飲食居抜きソムリエ  山田 茂  飲食を辞める始めるときのブログ                 

飲食店を希望を持って始めたり順調に多店舗化したり、内装設備に費用がかなり掛かります。その投資を回収できます。

2.野菜コーディネーター17

2017-06-30 09:41:25 | アート

   

 

                                   プロフィール
             バックナンバー

 

  うどんの研究  
          連載中

  

   (10)うどんを初めて作る
 
    ③麺づくり(1)       new
 
     ・小麦粉をボールにあけ、散
      らす
     ・塩水1/3を縁を描くように
      に散らす
     ・手に水が付かないように
      まんべんなく粉に水がと
      るようにかき混ぜる、こ
      れが結構難しい、小さな
      粒状になる
                 (じかに続く)   
 
    ②材料と可能性       
 
     ・小麦粉(中力粉) 500g
     ・塩          30g(6%)
     ・水        250g(50%)
     素人ながらこれだけの材料で捏
     ねて踏んで寝かしてあのうどん
     が出来ると思うと、少し驚いた
     。この過程の中にうどんの可能
     があるかもしれない、何も足
     してないのに結構うまい。将来
     色々試してみて、創作うどんを
     作って世に問いたい新たな気持
     になった。
     (次回に続く)
 
 
    ①講習会受ける
 
     2017年2月12日(日)うどん講
     習会があり初めて参加して実際
     にうどんを作ってみました。一
     番大変と思ったのは粉に塩水を
     入れて捏ねる作業です。結構、
     力が必要で中々スムーズにいか
     ず、助けてもらいました。皆さ
     んの協力のもとに2時間で予定
     通り完成しその後、麺を茹て、
     汁も作り頂きました。作り立て
     なのでおいかったです。
     (次回に続く)
 
  
 
 
   (9)きしめんについて
 
    ⑥ 語源         

      「きしめん」の語源は、「原
      型は麺でなく碁石型だった故
      に、“碁子麺”が転じて“きしめ
      ん”となった」という説や、「
      紀州の者が作った“紀州麺”(
      きしゅうめん)から“きしめん
      ”となった」という説、「キジ
      の肉をめんの具にして藩主主
      に献上した“雉麺”から」など、
      諸説ある。
      (次回に続く)
     
    ⑤ 起源          
 
                 起源は各説あり、定かとはな
                 っていない。例えば、国学院
                 大学の加藤有次は、「江戸時
                 代、東海道・芋川(愛知県刈
                 谷市)名物だった平打ちうど
                 ん」がきしめんのルーツとの
                 説を唱えている。同地で作ら
                 れていた平らなうどんは「芋
                 川(いもかわ)うどん」と呼
                 ばれ、江戸時代初期から同地
                 の名物として知られており、
                 同時代に書かれた『嬉遊笑覧
                 』では、「江戸で言う“ひもか
                 わうどん”の起源か?」とも記
                 されている。だが「芋川」の
                 場所は、今川町、今岡町(そ
                 の事を記した木碑がある)、
                 一里山町と諸説ある。他方、
                 名古屋市教育委員会は、三
                 河池鯉鮒宿(現知立市)で雉
                 の肉を入れたうどんが好評で
                 雉麺(きしめん)と呼ばれ
                 て名古屋にまで伝わったとい
                 う説を主張、名古屋城内にあ
                 る「きしめん亭」前には教育
                 委員会による説明看板がある。
                 (次回に続く)
 
 
 
    ④ 歴史        
 
      江戸時代の『東海道名所記』
      には三河(三河国)芋川の名
      物だとされており、『好色一
      代男』でも触れられている。
      江戸時代後期には、江戸にお
      いて「ひもかわ」と呼んでい
      たが、『守貞謾稿』において
      「ひもかわ」は芋川の訛りで、
      名古屋では「きしめん」と呼
      ぶと記述されている。
      (次回に続く)
 
 
 
    ③ 料理        

      生地を薄く伸ばすのでうどん
      と比べると麺が長く、薄く平
      らなので茹でる時間が短い。
      水と小麦粉と塩を練って作る
      点はうどんと同じだが、うど
      んよりも平たく延ばすために
      途中で切れたり折れたりする
      場合があり、うどんと比較し
      てコシは非常に弱い。表面は
      滑らかでつるりとしている。
      茹でた麺にかけそばと同様な
      熱いつゆをかけ、油揚げや鶏
      肉などの具や、ネギ、削り節
      を載せるのが一般的な食べ方
      である。また、“カレーきし
      めん”(→カレーうどん)や“
      味噌煮込みきしめん”(→味
      噌煮込みうどん)、“力きし
      めん”(→力うどん)のよう
      に、うどんと同じように調
      理されたきしめんもあり、
      夏場には“ざるきしめん”(
      →ざるうどん)やきしころ
      などの冷やし麺としても食
      べられる。きしめんはうど
      んより水分を吸いやすいた
      め、うどんを用いる時より
      汁の水分を減らしたり、茹
      で時間を短縮したりするな
      どの工夫が必要ではあるも
      のの、うどんと類似した調
      理方法も多く、店でも販売
      されている。
      (次回続く)
 
 
        ② 規格        
      乾麺については、日本農林規
      格(JAS)の『乾めん類品質
      表示基準』にて「幅を4.5m
      m以上とし、かつ、厚さを2.
      0mm未満の帯状に成形した
       ものにあっては「干しひらめ
       ん」、「ひらめん」、「きし
       めん」又は「ひもかわ」と記
       載することができる。」と分
       類されている。
       生麺・茹で麺等(半生・冷凍
       麺等も含む)については製麺
       法を問わず『生めん類の表示
       に関する公正競争規約』にて、
      「きしめん、等一般消費者に
       誤認されない名称に替えるこ
       とができる(一部抜粋) 」と
       記載されており、具体的な数
       値や形状による基準は示され
       ていないため、製造・販売業
       者にて見た目が薄くて平たい
       形状の麺を「きしめん」と名
       付けて分類している。ただし、
       名古屋地域の名産・特産・本
       場・名物等として「名古屋
       しめん」と表示する場合のみ、
       同規約に記載されている詳細
       な基準を満たした麺にする必
       要がある。
      (次回に続く)
    

    ①きしめんとは     
     きしめんとは、幅が広く薄い日
     本の麺、ならびにその麺を使用
     した料理を指す。一般的なうど
     んとは形が異なり、平たい形状
     のうどんである。愛知県では「
     きしめん普及委員会」が発足す
     るなど、愛知県の名物となって
     いる。後述の基準を満たすもの
     は、特に「名古屋きしめん」と
     表示することが許されている。
     平たいうどんは平打ちうどん
     ひらうちうどん)とも呼ばれ、
     JASではうどんの一種とされる。
     群馬県の「ひもかわ」や岡山県
     の「しのうどん」など、さまざ
     まな名称の平打ちうどんが、日
     本の各所にある。
     (次回に続く)

 

  (8)五島うどんについて     

           日本の三大うどんのひとつ「五島う
           どん」は、五島の風土に育まれ、歴
           史と伝統に培われた自然食品です。
           遣唐使の時代に、五島列島に伝わっ
           たと言われる五島手延うどん。元寇
           の役に捕虜となり、五島に住みつい
           た中国人が教えたなど、数多くの伝
           承が残っており、起源は確かではあ
           りませんが大陸から伝わった事は、
           間違いないようです。
           五島列島は、その昔遣唐使の寄港地
           で、東西文化の重要な中継点でもあ
           ったのです。
           つまり、五島は中国をルーツとする
           麺伝来の路であり、日本の麺ロード
           の拠点でもあったのです。
           (次回に続く)

 

   (7)氷見(ひみ)うどんについて 

    氷見うどん(ひみうどん)は、富山
    県氷見市周辺の郷土料理である。作
    り方は稲庭うどんと同じで竹により
    ながらかける手縫いで、油を塗らな
    い。ルーツは輪島のそうめんで、1
    751年(宝暦元年)に「高岡屋」が
    輪島から技法を取り入れて作り始め
    たとされる。
    (次回に続く)

 

   (6)水沢うどんについて    

    水沢うどん(みずさわうどん)とは、
    群馬県渋川市伊香保町水沢付近で名
    物料理とされるうどんである。諸説
    あるが讃岐うどん・稲庭うどんと並
    んで、日本三大うどんの一つとされ
    る。水沢うどんは、水澤寺(水澤観
    音)付近で参拝客向けに提供された
    ことが始まりとされる手打ちうどん
    である。麺はコシと弾力があり、と
    ころどころ透き通るつるつるした白
    い麺である。冷たいざるうどんで提
    供される。つけ汁は、しょうゆだれ
    やゴマだれなど、店によって異なる。
    麺は、コネ・伸ばしと寝かせを繰り
    返し、切って麺にしたあと乾燥させ
    たものをお土産用として販売してい
    る。
           (次回に続く)

 

    (5)稲庭うどんについて

    2.歴史         

     稲庭古今事跡誌にもとづく史実に
     よれば、稲庭うどんは、羽後の国
     (秋田県)雄勝郡稲庭村の佐藤市
     兵衛に始まると伝えられています。
     市兵衛は陸奥の国(宮城県)の人
     でありましたが、稲庭村に移り住
     み、一族にその製法を伝えました。
     今を去ること三百余年、秋田藩主
     の御用を受けたと記録されていま
     す。稲庭うどんは、四国の讃岐う
     どん、名古屋のきしめんとともに
     日本三銘うどんに数えられるほど、
     おいしさには定評があります。お
     いしいうどんに共通するのは、コ
     シのある歯ごたえ、なめらかな舌
     ざわり、ツルツルした味わいです
     が、稲庭うどんには、さらに繊細
     な線の細い上品さが加わります。
     (次回に続く)

 

