも
ようやくやんわりと収まってきたので、
ここらでまた警官の血をピンポイントで観直してみようかのぉ~、
と思いたっていざDVDを再生したやいなやそこで電話が鳴り、
出ると母親の声が。

一通りいつものように近況報告をしているものの、
どことな~く何か気がかりそうな響きをもった母の声に、

「どうしたの?」

と尋ねると、

「実はね・・・」

とやっと本題に切り出した母。

「お母さんずっと考えていたんだけど、
この前の吉岡くんのドラマがあったでしょう? 
あのドラマもう観ちゃったの?」

そりゃ~もう。

「観ましたわよ」

「やっぱり?」

当然ですがな。

「今ちょうどそれを見直そうと思ってDVDを再生したところなの」

「えっ、そうなの?」

「これからじっくり観ようと思っていて」

大菩薩峠のシーンを観てみようかな、
でもその時代以降の民雄の髪型はぶっちぎりでツボだった・・・
うきゃ。

「聞いているの?」

あ、やべ。

「聞いています」

「今からもう一度観るの?」

「そうですの」

そういえば急に思い出したぞう!
北大時代の回想シーンで、自分のアパートを訪ねてきた守谷女史を
寄せるようにしっかりと抱きしめたあの民雄は~~~~~~~~~~~、
胸の奥に押さえ込んでいる哀切が、落ち着いた包容力漂う香りの中で
ゆらっと切なく揺れてしまっているようで、もうたまらんくらいの
大人の男の魅力満開だったずらよ!民雄ポーーーーーーインツッ!
そんな様子のあ~んな仕草で抱き寄せられてしまったらららららららら
ららららららららららららららららららららららら

「ダメだと思うのよ」

らららららららららら、え?

「観るのはやめたほがいいと思うのよ、お母さんは」

えぇええ?

「どうして?」

「だって、だってね、あの吉岡くん・・・・・・・
コトー先生じゃないでしょう?

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

クラ。

気のせいかもしれないけど、今立ちくらみが・・・。

「それはそうでしょう。だって違う役を演じているんだもの」

「だからね、だからお母さんとしてはね・・・」

「どうしたの?」

「コトー先生じゃないからお母さんはもうどうしたらいいのっ?!」

そんなことわたすに聞かれてもっ!

「だって違う人物を演じているんだから、
コトー先生じゃないのは当たり前でしょう? 
それに吉岡君はコトー先生じゃないのよ。コトー先生は、
“只今の人物は吉岡くんの提供でお造りいたしました”
っていう吉岡スポンサーの中の一人なんだもの。
お母さんだってず~~~っと長い間、吉岡君のことを
純君、純君って呼んでいたじゃない? でももう純君じゃないでしょう? 
それと同じ。吉岡くんはコトー先生でもないの。役者さんなのよ」

凄い役者さんなのだよ、吉岡君は、ママン。

「それはわかっているのよ。でもお母さんの言いたいことは
そういうことじゃないの」

ではなんだと仰るのですか?

「あのね、観ている最中はのめり込んじゃっていたから
全然気にならなかったんだけど、でも観終わった後にね、
そういえばこれはコトー先生じゃなかったってことに気付いたの」

ほ~~う。

「それで?」
 
「思い返してみたらコトー先生のコの字もなかったんだもの。。。
吉岡君に癒してもらえると思って観たのに、
全然癒されなかったうえにね、暴力振るうシーンもあったから
それを思い出したらお母さんはもうショックで・・・」

なりほど。

「あんなのコトー先生じゃないわっ」

ふぃ~~~~っす。

「だからあれは二代目の民雄であってコトー先生ではないのだから、
そこにコトー先生の面影がなくて当たり前でしょう? 
でもその当たり前なことを当たり前のようにこなすのは
実は至難の業であり、しかし吉岡君はそれをいとも当たり前のように
出来てしまう当たり前ではない才能の持ち主人であるのにもかかわらず
当たり前のように普通の兄ちゃんでいられる人でもあるから
ミラクルくんだわっ! 惚れちゃうのですの。惚れてるけどっ!
吉岡くんってば惚れさせ大王

「ちゃんと人の話を聞いてちょうだい」

「聞いていますわよ」

「今から観直すのならね、あのドラマ三部に分かれているでしょう?」

「うん、えぐっちゃんも伊藤さんもそれぞれ良かったよね」

「一部と三部だけ観たら?」

どしゃぁっ?!

「一部と三部だけ観るなんて、お通しとお茶だけで済ませてしまう
寿司屋の巻みたいじゃない。そういうわけにはいかないのです。
というか二部だけ見たいのですのよ、あなたの娘は」

「悲しくなってもいいの? コトー先生のイメージがなくなっちゃうわよ」

  

  

  



思わず土星に飛び立ってしまったではないか。

「あのね、思うんだけど、吉岡君は一定のイメージを保つ為に
仕事をしているわけじゃないと思うのよ。
今まで多く生み出してきた嵌り役は
吉岡くんの実力が生み出したものであって
イメージが作り上げたものじゃないでしょう。
新しい役を演じればその役しか浮かばせずに、
それまで人が抱いていた役のイメージを新しい空気で
消し去ってしまうのが吉岡くんなんだから、
なんかファブリーズみたいよね。
再演する時だって吉岡くんは形状記憶合金のように
またその役にすいっと戻ってくれるんだから
安心していればいいと思うの。
その人を観ればその人しかいない。
それが名優のなせる業であって、吉岡くんの凄さでしょう? 
生み出した人物の土台を崩してしまうことなんて
吉岡くんは絶対にしないもの。
やっぱり最高の男っぷりよね、吉岡くんったらべらぼうに頼もしいわ。
んきゃ

