長崎市への原爆投下
昭和20年(1945年)8月9日、アメリカ軍によって長崎に原爆が投下された。 当時、長崎医大に勤務していた永井隆博士も被爆して頭に重傷を負ったが、すぐに他の被爆者の救護活動に全力を尽くした。
永井博士は11日に帰宅したが、台所跡から骨片だけになった妻の遺骸を発見し、悲しみに暮れながらこれを埋葬した。被爆直後の永井博士の実状は以上である。
敗戦後も博士は白血病などに苦しみながら、被爆者の救護、救援に全力を挙げたが、昭和26年5月、入院中に帰らぬ人となった。まだ43歳の若さだった。
闘病生活を続けながらも、永井博士の献身的な活動は多くの人々の感動を呼び、内外に広く伝えられた。巡行中の昭和天皇が見舞いに訪れたり、ローマ教皇庁が2度にわたって見舞いの特使を派遣するなどした。
こうした中で、昭和24年7月にサトウハチローの作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』が生まれた。歌ったのは藤山一郎で、藤山自身、アコーディオンをかついで生前の永井博士を見舞い、枕元でこの曲を歌ったのである。 (2024年8月9日)
藤山一郎 / 長崎の鐘