    1.三大うどんの一つ    

     稲庭うどん(いなにわうどん)は、
     秋田県南部の手延べ製法による干
     しうどんである。日本三大うどん
     のひとつに数えられる。ひやむぎ
     より若干太く、やや黄色味かかっ
     た色をしている。打ち粉としてで
     ん粉を使う点や、乾燥前につぶす
     事による平べったい形状が特徴。
     乾麺が一般的に流通しているが、
     地元および県外のアンテナショッ
     プ等では半生麺も入手できる。麺
     は気泡により中空になっており、
     そのために食感は滑らか。稲庭う
     どんについて記述のある「稲庭古
     今事蹟誌」によると、寛文年間以
     前に秋田藩稲庭村小沢集落(現:
     秋田県湯沢市稲庭町字小沢)の佐
     藤市兵衛によって始まると伝えら
     れている。また、秋田には同じ製
     法で作った「稲庭そうめん」もあ
     る。各地に伝わるふるさとの味と
     して、2007年(平成19年)、農
     林水産省により「農山漁村の郷
     土料理百選」として選ばれた。
     (次回に続く)

                 

 

     (4)桐生うどんについて

    7.現代の若者にも受け入れられる
       うどん         

                禅宗から広められた”うどん”は中
                国の醤(ジャン)から味噌、醤油
                のだし汁へと移り、味覚はさらに
                発展します。   古くから上州(桐
                生地方)の風習で、”うどん”が冠
                婚葬祭には必ず添えられる料理の
                一品でした。仏事ではお清めとし
                て用い、婚礼では食感を”綴る綴る
               (つるつる)=鶴々 噛め噛め(か
                めかめ)=亀々と、鶴は千年亀は
                万年”にたとえて、また”純白で細
                くても長く”と人生を訓じた料理と
                して用いられ、今日でもこの風習
                を見受けることができます。 今、
                世界の国々との交流が増す中各国
                の食文化に身近に接しられて、日
                本古来の食べ方はレパートリーを
                拡大し、カレー・スパゲティ・パ
                スタ料理の分野にも進行していま
                す。特に家庭料理の中にその発展
                 が著しく現れています。
      (次回に続く)

 

    6. 世界の麺類は醤(ひしお)文化の
      兄弟           
      
                 麦を製粉して麺を作る技術は中国
      から日本にきましたが、さらには、
      シルクロードの彼方ヨーロッパへ
      もゆき「パスタ」となりました。
      アジア諸国にもそれぞれの麺があ
      り、韓国の「冷麺」、タイ、マレ
      ーシアの「舟ソバ」などがあり、
      今日では日本人にもなじみ深く、
      これらは、それぞれ全く別の文化
      圏の中にあり、全く別の味覚をし
      ていますが、少し「科学の目」で
      観ると意外なことがわかります。
      スパゲティーやピザを食べるとき
      にタバスコをかけますね。このタ
      バスコはブラジル特産で、その製
      法はトウガラシを塩漬けして発酵
      させ、酢と一緒にすりつぶして濾
      したもので、これは「草醤」の一
      種なのです。タバスコの辛さの主
      成分の「カプサイシン」を除くと
      日本の「薄口醤油」とうま味成分
      がよく似ています。また「ニョク
      マム」
「ナンプラー」などは、
      エビや小魚を原料とした「魚醤」
      
で穀類や豆類を原料とする「ジャ
      ン(=醤)」
は日本の味噌の仲間
      です。世界各地の麺類は、皆、
      によって食べられ、それぞれの国
      の気候風土によって異なった味覚
      の文化を進めてきました。 この
      醤の味の頂点が日本で完成された
      醤油ではないでしょうか。今、ま
      さに世界中がこの醤油を用いた
      料理に舌鼓を打っているのも周知
      のとおりです。桐生の”うどん”が
      最高に美味と評価されている要因
      のひとつは、普段何気なく使って
      いる濃口醤油に秘められた究極の
      味のようです。
      
(次回に続く)

        5.日本の麺と味噌・醤油

     ⑤塩分補給の知恵     
      食塩や穀物の保存目的で作り出さ
      れた濃口の味噌・醤油は、やがて、
      関東地方の気候や風土性の影響を
      受けて定着します。特に上州(桐
      生周辺)は、寒さの厳しいところ
      で、からっ風によって体感温度は
      強烈に寒さを感じさせます。そこ
      で血液内の塩分量を高めると、燃
      焼作用が盛んになって体温が上昇
      します。つまり体温を高めるため
      に塩分の多量摂取をして寒さに耐
      えていたのです。また、夏の猛暑
      でたくさん汗を出し、体内塩分が
      失われた時に「冷たいうどん」を
      「濃口のだし汁」で食べることに
      より、塩分の補給ができ、心地よ
      く最適な暑気払いができ、一年中
      元気に働いてきました。
      (次回に続く)

 

     ④塩の保存と味噌・醤油   
      関東の山地地方の上州、甲州、信
      州などは、塩の輸送には不便なと
      ころで塩が断絶する可能性がある
      ために、塩の保存法として味噌や
      醤油の塩分を強くしました。昔、
      武田信玄と上杉謙信との戦いで武
      田軍への塩の供給が絶たれたため
      に、一時戦いを中断して上杉が武
      田に塩を送った話は有名です。 
      また、溜醤油の分布圏では有名な
      岡崎八丁味噌があり、これは黒系
      の味噌で塩分が強いものです。信
      玄味噌は、塩分が強く黄色系味噌
      ですが、これが濃口醤油の起源と
      いわれています。
      (次回にに続く)

 

     ③薄口醤油・溜醤油・濃口醤油
      さらに日本人は発酵を止めるため
      と塩自体を保存するために用いた
      塩分の量などを加減することによ
      って何種類もの品種をつくり目的
      に応じた醤油をつくりあげました。
      銘柄によっていろいろ複雑な種類
      がありますが、大雑把には三つの
      系統があります。関西を中心とす
      る薄口醤油、中部日本を中心とす
      る溜醤油、東日本を中心とする濃     
      口醤油の三つです。薄口は、大豆
      を炒らないで塩分を少なく、グル
      タミン酸ナトリウムとアミノ酸は
      同量にしてあります。溜は、大豆
      を炒って黒みをつけながら濃くし
      ぼったもので、濃口は、塩分を強
      くして黒みをとくに強めたもので
      す。これは風土の味覚、好みに合
      わせて作られたものですが、そこ
      には深い必然性がありました。
      (次回続く)

 

     ②魚醤・草醤・穀醬・醤油  
      日本の味と称される世界的調味料で
      ある醤油は、日本人の発明品です。
      東南アジアの照葉樹林帯文化が入っ
      て来たと同じ時期に、北から来た”
      そば”と南から来た発酵食品文化が
      日本で鉢合わせします。すると、日
      本人はそれを一緒にして”そば””う
      どん”などを醤油タレで食べ始めた
      のです。日本人の舌が最初にグルタ
      ミン酸ナトリウムとアミノ酸を探り
      当てたのは、魚から発酵抽出した調
      味料の魚醤
です。今日でも裏日本の
      一部、特に秋田、山形、新潟の一部
      の地方に限って使用されている「塩
      汁(しおっつる)」
はこの魚醤の系
      統で、魚の生肉を発酵させて抽出し
      たもので、秋田料理の”しょっつる”
      のうま味がこれです。今では使用さ
      れていませんが、草醤(くさびしお
      )という野菜類を発酵抽出した醤油
      がありました。 この草醤魚醤に対
      して、穀物を原料とする穀醤、これ
      が大豆を原料にした発酵抽出醤です。
      このタンパク質を発酵させるという
      アイデアの原形は、アジア照葉樹林
      帯文化のもたらした知恵ですが、そ
      れを利用して日本人は醤油を作り上
      げ、、ついには日本を代表する味と
      して定着させていきました。醤油の
      うま味は単なる味でなく、グルタミ
      ン酸ナトリウムとアミノ酸によるう
      ま味成分で、人間の成長発育にとっ
      て非常に重要な役割をもった調味料
      なのです。
      (次回に続く)

     

     ①索餅・素麺・うどん・そば
                 細い麺類で日本で一番古いものは索
      餅(さくぺい)といわれ、太い素麺
     (そうめん)のようなもので、麦粉で
      作ることもありますがだいたいは米
      粉で作ります。米粉を練って長いひ
      もにして、それを蒸して味噌のタレ
     (汁)をつけて食べます。素麺は、禅
      とともに日本に入ってきました。小
      麦粉に油・塩を練り込み引き伸ばし
      て細くし、乾燥して食べる保存用の
      麺です。これも古くは味噌タレで食
      べたといいます。江戸時代に入り、
      伸ばして刻んだいわゆる”切りそば”
      ,”切り饂飩(うどん)”が禅宗寺院
      の料理法から広まり、「素麺」「
      うどん」「そば」
ができました。こ
      の頃になって醤油タレで食べ始めま
      す。「そば」は日本人しか食べない
      食品のひとつと思われていますが、
      元々は中国の雲南省あたりから中国
      の北部を経て日本に入ってきたとい
      われます。因みに”饂飩”は中国の呼
      び名です。
      (次回に続く)

 

 

    4.うまいうどん粉の特産地群馬

              ②うまい「うどん粉」を育てた群馬
      の気候・風土(2)      

      また日本一を自称する「からっ風」
      も地形の影響が大きく、シベリア生
        まれの冬の寒気団から溢れ出し乾燥
      した季節風は、日本海で水蒸気を吸
      収し日本に上陸後、日本海側の山々
      にぶつかって大雪を降らせて再び乾
      燥します。谷川山系でしっかりと日
      本海側と隔てられながらも、山を越
      えた風は利根川の谷に沿って一気に
      吹き出してきます。榛名山と赤城山
      に挟まれた渋川から前橋までの地形
      は、ちょうどラッパの吹き出し口の
      役割を果たし、両山の広い裾野はか
      らっ風の滑り台となります。さらに
      碓氷峠、妙義山系を越えてくる西風
      も高崎で平野部に出ます。風は合流
      して勢いを増し、前橋から東毛一帯
      は最も強い「からっ風銀座」になり
      ます。この日本一を自認する「雷雨
      」
「からっ風」の二つの流れ道の
      平地部は、これまた日本一うまい「
      うどん」を作る小麦の生産地域と合
      致します。   火山活動の遺産は、
      ミネラルに富んだ土地を作り、風は
      有機物を運び雷雨は植物を育てます 
      (次回に続く)