「歓声は別にいいから、きちんと真面目に会話してちょうだい」

「大真面目ですわよ。
民雄はただお母さんの好みに合わなかっただけです。
でもこの役も吉岡君が一球入魂して演じきった役だということは
間違いないわけだし、お母さんだって観ている最中は
好き嫌いを感じずにどっぷりドラマの中に引き込まれてしまったのだから、
それは即ち、素晴らしいではないですか、吉岡くん、わぉ! 
ということではないのでしょうか?
それにまたもしコトー先生が戻ってきたら、
その時に観る吉岡君はもうコトー先生以外の何者でもないのだろうし、
それでいいんじゃないのかなって思うけど」

「それはわかっているのだけど・・・でもね、」

「でも何?」

「今年こそ続編はあるんでしょうね、コトー先生?」

そんなこと知らないよっ!!!  

っていうかこんなことを言う為に
わざわざ国際電話をかけてきたのですか、母よ? 
って思っているそばから電話口の向こうで、

「満男が大変なことになっちゃったぞぉっ!!!」

って何やら叫んでいる父の声が聞こえたりして一体

なんて家族なんだ。。。

立ちくらみがしたのは気のせいではなかった。


しかしこういう会話をした後にいつも思うのだけれど、
これだけの確固たる幾人もの人物像を
沢山の人々の中に植えつけてしまう吉岡君は
やはりすごい役者さんですだ。


父も母も、役者吉岡くんのことは
もちろん大好きで認めてはいるけれど、
しかしどうしても満男くんや純君、コトー先生に
気持ちの基点が戻ってしまう。
というか戻らせてしまう。
母にとっての吉岡君は、昔は純君であって、
そして今はコトー先生であり、
父にとっては永遠の寅さんの甥っ子くんであり、
きっとずっとそうあってほしいのだと思うわけで。

愛着というものでありますのぉ~。。。

純君や満男くん、そしてコトー先生として
吉岡君自身の姿を見てしまうのは、
その役の人物に作為の臭みを全く感じることがないから、
ごく自然にそこから吉岡くんという役者の枠が外れて、
その人物そのものが観る者の心の中で自呼吸を始めてしまうのかも
しれないですねぃ。

そんな息づいた人物を生み出しながら吉岡君自身はしかし、
一体その人物達のどこに潜んでいるのだろう?

もちろん台詞を言うのも、感情を表情に出すのも
吉岡くんの心から生まれ出ていることはわかっているけれど、
でもなんといっていいのか上手く表現できないのでぃすが、
吉岡くん自身の「姿」は、その役の中に
すぃ~と深く潜り込んでしまっていて、
まるで気配が見えないわけで。
その体も吉岡君のものなのだけれど、
でもそれはなんか吉岡君のものぢゃな~い! 
と思ったりもしちゃうわけで、摩訶不思議くんでありまする。

すべてをその役の心に委ねてしまう、
という感じで演じているのかな~
とも思ったりしたのですが、でも先日読んでいたある本の中の一節に、
世界的に有名なジョッキーさんの競馬レースでの逸話が載っていて、
それを読んだ時に、ふと
吉岡くんのことを思い出したとです。

そのジョッキーさんの話によると、
どんなに名馬と呼ばれる馬でもレースの途中で、

「あ、もうあかん、ヒヒン」

とギブアップしてしまう
ブレーキング・ポイントと呼ばれる瞬間があるそうで、
それを騎手の人はどんな大歓声の中にいても
聞き取ることができるそうです。
その時にどれだけその馬を励ますことができるか、
心の底からどれだけ大きな声で馬に語りかけることができるか、
それが勝利の明暗を決めると。
闇雲に鞭でゴールに追い立てるのではなく、
「一緒に行こう。がんばろう!」
と励まし続けることが大切で、
それを馬は絶対に聞いてくれると。
馬の気持ちを読んで
馬と一心同体となりゴールへ向かう。
そうするのが名騎手なんだと、
そう語ってらっしゃったであります。

もちろんこれは憶測でしかないけれど、
なんか吉岡君が演じるときって
これに近いものがあるのかな~
なんて思ったりしたとですばい。

役の人物を励ましたり、また時には
その役の人物に本人が助けられたりしながら
共に叱咤激励しながらゴールへと一心同体となって向かっていく
馬上の見えない騎手のような感じなのかな、と。。。。

「純君とはケンカしながらずっと演じてきた」

と以前語っていた吉岡君だけれど、
でもそれだってやはり純君という人物と、
吉岡くん本人が真っ向から向かい合っていたから
そうなってしまったわけだと思うわけであり。

役の人物をきちんと見つめることができる。
役の人物にしっかり語りかけてあげることができる。
役の人物の気持ちをないがしろにしない。
そういった優しさが
彼の演技の根底にはあるのかな、と。
そういった優しさが、
己の姿を消しさり、深く潜り込んだ内面から、
役の人物の姿だけを外面へと
そっと押し出してあげることができるのかな、と
なんかそげなことを思ったとですたい。


役者さんは作品の窓であると思うわけで、
その窓が一方的に役者さん自身に向けた内側に開いているのか、
それとも観客側に向けて外側に大きく開いているのかで、
作品自体が語りかける力も変わってきてしまうと思うです。

吉岡くんの開く窓は
いつも外側に向かっていると思うでありますです。

だから受け取る側は、
その先に広がった景色を広く見渡すことができるのだと、
そう思うでありまする。


ハッ


気付けば三月また長文。


最後までお付き合いしてくださって
ありがとうございました。
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