 

 

              ②うまい「うどん粉」を育てた群馬
      の気候・風土(1)   
      
上州名物は古くから、「雷」
      からっ風」
それに「うまいうどん
      」
と言い伝えられてきました。こ
      の三つの名物は、お互いに深く関
      わり合っています。私たちが生活
      している上州(桐生周辺)は、太
      古火山の活動によって形成された
      土地柄です。平地は火山灰土で、
      その上で私たちは毎日生活してい
      ます。  火山地図を見ると、火山
      フロント(前線)が、北方領土か
      ら北海道・東北地方中部を南下し
      て群馬を通って長野県までほぼ一
      列に並んでいます。群馬はその火
      山フロントの上にあります。この
      火山によって形成された山々の位
      置が起因して雷雨が発生します。
      群馬特有の山地の地形が上昇気流
      を生み雷を誕生させます。特に夏
      の典型的な熱雷はこの地形的な要
      因による発雷の結果だといわれて
      います。県中央部には、新治村山
      地から発し、榛名山と赤城山の間
      を抜けて、前橋、伊勢崎、本庄方
      面に雷雲を流すライン。県西部に
      は、長野原、中之条から榛名西麓
      を抜けて、高崎から藤岡に出るラ
      イン。このラインは安中、富岡、
      甘楽方面からの「分流」が合流し
      ます。もうひとつは、県東部の栃
      木県境、足尾山系を源に勢多郡東
      村から大間々、桐生、太田と流れ
      ます。これら三つの雷ラインは
      国有数の雷銀座
で日本一と思われ
      ます。
      (次回に続く)

 

 

     ①新品種「群馬W2号」   
       北海道以外では、九州と北関東に
       産地が集約され、以前はあちこち
       にあった特徴ある品種のものはほ
       とんどなくなり、現存は農林61
       号が主要品種ですが、九州ではシ
       ロガネコムギやニシカゼコムギが
       増えています。地域によってタン
       パク量がかなり違い、北関東産の
       平均は10%台で九州産は9%台
       になる年が多いようですが、ばら
       つきが大きいといいます。タンパ
         ク質も地域によって差があり、九
       州産は軟質的なものが多く、北関
       東産は軟質と中間質の間です。北
       関東では群馬産が評価が高く、埼
       玉がこれに次ぎ、栃木および茨城
       産はばらつきが大きく、やや劣っ
       ています。うまい”うどん粉”の特
       産地”群馬県”が、今、更に優れた
       味覚と生産性の良い新品種「群馬
       W2号(仮称)」(=食味の良い
       カントウ107号x病害に強いバ
       ンドウワセの交配種)の開発に成
       功し、その小麦による「うどんの
       試験製造」が開始されると報道さ
       れました。その評価が楽しみでが、
       この開発のかげには群馬県農業試
       験場の改良技術の優秀性と、さら
       に製粉の特殊な技術の高さがあっ
       たことを忘れてはなりません。
      (次回に続く)

 

 

    3.うどん粉の種類を決める
      原料小麦

              ⑨国内産麦の性状

          ・銘柄      
       銘柄は、1987(昭
       和62)年から良質麦
       への生産誘導を図るた
       め、次の四つの銘柄区
       分が導入されました。

                     「銘柄区分Ⅳ」
                      
今後「銘柄区分Ⅳ」以
                       外への作付け転換が必
                       要なもの。

                     

                     「銘柄区分Ⅲ」
                     
「銘柄区分Ⅰ、Ⅱ、Ⅳ」
                       以外のもの。
                       (次回に続く)

 

                     「銘柄区分Ⅱ」 
                        次の要件をすべて満た
                        す小麦であること
                         ・
製粉および製めん適
          性の評価において国
          内産小麦の中では中
          位ランクのもので、
          需要度が高いもの。
        ・過去3年間の年平均
         出回り数量が各都
         道府県(各都道府県
           を二つ以上の区域に
           分けた場合にはその
         区域)別に500ト
         ン以上のもの。
        ・「銘柄区分Ⅰ」のc)
         およびd)を満たす
         もの。
         (次回に続く)

 

 

       「銘柄区分Ⅰ」 
        
次の要件をすべて満た
        す小麦であること。
        ・製粉および製めん適
         性の評価において国
         内産小麦の中では上
         位ランクのもので、 
         需要度が高いもの。
        ・過去3年間の年平均
         出回り数量が各都道
         府県(各都道府県を
         二つ以上の区域に分
         けた場合にはその区
         域)別に1,000トン
         以上のもの。
        ・原則として各都道府
         県の奨励品種。
        ・検査にあたって品種
         の判定が可能なもの。
        (次回に続く)  

 

    
      ・種類       
       種類は、「強力小麦」
      「普通小麦」および「種
       子小麦」とがあります。
       硬質系品種のハルヒカ
       リやアオバコムギに認
       定されると、「強力小
       麦」に格付けされます
       が、国内は、自然条件
       が強力小麦の生産にあ
       まり適さず、品質が中
       途半端なため、積極的
       な需要がなくごくわず
       かしか生産されていま
       せん。大部分は「普通
       小麦」で、農産物規格
       規定によって定められ
       た品種の小麦を定めら
       れた道府県で生産した
       ものは、産地銘柄に認
       定されます。
      (次回に続く)

     ⑧日本の小麦生産 
      1970(昭和45)年
      代の初めの頃までは、関
      東・九州を中心に比較的
      小麦作に適した土地では
      ほぼ全国的に生産されて
      いましたが、北海道での
      生産は多くありませんで
      した。しかし、現在では、
      国内生産量の半分強が北
      海道で、残りを主として
      北関東と九州で生産する
      パターンに変わっていま
      す。食糧用小麦中での国
      内産小麦の比率(内麦率)
      は15%強で、めん用に
      しかむかず、その適性も
      生産地によって異なり、
      満足できるレベルでない
      ものもあります。国内産
      小麦は、産地や品種で品
      質差が大きく製粉性がよ
      くありません。製めん性
      が劣る(消費者が望む”
      おいしいめん”を作りに
      くい)といった問題を抱
      えています。
      (次回に続く)

 

 

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3.飲食店を辞める時 29

2017-06-13 11:05:06 | アート

    飲食店をやめるとき 得するには
      早めの相談が より効果的です
      ★ブログデビュー1周年記念
       第2弾

       造作買い取り業務開始

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     「切腹最中」     new
      一日7000個売れる  連載 4

             場所を生かすアイデア

     渡辺: 「豆大福」でした。お客さ
     まからは「日持ちのする菓子をつく
     ってくれないか?」、義父からは「
     ヒット商品をつくってくれないか?
     」といった話があったのですが、豆
     大福がよく売れていたので、なかな
     か手をつけることができませんでし  
     た。数年後、義父が体調を崩して亡
     くなりました。残された私に「日持
     ちのするお菓子をつくらなければい
     けない」「ヒット商品をつくらなけ
     ればいけない」という言葉が重くの
     しかかってきたんですよね。日持ち
     のいいお菓子といえば最中かな。で
     も、どんな最中にすればいいのか。
     悶々としていると、ふとこんなアイ
     デアが浮かんできました。「店は、
     忠臣蔵でおなじみの田村屋敷の跡地
     にある。浅野内匠頭(あさのたくみ
     のかみ)が切腹した場所だ。この地
     にちなんだ商品をつくることはでき
     ないか」と。
     (次回に続く)

 

 

     「切腹最中」     
      一日7000個売れる  連載3

            家族から大反対された
    「切腹最中」

             土肥: 一般的に最中というと、
             薄く焼いた皮の中に「あんこ」が
             入っていますよね。でも、切腹最
             中は違う。あんこの量が多すぎて、
             皮が閉じていません。しかもその
             あんこが光沢を帯びているので、
             「甘いのかなあ」と感じたのです
             が、実際に食べてみるとくどさが
             なく、口の中に入れると溶けてい
             く感じ。さて、この切腹最中を手
             にするために、多くのサラリーマ
             ンが店に足を運んでいますよね。
             取材前(平日の午後2時ころ)に、
             ちょっと観察したところ、8~9割
             がスーツ姿の男性でした。和菓子
             屋といえば一般的に女性客が多い
             のに、なぜ男性……しかもサラリ
             ーマンが多いのか。その話を聞く
             前に、切腹最中ができた経緯を教
             えていただけますか?
             渡辺: いまから30年ほど前、父
             が経営していた印刷会社を受け継
             ぎ、そこで兄と一緒に働いていま
             した。そんなときに、新正堂を運
             営していた義父から「菓子屋をや
             らないか?」と持ちかけられたん
            ですよね。断わるわけにもいかず、
            お店で働くことに。でも、全くの
            素人だったので、仕事が終わって
            から、夜は製菓学校で和菓子とは
            何かをイチから学んでいました。
            土肥: 当時の看板商品は何だっ
            たのですか?
            (じかに続く)

 

 

                「切腹最中」     
       一日7000個売れる  連載2

       どうして7000個も売れるか

       そんな人にオススメの商品がある。
       「切腹最中(せっぷくもなか)」だ
        。JR新橋駅から徒歩10分ほどのと
       ころに「新正堂(しんしょうどう)
        」という和菓子屋があって、そこ
       で販売しているわけだが、平日に
       もかかわらず店の前にはサラリー
       マンの行列ができることも。目当
       ては、もちろん切腹最中である。
       謝っても許してもらえそうもない、
       どうしよう――。このような状況
       に追い込まれたサラリーマンが、
       最後の手段として切腹最中を持参
       するのである。もちろん、手土産
       を持参したからといって許しても
       らえるかどうか分からないが、藁
      (わら)にもすがる思いで店の暖簾
      (のれん)をくぐっていくのだ。
       ここで疑問がひとつ。お詫びの気持
       ちを伝えるために購入する人が多い
       そうだが、新正堂に聞いたところ「
       そんな目的でつくったわけではない
       」という。では、なぜこのような動
       きが広がったのか。また、大々的に
       PRをしていないのに、多い日になぜ
       7000個以上も売れるのか。2つの謎
       を解くために、同店の渡辺仁久社長
       に話を聞いた。聞き手は、ITmedia
       ビジネスオンラインの土肥義則。
      (次回続く)

 

 

       「切腹最中」    
       一日7000個売れる 新連載

       お詫びの手土産として、多くのサ
       ラリーマンが購入する「切腹最中
       (せっぷくもなか)」をご存じだ
       ろうか。1990年に発売したとこ
       ろ、当初は注目されていなかった
       が、いまでは多い日に7000個以
       上売れている。「切腹」という言
       葉が入っているのに、なぜヒット
       商品に成長したのか。「大事な書
       類をなくしてしまった」「ミスで
       会社に損害を出してしまった」―
       ―。仕事をしていて、大きな失敗
       をしたことがある人も多いのでは。
       そんなとき、どうすればいいのか。
       パナソニックを一代で築き上げた、
       松下幸之助のように「失敗したと
       ころでやめるから失敗になる。成
       功するまで続けたら、それは成功
       になる」と言ってくれればいい。
       しかし、世の中にはそんな悠長に
       構えてくれる人ばかりではない。
       「すぐに、謝りに来い!」と怒鳴
       られた場合、どうすればいいのか。
            土肥義則 ITmedia
                    (今回新連載です)

 

 

       日立のエレベーター new
       世界最速奪回  最終回 3/3

        2016.12のプレスリリース

 

 
photo 16年12月当時の三菱電機のプレスリリース

      (今回最終回有り難うございます)

 

                日立のエレベーター 
       世界最速奪回  連載 2/3

      三菱電機に一度抜かれる

       導入先の広州周大福金融中心は地
      上111階・地下5階・高さ約530メ
       ートルで、オフィス・ホテル・住
      宅が入居する。エレベーターは、
      実運用時は分速1200メートルで運
      転する予定だ。当初は16年秋に運
      行開始予定だったが、ビルの完成
      が長引いているため、実用化は18
      年度中になるという。このエレベ
      ーターは昨年5月の走行実験で、
      当時の世界最速記録の分速1200メ
      ートルを計測したものの、12月に
      三菱電機が中国・上海市の高層ビ
      ル「上海中心大厦」(地上632メ
      ートル)に導入したエレベーター
      が分速1230メートルを記録したた
      め、世界最速の座を奪われていた。
      (次回最終回お楽しみに)

 

       日立のエレベーター 
       世界最速奪回 新連載 1/3

        日立製作所は6月2日、中国・広
      州市で建設中の超高層複合ビル
      「広州周大福金融中心」に導入
      予定のエレベーターが、速度試
      験で世界最速となる分速1260メ
      ートル(時速75.6キロ)を計測
      したと発表した。薄型かつ大出
      力の永久磁石モーターを採用し、
      高強度かつ軽量なロープを導入
      したことにより、超高速化に成
      功。300度以上の摩擦熱に耐え
      る素材を使用したブレーキを搭
      載しているため、安全な停止が
      可能という。独自の気圧制御技
      術を実装しているため、高速エ
      レベーター特有の「耳詰まり感
      」も緩和できるとしている。
                     ITmedia
                 (今回新連載です)

 

 

      道高架下が     new
        人気化する必然 最終回 14

      地域にとっての意味を考える

      ガラス張りで中が見える工房も多
      く、作られたモノを買うだけでな 
      く、職人とやり取りしながら、欲
      しいモノをオーダーすることもで
      きる、新しい工場街が生まれつつ
      ある。このほかにも、期間限定の
      イベントパークや、保育園、公共
      施設、野菜栽培など高架下利用は
      百花繚乱で、ハコとしての多様性
      が話題となっている。制約の多い
      場所をどう使うか、それぞれ知恵
      を絞っているわけだが、それ以上
      に大事なのは、地域にとってどの
      ような意味を持つ空間にするかを
      考えることだ。高架下に生まれる
      新たな「ハブ」が、沿線の価値維
      持、向上に寄与するかもしれない
      のである。
       (今回最終回有り難うございます)

 

        鉄道高架下が     
        人気化する必然  連載 13

      イベントも人が集まりつつある

                 天井高は高く7.5m近いところもあ
                 り、音を気にせず、自由に使える。
                 それが受け、当初30軒ほどの空き
                 があったのが、半分埋まりました」
                 現在のところ、残りの半分は現在耐
                 震改修中などで貸し止めとなってい
                 る状態だが、それが終わり、空いて
                 いる高架下が埋まれば、街が大きく
                 変わる可能性もある。すでに人通り
                 のない、暗かった高架下に人の流れ
                 が生まれ、年に2回くらい行ってい
                 るイベント時には100人以上の人が
                 集まり、満員御礼になる工房もある
                 という。
                  (次回最終回お楽しみに)

 

                 鉄道高架下が     
        人気化する必然  連載 12

                  寂しかった地域が徐々に活性化

                 阪急線の春日道駅―王子公園駅間
                 である。三ノ宮駅界隈だと入居す
                 るテナントもいる高架下も、少し
                 離れるとほとんど使われず荒廃し
                 ていた。2013年にそれを活用し
                 ようと阪急電鉄に提案したのが、
                 神戸R不動産の西村周治氏だった。
                 当初は阪急電鉄に外装費用を頼も
                 うと考えていたが、結局、外装、
                 内装ともテナント側に任せること
                 にした。が、これが逆によかった。
                 初期に入居したのはDIY(日曜大
                 工)ができる人が多かったため、
                 コストをかけずに整備が進み、か
                 つそれぞれが異なる空間になった
                 のだ。「オーナーが統一して整備
                 すると初期投資に費用がかかり、
                 安く貸せなくなってしまう。ここ
                 は更地の状態で貸しているので、
                 賃料が安くなっている。
                 (次回に続く)

 

 

               鉄道高架下が    
        人気化する必然  連載 11

                 個性のあるテナント

                 それが目に見えるのは半年に1度
                 開かれる「家族の文化祭」だ。入
                 居しているテナントが中心となっ
                 て開くこのイベントには、地元を
                 中心に30店舗ほどが出店。音楽イ
                 ベントなども開かれる。開業から
                 2年。文化祭の来客数は当初の10
                 00人から5000人ほどに増えた。
                 施設側が費用や人員を出して施設
                 を切り盛りするのではなく、テナ
                 ントが主体性を持って集客し、売
                 る。つまり、それだけ人を集める
                 力があって、個性のあるテナント
                 がいるというのがこの施設の大き
                 な強みだろう。街の個性を前面に
                 出し、新しい活動を始めている高
                 架下は関西にもある。
                 (次回つ続く)

 

                 鉄道高架下が     
        人気化する必然  連載 10

        地域に人脈ある人

        残りの敷地のうち、建物前の通路
      にはテーブルなどが置かれ、内と
      外があいまいな空間になっている。
      敷地をフルに使っていないのは家
      賃を上げないためであると同時に、
      ほかの用途に使える余地を残すと
      いう意味もある。ここに入居する
      のは、この地域で毎月初めに開か
      れている朝市に出店していたうち
      の5組。革小物作家、ペット雑貨
      のセレクトショップ、地元野菜を
      使った料理を出す飲食店などで、
      店舗兼工房になっている店もある。
      いずれもここにしかない店だ。当
      然、地域にそれぞれの人脈を持つ
      人たちでもあり、店舗運営にはそ
      れが生かされている。
      (次回に続く)

 

 

      鉄道高架下が     
        人気化する必然  連載 9

      入居者を想定して収支計画を作成

      こうして、コミュニティステーシ
      ョン東小金井がオープン。商業施
      設を開発する際は、収支計画を立
      ててから、というのが一般的だが、
      ここではまず、人とのつながりを
      作り、そこから入居する人を想定。
      入居者に魅力的な賃料を収支から
      逆算し、そこから建築可能な施設
      ボリュームを検討したという。コ
      ミュニティステーション東小金井
      は、新宿―立川間の中央線沿線で
      は西国分寺駅に次いで2番目に乗
      降客数の少ない東小金井駅から
      徒歩3分。約100mの細長い敷地
      の約半分ほどに鉄骨造のコンテナ
      が置かれ、そこが店舗となってい
      る。
      (次回に続く)

 

      鉄道高架下が     
        人気化する必然  連載 8

      地域を巻き込む

      「百貨店などのリアル店舗の売り
      上げが減っている一方で、通販
      が同程度増えており、市場規模
      の合計はここ二十数年変わって
      いないはず。モノが売れないと
      いうより、買い方が変わった。
      どこででも買えるモノは便利な
      場所、やり方で買い、どうして
      も欲しいモノはわざわざ買いに
      行く。だとしたら、わざわざ買
      いに行く必要を作ってあげれば
      いい」こうして、2012年12月
      から毎月、地域マガジン『のの
      わ』を発行。これを通じて、地
      域を巻き込もうと考えた。のの
      わは、どこにこんな店があるな
      どといった地域情報を伝えるだ
      けではない。地域をつなぐ活動
      をしている人を冊子で紹介した
      り、トークイベントを開いたり
      することで、そこに来た人たち
      が活動の味方になってくれるこ
      とをもくろんだ。地域の人たち
      に地元のネタを取材してもらう
      地域ライターという仕組みを作
      ったことで、新たな人間関係も
       生まれたという。
      (次回に続く)

 

        鉄道高架下が     
        人気化する必然   連載 7

      東小金井の7万㎡

      この流れをくんでいるのが、2014
      年に11月完成した「コミュニティ
      ステーション東小金井」である。
      中央線では、2010年の三鷹―立川
      間の約13.1kmにあった18カ所の
      踏切を除去するために行われた高
      架化によって、9kmにわたる、7
      万㎡もの土地が生まれた。これだ
      けの土地が駅近くに新たに生み出
      されることは他路線を含めて考え
      ても、そうそうあることではない。
      では、どう使うか。大きな柱とな
      ったのは、地域の人を巻き込むと
      いうやり方だ。同高架下プロジェ
      クトに携わるリライトの籾山真人
      氏がこのとき立てた戦略は、「ホ
      ストとゲストの関係を変える」と
      いうものだ。
      (次回に続く)

 

 

       鉄道高架下が     
         人気化する必然   連載 6

       違う3点

      ひとつは、モノ作りをする零細、
      中小企業が多く入居しており、多
      くの商業施設で見るようなチェー
      ン店がほとんどないという点。一
      般に大規模商業施設は、失敗を恐
      れるためか、ある程度の売り上げ
      が見込める大手を入れたがるが、
      そのつまらない感じがないのだ。
      2つ目は店舗、敷地内を利用して
      ワークショップ、イベントなどが
      開かれており、人が集まるように
      なっている点だ。モノを買うだけ
      のために立ち寄るのと、人と一緒
      に作業をするのでは共有する時間
      の長さは大きく異なり、そこで生
      まれる人間関係にも差が生じる。
      そして3点目は秋葉原、御徒町と
      いう2つの、従来行き来する人が
      少なかったところの中間点となる
      ことが意図されているということ。
      つまり、秋葉原と御徒町という2
      つの街のハブとなることを意識し
      て作られたわけである。
      (次回に続く)

 

       鉄道高架下が     
      人気化する必然   連載 5

                 高架下の使い方が変わったワケ

                中目黒の高架は古く、耐震補強な
                どを繰り返しているため、狭く、
                鉄道施設もあって、使用できない
                場所もある。それを逆手に取り、
                意識して作られた人と親密になれ
                る空間。誕生間もないため、リピ
                ーターの多い施設になるかどうか
                はまだこれからだろうが、人に会
                いに行く飲食店という発想に従来
                と違う楽しさを感じる人は少なく
                ないはずだ。こうした「ハブ型」
                高架下のはしりと言えるのが、2
                010年にJR東日本都市開発が秋
                葉原と御徒町の間の高架下を利
                用した2k540 AKI-OKA ARTI
                SAN(ニーケーゴーヨンマル 
                アキ・オカ アルチザン)だろ
                う。この高架下が従来の高架下
                と大きく違う点は3つある。
                (次回に続く)

 

 

               鉄道高架下が     
      人気化する必然   連載 4

               この街らしさを尊重

               それは、中目黒がもともと路面店
               文化の街である認識からだ。スノ
               ッブなカフェもあれば、庶民的な
               居酒屋もあり、洗練と猥雑(わい
               ざつ)さが入り交じる雑多さが中
               目黒の魅力。それを大事にして施
               設を作ると考えると、優先すべき
               は施設の統一感ではなく、さまざ
               まな路面店が街に溶け込んでいる
               中目黒らしい風景ではないか、と
               考えたという。建物上部に共通す
               る黒い庇(ひさし)など、いくら
               か統一されている部分もあるが、
               それ以外はバラバラ。それをまと
               まりがないと評する人もいるが、
               かつて高架下にあった、闇市由来
               の居酒屋の雰囲気を上手に再現し
               た店舗に人が集まっていることを
               考えると、この街らしさを尊重し
               た作りは成功していると言ってい
               いのではなかろうか。
                (次回に続く)

 

              鉄道高架下が     
       人気化する必然   連載 3

               個性を重視

      店舗選定にあたっては人も重視し
      たという。「中目黒のエリア外か
      ら来る人もターゲットとしつつ、
      メインターゲットを中目黒で働い
      ている人、住んでいる人と考えた
      場合、1度来て終わりではなく、
      繰り返し来ていただきたい。その
      ためには味はもちろん、サービス、
      お客さまとのいい人間関係が作れ
      る店主やスタッフがいて、あの人
      がいるからまた行こうと思っても
      らえることが大事だと考えました
      」(東急電鉄都市創造本部・杉本
      里奈氏)。それだけではない。高
      架下を眺めてみればわかるが、そ
      れぞれの店の作りが一軒ずつ異な
      り、個性的なのだ。一般的に、あ
      る程度の規模がある商業施設は、
      施設としての統一感を大事にする。
      外装は施設側で統一し、内装を個
      店に任せるというようなやり方が
      多いわけだが、中目黒では外装も
      すべて個店に決めてもらった。
      (次回ぬ続く)

 

 

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4.定期借地借家アドバイザー18

2017-06-12 10:15:03 | アート

         

空き地・空き家は
定借でイノベーションえを起こせ 

     

                              プロフィール
             バックナンバー

     今治タオルが     new
            息を吹き返す   連載 2

      1991年をピークに激減

            2013年度には売上高6億円を突破
            し、個人顧客にとどまらず、客室
            用アイテムとして導入する「ザ・
            リッツカールトン京都」をはじめ、
            ホテルや旅館などの法人顧客も多
            数抱えるようになったのである。
            今や地方ブランディングの成功事
            例として脚光を浴びる今治タオル
            だが、ここまでの道は決して順風
            満帆ではなかった。かつては産業
            消滅の危機に直面し、国に対して
            セーフガード(特定品目の輸入急
            増による損害を回避するための関
            税の賦課または輸入数量制限を行
            うもの)の発動要請をするほどま
            でに至ったのである。今治タオル
             の歴史は古く、1894年に実業家
             の阿部平助氏が改造織り機4台を
             用いてタオルの製造を始めたのが
             最初とされる。元々、今治は江戸
             時代から綿織物業が盛んだったこ
             とや、瀬戸内海の交通の要所とし
             てヒト・モノ・カネが行き来する
             ような場所だったことから、すぐ
             にタオルは造船とともに今治の主
             要産業に成長した。
             (次回に続く)

 

 

            今治タオルが     
            息を吹き返す   新連載 1

             愛媛・今治の地で100年以上前から続
                 くタオル産業。長らく日本有数の産地
                 として発展を遂げたが、1990年代に
                 入ると中国産の安い製品に取って代わ
                 られるなど、生産量が激減した。そこ
                 からどのような復活劇を遂げたのだろ
                うか――。今治市内にある「今治タオル
                本店」では2万点以上のタオル商品を
                取り扱う。

 

      

    実際、今治タオルは販売好調を追
    い風に生産量が急拡大。現在の年
    間生産量はおよそ1万4000トンで、
    底を打った2009年と比べて約49
    %も増えているのだ。「このまま
    では現在の製造機器の生産能力を
    超えてしまう」(今治タオル工業
    組合・近藤聖司理事長)といった
    嬉しい悲鳴が出るほどに今治タオ
    ルは売れ続けている。
         伏見学 ITmedia
    (今回新連載です)

 

 

           

           

 
            オープンハウス都心戸建 new
      飛ぶように売れるワケ 最終回11 

    名古屋でも成功する

    大薗: 今のビジネスモデルで成
    長を考えたとき、今後は東京に似
    たような地方の大都市でビジネス
    を強化する可能性はありますか?
    荒井: 名古屋では始めたばかり
    ですが、既に成功は見えています。
    地方の中核都市でも通用すること
    が分かったので、ここをしっかり
    伸ばしていきたいと思います。
    ただし、常に次のビジネスを見つ
    けていかないといけません。今の
    ビジネスモデルは10年後は厳しい
    かもしれません。また、顧客は新
    築を買わないでリフォーム中心に
    なるかもしれません。ニーズはど
    んどん変わっていくのです。将来
    的には、毎月安定した収益がある
    ストックのビジネスもやりたいで
    すね。
    (今回最終回有り難うございます)

 

 

     オープンハウス都心戸建
       飛ぶように売れるワケ  連載10 

     資金ショートしないための
     スピード感

    大薗: そのほか、オープンハウ
    スの特徴は、土地の調達から設計、
    施工管理、土地および建売営業ま
    での流れが非常に速いことです。
    なぜこのことが大切なのでしょう
    か?
    荒井: 不動産は大抵、独立系企
    業が倒産します。その理由は金融
    が詰まってしまうからです。そう
    ならないためには常に手元資金が
    必要で、回転スピードが重要なの
    です。例えば、マンションの場合、
    開発が始まってから資金回収まで
    5年かかることはざらです。大手
    だと完成在庫があるので収益が安
    定しますが、中小の不動産であれ
    ばあり得ません。だから当社は
    完成する前に全部売るようなスピ
    ード感で事業を行っているのです。
    大薗: 顧客にとっては、早く成
    約しないと売れてしまうわけです
    から、決断へのいいプレッシャー
    になるわけですね。
    荒井: あとは営業マンにとって
    も、回転速度を上げないと目標が
    達成できないような基準が設けら
    れています。1つの課で週に1棟売
    るようなビジネススピードです。
    (次回最終回お楽しみに)

 

     オープンハウス都心戸建
     飛ぶように売れるワケ  連載9 

    土地売買で十分な利益

    荒井: 7~8割です。2~3割は
    土地だけを買うお客さまで、「
    あの住宅メーカーで建てたい」
    といった思いがある顧客です。
    その顧客を取るための労力はか
    けず、「どうぞ、よそで建てて
    ください」と言います。実は土
    地で全体の利益の大部分を確保
    しているので、建物だけ他社製
    でも当社には何らデメリットは
    ありません。当社は土地と建物
    の総額で勝負していて、建物に
    関しては原価に近い価格でやっ
    ています。例えば、5000万円
    の物件があるとして、土地が3
    500万円、建物が1500万円。
    土地だけを見ると割高だけど、
    総額では安くなるのです。
    大薗: 土地だけだと割高とい
    うのは、土地の販売の勝負とし
    ては不利なように思われますが、
    御社の仕入れる土地がユニーク
    だから不利にはならないという
    ことでしょうか?
    荒井: あとは大きさも違いま
    す。当社みたいに15坪、20坪
    といった土地はよそではあまり
    扱っていません。さらに安い価
    格であればなおさらです。
    (次回つ続く)

 

 

     オープンハウス都心戸建
     飛ぶように売れるワケ  連載8 

    場所と価格が大切

    荒井: 起業したときから営業で
    一番大事なものは、営業力(コミ
    ュニケーション)ではなく、問い
    合わせ件数だと考えています。問
    い合わせの多い担当者が営業力が
    あるのです。すごい腕のいい営業
    マンがまったく買う気のない人に
    売るのと、すぐに買いたい人に能
    力がない営業マンが売るのではど
    っちがいいと思いますか? 問い
    合わせさえ多ければ、たとえコミ
    ュニケーション能力が低くても売
    れるのです。
    大薗: 顧客はそれでいいのでし
    ょうか?
    荒井: 買うモノがあるというこ
    とが大きいです。家は感情で買い
    ます。ロジックでは買いません。
    偉そうなロジック型の営業担当か
    ら家は欲しくないでしょう。上か
    ら最もらしいこと言われるよりも、
    下から気持ち良くさせてもらいた
    いのが人間の本能です。不動産に
    関して、究極的に顧客にとって営
    業マンは関係なく、場所と価格な
    のです。そこに良い商品を提供す
    ればいい。あとは営業マンが信頼
    できそうかだけ。
    大薗: オープンハウスは土地だ
    けでも販売されますが、顧客の何
    割くらいが建物までを購入するの
    ですか?
    (次回に続く)

 

      オープンハウス都心戸建
      飛ぶように売れるワケ 連載7

       三角地も売れる

             大薗: 他社は土地の仕入れを重
             視していないのでしょうか?
             荒井: 入札なのでそう安くは買 
             えず、そこでほかと差はつかない
             と考えているからでしょうね。ま
             た大手はより魅力的な完成品にし
             て販売するといった出口戦略に力
             を入れているので、調達価格が高
             くても気にしません。ただ、それ
             では顧客が本当に望むものを作れ
              ないだろうと思います。また、三
              角形の土地は売れないと言います
              が、生まれたときから三角形の場
              所に住んでいる人にとってはまっ
              たく問題ないのです。線路沿いや
              墓地の隣の土地だってそう。それ
              よりも都心に近いという理由で買
              うわけです。どんどん顧客ニーズ
              は合理化されています。常識にと
              らわれず、昔からある先入観は捨
              てるべきです。当社は商品を企画
              するとき、まず若者にヒアリング
              します。どこが今人気の場所なの
              か、若い人が一番よく知っていま
              す。
              大薗: 販売戦略はどのようにさ
              れているのですか?
               (次回ぬ続く)

            

 

 

              オープンハウス都心戸建
      飛ぶように売れるワケ 連載6

            先入観は捨てるべき

              大薗: オープンハウスは土地の
              仕入れもユニークで、三角形の土
              地や線路沿いの土地など、値段が
              付きにくい土地も積極的に確保し
              ています。さらに仕入れ営業につ
              いては地域担当制ではないため、
              同じ不動産仲介業者に複数のオー
              プンハウスの営業担当者が営業し
              ていることも少なくないといいま
              す。この仕組みは当初から原型が
              あったのか、企業の成長とともに
              仕組みを変えてきたのですか?
              荒井: 仕組みそのものは変わっ
              ていません。用地を仕入れる際、
              同業他社は仲介業者の情報を貰っ
              て入札で買うのが一般的です。し
              かも多くはベテランの営業マンが
              担当しています。当社では学校を
              出たばかりの若手社員が担当して
              いて、とにかく運動量豊富。顧客
              との接触時間が多い方が、売り上
              げ数字が伸びることは分かってい
              たので、そのようにしています。
              合理的な選択です。扱う土地がほ
              かの会社では事業化が難しい場合
              でも、コミュニケーションが毎日
              しっかり取れているので、「オー
              プンハウスなら何とかしてくれる
              」という信頼関係が不動産仲介事
              業者との間にできているのです。
              (次回つ続く)

 

 

               オープンハウス都心戸建
      飛ぶように売れるワケ 連載5

              リーマン直後から飛ぶように

               大薗: 都心の一戸建てという着
               眼点は最初から変わっていないの
               ですか?
               荒井: はい、顧客が望む場所に
               戸建てを作ったら、一番売れるだ
               ろうという確信はありました。か
               つては郊外の庭付きの一軒家が好
               まれた時代がありましたが、社会
               はどんどん変わってきていて、今
               は通勤に時間をかけるのは愚かだ
               と言われるようになりました。ま
               た、リーマンショック以降は、夫
               婦共働きのダブルインカムが当た
               り前になっていて、世帯年収は上
               がっています。すると職場にも近
               くて、生活しやすい都心に住みた
               いというニーズは高まっているの
               です。実際、当社はリーマン後か
               ら急成長しています。リーマン直
               後の2008年10月に、目黒で不動
               産を販売したところ飛ぶように売
               れました。史上最大の金融危機と
               騒がれている最中にもかかわらず
               です。それで確信して積極展開を
               図りました。リーマン前だったら
               家賃が月に20万円の家に住んでい
               る人が買う場合、住宅ローンも月
               20万円が相場でしたが、リーマン
               後はそれが6~7割、つまり12~1
               4万円の支払いだったら買うだろ
               うと考え、そうした物件をどんど
               ん作って販売しました。競合他社
               は当時、そうした考えはなかった
               のです。
               (次回に続く)

 

             オープンハウス都心戸建
      飛ぶように売れるワケ 連載4

      社会から必要と思われる

             荒井: 創業時はなかったです。
             普通よりも良ければいいと思っ
             ていましたし、働くのは収入を
             得るためで、それを手にしたら
             働く必要はないという考えでし
             た。それが35歳くらいから変わ
             りました。理由は社長の責任と
             して、従業員を幸せにしないと
             いけないと思うようになったか
             らです。例えば、22~23歳の
             若者が入社してきても、会社が
             大きくならなければ、彼らはず
             っと同じポジションのままなわ
             けです。その後、会社を大きく
             することは、自分たちの力だけ
             で大きくなるのではなく、社会
             から必要とされるから大きくな
             るのだという考えを持ちました。
             だから社会に足りないところを
             満たすような会社になるべきで、
             そうした商品を提供していく必
             要があると思いました。基本的
             な考え方はそこからぶれていま
             せん。
             大薗: 都心の一戸建てという
             着眼点は最初から変わっていな
             いのですか?
             (次回に続く)

 

            オープンハウス都心戸建
    飛ぶように売れるワケ 連載3

      チャンスは平等

    大薗: 規制が変わって、木造三
    階建てのビジネスができるように
    なった。この事業機会は誰にも等
    しく与えられたもので、実際にそ
    れを生かした地場の不動産会社も
    あったわけですね。なぜ彼らはオ
    ープンハウスのように大きく成長
    しようと思わなかったのですか?
    荒井: これは人間の心理で、普
    通はそこそこ成功したら満足して
    しまうのです。成功するまでは努
    力するけれども、ある程度まで達
    成すると、もっと欲張ってやろう
    という人は少ないのではないでし
    ょうか。例えば、東京大学に入る
    までは必死で勉強するけれど、入
    学後も継続して寝る間を惜しむよ
    うな勉強をする人が少ないように。
    もう1つ、当社と他社が異なるの
    は人材戦略です。私が起業したと
    きは大学卒の22歳人口が200万人
    いましたが、今は120万人にまで
    減っています。当時、街の不動産
    会社は採用はいつでも簡単にでき
    ると思っていたので、先を見据え
    た人材採用をするような備えはあ
    りませんでした。一方で、当社は
    今でも年間200人以上の採用を行
    っています。
    大薗: 会社を大きくしたいとい
    う思いは最初からあったのですか?
    (次回に続く)

    

 

    オープンハウス都心戸建
    飛ぶように売れるワケ 連載2

    都心に住みたいというニーズ

    大薗: オープンハウスは、「東
    京に、家を持とう。」をキーワー
    ドに、従来は通勤の便利なところ
    での家は無理だと思っていた人が
    戸建てを持てるという価値提供を
    掲げて事業展開しています。私自
    身もそうだし、業界全体も、皆が
    無理だと思っていたことを成し遂
    げた結果、急成長を遂げています。
    どういうきっかけでこの事業に取
    り組み始めたのですか?
    荒井: 最初は仲介業からスター
    トしました。私は起業する前に10
    年間、不動産仲介の会社でサラリ
    ーマンをしていて、顧客のニーズ
    を把握していました。彼らは都心
    に近い場所ほど喜ぶものの、自分
    たちが買えるような商品がないと
    思っていました。そうした中、1
    987年に建築基準法が改正されて、
    準防火地域においても木造三階建
    てが解禁になりました。その結果、
    土地がそれほど広くない都心部で
    も3LDKの家が作れるようになっ
    たのです。それ以前ならばもう少
    し広い土地が必要でしたが、土地
    の値段が高くなるので顧客が望む
    ような商品は提供できませんでし
    た。実は木造3階建ての販売は当
    社だけでなく、地場の不動産会社
    は昔からやっていたことです。た
    だし大手デベロッパーが手掛けて
    いなかったので、あまり世の中に
    知られていなかったのだと思いま
    す。いくつかの小さな会社がやっ
    ていた中で、当社だけが大きくな
    っていったのです。
    (次回に続く)

 

    オープンハウス都心戸建
    飛ぶように売れるワケ新連載

    「都心の一軒家」と聞いて、多く
            の人は「高そう」「買えない」「
            金持ちが住む家」などと思うかも
            しれない。ところが今、好立地で
            手の届く価格帯の戸建て住宅を年
            収500万~1000万円の平均的な
            会社員が相次いで購入しているの
            だという。そうした物件を提供す
            るのが、1997年設立のオープン
            ハウスだ。同社は2001年に新築
            戸建て物件の販売をスタートし、
            売り上げをぐいぐいと伸ばしてい
            く。2013年9月には東証一部への
            上場を果たした。2016年9月期の
            業績は売上高2472億1000万円(
            対前年比37.9%増)、営業利益3
            13億2000万円(同47.0%増)と
            急成長を遂げている。オープンハ
            ウスはなぜ都心の戸建て住宅を一
            般的な相場よりも安く販売できる
            のだろうか。他社にはない同社の
            強みとは何だろうか。一橋大学大
            学院 国際企業戦略研究科(一橋I
            CS)の大薗恵美教授が、オープ
            ンハウスの荒井正昭社長にインタ
            ビューした(以下、敬称略)。
                                伏見学ITmedea
            (今回新連載です)

 

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3.宅建取引主任士 24

2017-06-12 10:04:59 | 宅建取引主任士

   不動産独立開業は
     定年後の今が チャンス 

        

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「店舗物語」連載開始
  てんぽたんの
「不動産開業顛末記」
   
      

   7.2011.3.11.14:46.18以後

   14.共同炊事場の思い出    new

   高円寺の4畳と共同トイレ・炊事
   場のアパートの生活体験で、学校
   の専門課程の課題作品で大きなパ
   ネル(B1)に香りのイメージを
   出すために全体を明るいオレンジ
   色で塗って、墨流しを全体に着け
   るアイデアが浮かび、共同炊事場
   を測ったら丁度、パネルが収まる
   サイズだったので許可を得て、水
   を溜その上に墨をながし、パネル
   を重ねた。素早くパネルを持ち上
   げてみると、オレンジ色に墨流し
   が生えて思った以上の出来栄えで
   感動した。その上に予定のキャッ
   チコピーを描き学校に持参した。
   クラスの仲間も教官も褒めてくれ
   た。中には、そんな大きな共同炊
   事場があったからできたんだよと、
   皮肉をいう人もいたが、とにかく
   うれしかった。
   (次回に続く)

   13.4千円のアパート     

   高円寺の賃貸アパートは、中庭があ
   りそれを4畳一間が囲って2階に12室
   一階が6室とトイレ・共同炊事場で元
   旅館だったみたいでおもむきがあった
   。家賃が4000円だが結構高く感じて
   いた。なんせ、夕方5時前には学校に
   に行くので残業もできず、ぎりぎり
   の生活だった。隣の部屋の様子もお
   互いに隠せず、家族のような付き合
   いになった。休日に窓から中庭を見
   ながらぼーっとするのが結構安らぎ
   になった。複数の部屋を借りて住ん
   でいる家族の息子さんが、帰宅する
   といつも蒸しサツマイモやおやつを
   持ってきてくれて、ありがたかった
   。新宿のバイトの話とか大学の話を
   喜んで聞いてくれていた。中野より
   住宅街で駅から10分程、高円寺駅は
   結構商店街が複数あり、物価も安く
   学生も沢山住んでいた。東京での初
   めての生活は結構、人情味にあふれ
   た青春だった。賃貸契約した時、当
   時、保証人を付けた記憶がない。そ
   れだけのんびりしていたのかもしれ
   ない時代だったのだ。
   (次回に続く)
   

   12.色々なバイトする   

   さすがに東京は、バイト探しには困
   らなかった。弁当配達をした時、新
   宿の京王プラザの建築現場に配達し
   たことを鮮明に思えている。でかい
   建物を仰ぎ見て感動したものである。
   夜、学校に行きながらいろいろなバ
   イトをしているうちに新宿のプリン
   ト会社に勤めた時、とにかく営業を
   して仕事を取ってこいと言われ、近
   くの大きい会社に飛び込み営業して
   回った。通学に40分程かかるので夕
   方の5時には電車に乗らないと間に
   合わないのでそれに合わせて、毎日
   飛び込み営業を繰り返した。1カ月
   ぐらいすると20社ほど回るルートが
   出来上がり、それを一日1回、挨拶
   がてら訪問を繰り返した。仕事は、
   中々もらえなかったが、いつの間に
   か、担当者と親しくなり、道で行き
   会ったときも、挨拶するようになっ
   た。これが、結構うれしかった。慣
   れない東京で心が和んだ。それと、
   毎日、歩きなので運動にもなり、お
   腹が減って少ない予算の食事も何で
   も美味しかった。そんなある日、い
   つも通り出社すると、電話が名指し
   でかかってきた。飛び込み営業を始
   めて3か月後の事だった。
        (次回に続く)

 

   11.上京する       

   地元の寮ある会社を見つけ希望ある
   学生生活が始まった。授業の必須科
   目の算数で担当の教官から呼び出し
   受け、面会に行くと過去のことを聞
   かれた。あまりに数学のレベルが低
   いので、その確認だった。経過を話
   すと納得してくれ試験の度に追試を
   受けた時、協力してくれた。本来は
   入学出来なかったのだと、悟った。
   神のいたずらなのか、奇跡的に入学
   出来た。でも、専門課程の工業意匠
   の作品では、みんなの前で作品を褒
   められて、少し自信がついた。その
   作品は今でも覚えている、傑作だと
   思っている。そんな経験からエリー
   ト街道の道はあきらめ自分で起業す
   る方向で進むことを決めたものだ。
   そう決めると考え方がすごく広がり、
   何でもチャレンジしてみようと、シ
   バリが取れ楽になった。バイトもい
   ろいろ変えて、とうとう東京の高円
   寺に住まいを移した。初めての東京
   生活は、新鮮で夢があった。当時、
   働きながら学校に行くのは楽でなか
   った。クラスの仲間はほとんどが働
   いてない、仕方なく夜間に来ている
   人が多かった。当時は、仕事がどこ
   にでもあり、経済的にはどうにかつ
   ながった。人生のスタート地点に立
   った気分だった。
   (次回に続く)

 

   10.母、死亡する      
   
   受験勉強も終わりずーっと仕事と勉
   強で無理した体をリラックスさせな
   ら母とのんびりと過ごしている処へ
   群馬大から合格の通知が届き、とり
   あえず、ほっとした。千葉大の結果
   は、変則入試に付、全く予想できな
   いので群馬大に入学する手続きと、
   昼の仕事を探した。繊維関係で寮付
   きの会社が4月からの入社で2カ所あ
   った。早速連絡を取り面接等の段取
   ろをした。面接の前日、遅刻しない
   ように電車の時刻を調べたりしてい   
   とき、郵便が届いた、千葉大からだ
   った。緊張しながら開封してみると
   、合格だった。このときは本当に嬉
   しかった、母に千葉大に行くよと早
   速、声をかけた。嬉しいそうな母の
   顔が今でも蘇り、ジーンとくる。定
   時制高校の担任の先生に電話して合
   格の報告し、その足で学校に向かっ
   た。すると、職員室の大きな黒板に
   合格おめでとうの文字があった。先
   生も一緒になって喜んでくれた。希
   望に燃えて進めることは、うれしか
   ったが、また、母を一人にして高校
   入学した時と同じことを今度は、何
   か本当の別れのような気がした。案
   の定、2年後に母が、胃がんで死ん
   だ。受験勉強の10か月間の母との
   生活が、母に夢を与えることができ
   たのが、せめての救いである。こう
   して新しい生活が始まった。
   (次回に続く)

   

   9.入学試験受ける     

   入学試験は群馬大夜間部が先にあり
   ふんわりした感触だがどうにか合格
   点に届いたような気持ちで帰宅し、
   その後の千葉大夜間部の試験当日、
   試験会場に向かうと安保闘争の学生
   等で混乱していた。特に夜間部は、
   自衛官の通学反対等の看板が大きな
   独特の書体でかかれ、記憶に残って
   いる。会場の前に着くと張り紙がし
   てあり試験会場の変更が提示されて
   あった。急いで別の会場に行くと優
   秀に見える受験者が集まっていた。
   指定席に着き、時間になると担当の
   人が事情を説明して試験用紙が配ら
   れた。どうも様子がおかしい、試験
   用紙がガリ版刷りなのだ。学生の妨
   害でこうなったらしい。とにかく問
   題集を追っていくと、基本的な問題、
   誰でも出来そうな問題がほとんどで
   おそらく全員が満点に近い点数だろ
   うと思った。終了後、内申書重視の
   噂が流れた。その時、ドキンと心臓
   が鳴った。千葉大は無理だと思って
   いたところ、内申書重視の方向と聞
   いて少し希望が出てきたのだ。定時
   制の内申書なので抜群によかったの
   だ。この年東大は安保闘争で入学試
   験が中止だった。1969年の事であ
   る。
   (次回に続く)

 

         8.受験勉強に集中     

   午前中は定時制の午前の部に出席し
   午後は夕方まで図書館で受験勉強、
   夜は母のいる家で受験勉強の日課が
   始まった。年内にBの教科書3回、
   過去の問題集も3回終了させ、年末
   に予想問題3回挑戦して新年に弱点
   を補い目標を達成する。本当に集中
   して、毎日毎日を過ごし、信じられ
   ない位勉強した。時々、何のために
   勉強しているんだろう、逢いたい人
   もいる、そんな疑問や気持ちも抑え
   て悶々とし寝つきの悪い日もあった
   。そんな時、母がさ湯をもってきて
   慰めてくれる。そのさ湯が心を沈め
   くれるのだ、ただの冷めたお湯なの
   にとても安らぐのだ、母は愚痴をこ
   ぼしたことがない、父が死んで依頼
   子供4人を義務教育卒業まで楽でな
   かったはずだ。その母が入れてくれ
   たさ湯を飲むと心が救われるのだ。
   そんなこんなでとうとう新年を迎え
   受験の日が近づいた。担任の先生に
   挨拶に行った時、がっかりしないで
   と、励まされた。不合格が当たり前
   のように聞こえた。不安はあったが
   一生懸命自分なりに計画を立て実行
   出来たので満足はしている。結果は
   誰にもわからない。
   (次回に続く)

 

         7.母に頼る        

   定時制高校の4年生になる時、大学
   は当然夜間だが行くことに決めてい
   た。先生に相談したり調べてみると
   学費の安い国立大学で千葉大と群馬
   大に夜間部があった。千葉大は工業
   意匠科、群馬大は繊維意匠科があり
   願書を取り寄せた。過去の問題集も
   取り寄せ試験勉強の予定を立てた。
   その過程で驚いたことを発見した。
   高校の教科書にAとBがあって普通
   はBを使っているのだ。勉強の範囲
   全然違うのだ。まったく知らない数
   学の問題もあった。定時制ではAを
   使っている。愕然とした。先生に相
   談してBの教科書をより寄せ予定を
   立て直した。Bの教科書と過去の
   問題集に集中して実行に移した。仕
   事しながらの勉強は、進まない、眠
   い、学友の誘惑等で中々予定を消化
   出来なかった。ここで初めて母に頼
   ることを決め、3年間でためたお金
   を全額解約して母に渡して10か月間
   生活費として渡した。厳しい経済状
   体だっと思うが母は一つ返事で受け
   てくれた。一人住まいで寂しい生活
   をしている母のもとに兄弟誰も寄り
   付かなかった。母は嬉しそうに近所
   に触れ回った。恥ずかしかったが自
   慢そうに話している姿を見ると何も
   言えなかった。
   (次回に続く)

 

         6. 楽しかった定時制時代 

         羽生へ出発の当日、同級生6人が
   久喜駅まで送ってくれた。住む世
   界が違うのでもう会えないかもし
   れないと、思うと、切なかった。
   工場の入社式で歓迎会が行われ、
   初めて口にした日本酒で酔いが
   回り周りにいきなり迷惑をかけた
   。三食つきで午前中は学校に行き
   仕事は遅番なので、14時から17
   時食事休憩語18時か22時までと
   記憶している。入学式の時、うれ
   しいことがあった。式が終わると
   担任の先生に声を掛けられて、中
   学の先生の中に同級生がいて、優
   秀(?)な生徒なのでよろしくと、
   連絡があったと、聞いた。その時
   懐かしさと思いやりで目頭が潤ん
   だ。定時制生活4年のうち3年が、
   学校・仕事・恋愛・会社の慰安旅
   行であっという間に過ぎた。そし
   て4年になると卒業後をどうするか
   が問われる時期になった。
   (次回に続く)
   

         5.3部制定時制高校   

   いろいろあったが、結果的には定
   時制高校への進学が決まった。寂
   しかったが案外素直に受け入れら
   れた。どうしてと、周りから聞か
   れるが一番嫌だった。不動ヶ岡高
   校の羽生分校に寮付きの撚糸工場
   に勤勤務しながらの高校生活だ。
   今朝ドラで放映している「ひよっ
   こ」の世界だ。団塊世代と言われ
   戦後の第一次ベビーブームの生ま
   れで、山形・福島・茨木各県から
   入社している。 近くの、ブレー
   キ工場、染め物工場等などから沢
   山の男女が定時制に通ってくる。
   この定時制は単独で独立していて
   午前部・午後部・夜間部と珍しい
   3部制をとっている。午前部は二
   部制の生産工場、撚糸・ブレーキ
   工場から、午後部は早朝出勤の組
   が夜間部では朝がきついので午後
   部に夜間部は近くの一部制の会社
   や商店から通っている。午前・午
   後部は一学年で50人中男性が4人
   程度になる。女性天国なのだ。こ
   の話をすると、羨ましいと、よく
   言われたが、結構たいへんな面も
   あるものだ。一年目は午前部、二
   年目は午後部、三年目は待望の夜
   間部へそして四年目は午前部へと
   一巡した。
   (次回に続く)

         4.人生を辿る      

   空がスク―リーンになって、そこ
   に思い出の映像が次々映写される
   。小3の時に死んだ親父との思い
   出は、祭りの時、肩車してもらい
   5円の団子を買ってもらったこと
   しかない、それとクラスの担任の
   先生が全員を連れて参拝してくれ
   たこと、今思うと担任の先生の思
         いやりが胸を打つ。先生はその後
         いろいろな能力を指摘してくれ、
   親代わりになってくれたのかもし
   れない。その先生の訃報を昨年の
   暮れの同窓会で知った。小6の時
   遠足費用が用意できない母に泣き
   ついて困らせたことがった。経済
   的には貧しかったが中学へと健康
   な体で進めた。学業は平均位で、
   ただ、中1の三学期ころから数学
   が面白くなりクラスで一番になっ
   たのがうれしかった。それにつれ
   て他の教科も成績が上がり、卒業
   する頃は学年全体でベスト⒑に入
   っていた。
   (次回に続く)

 

         3.一茶と歩く       

   南千住駅で降りると大勢の人が北
   に向かって、つまり北千住の方向
   にほとんどの人が歩いている。そ
   の流れに載ってついていった。空
   は晴れているがどことなくどんよ
   りしている。今のところ暑くはな
   かった。周りの景色を見ながら黙
   々と歩いている。結局、隅田川と
   荒川の大橋を渡るしかないのだ。
   そのころになると歩く速度に差が
   あり少しずつマラソンみたいに小
   集団ができその間隔も大きくなっ
   ていった。電車が動いた情報はと
   れない。歩くしかないのだ。頑張
   ってと、水を補給してくれる場所
   も設置されであり本当にうれしか
   った、これもマラソンと一緒だっ
   た。だんだん人が少なくなり小林
   一茶が江戸時代東北に向かって俳
   句の旅をしていたのをふと、思い
   出した。そこで一句読んでみた。
  「震災が 人の営み よく見てる」
   空を仰ぎながら歩いているうちに、
   いつの間にかスーと意識が人生を
   たどっていた。
   (次回に続く)

 

         2.会社で雑魚寝     

   その日、散らかった書類等をどう
   にか整理し家族全員の無事が確認
   出来ると、急にお腹かがすいてき
   て近くのコンビニ行くと人でいっ
   ぱだった。ほとんどの食品がない
   ので、煎餅とかどうにか確保し、
   事務所に戻り食べながら、交通機
   関の状況を確認するとどうも帰宅
   は難しいので会社で雑魚寝した。
   椅子を3つ並べて座布団を枕に上
   着を掛け冷えないように暖房を弱
   めに設定し目を閉じると、疲れた
   のか間もなく寝てしまった。案外
   図々しいのである。翌朝、目が覚
   めたのが6時過ぎだった。やはり
   体のあちこちが痛い、寝返りでき
   ない分どこかにしわ寄せが生じ痛
   くなったのかもしれない。昨夜の
   残りの缶珈琲を飲みながら交通機
   関を調べてみると南千住迄地下鉄
   でいけそうなので早速準備にかか
   り事務所を出た。大勢の人が方向
   は違うけど黙々と歩いていた。
   (次回に続く)

 

   1.東日本大震災発生     

   昨日の電気街の一棟賃貸の契約の
   余韻が覚めない午後、JR御茶ノ
   水聖橋口から線路沿いに秋葉原の
   昌平橋に向かう坂道、通称淡路坂
   を下りかけた時である。キャーと
   いう悲鳴とともに地面が揺れ始め
   周りのビルが音を立てて揺れてい
   る、一瞬何が起きたか理解できな
   かった。間もなく音が聞こえなく
   なり、丘の上からビル群の揺れが
   、ゆらりゆらりと見えて幻想の世
   界に入った。はっと、気が付くと
   昌平橋に近くにいた。事務所近く
   着くと人が大勢あわただしく会話
   していた。事務所に戻ると電子レ
   ンジが落ちて、幅広の厚みのある
   書棚がずれていた。何よりも事務
   員が無事だったのでほっとした。
   すぐに家族と連絡を取ってもらい
   帰宅の段取りを取ってもらった。
   どうにか連絡が取れたらしく直に
   帰ってもらった。事務所内は地震
   の大きさが想像できる、散らかり
   状態だった。
   (次回に続く)   

 

 

 6. 通信革命起こる

   46.第二・第三のHPは  
   
   最近の契約物件の内容を確認して
   みるとほとんどが専任物権で業者
   紹介の物件とか指定流通機構(レ
   インズ)の物件は皆無に近い。そ
   れは各社がHP(消費者媒体)を
   持ち、集客方法に差がなくなり何
   処が物件の依頼を受けるかが生命
   線になっていて非常に明確になっ
   てきた。だから専任物件だけの営
   業になるとそんなにバタバタと営
   業しなくとも時間たてば契約にな
   るので今までのように忙しいとい
   う雰囲気はない。それでいて売上
   だけは予定以上になる。よく言え
   ば、一軒一軒の内容が濃くなてい
   るのだ。今のところ毎月物件を計
   算したように依頼を受ける。結構
   安定した年月が続いている。この
   まま変化がないことを祈るばかり
   だが、内心は不安がいっぱいであ
   る。なぜか、第二・第三のHPの
   成果がほとんど出てないのだ。半
   年がたっても変化がないのである
   。同業からどうですかと、よく電
   話がはいるし、飛び込みで様子を
   見に来る社長さんも多い。あれは
   遊び感覚でやってますのでと、は
   ぐらかすが、真剣にまじめにやっ
   て、期待しているのだが、そんな
   に簡単にはいかない。
   (次回に続く)
   

        45.信頼         

   数日後、家主さんが内装業者と一
   諸に来社した。少し足が悪いらし
   く階段がきつかったと笑いながら
   入ってきた。先日よりも若く素敵
   に見えた。隣の内装業者はづっと
   不機嫌な顔をしていた。当たり前
   である、今までテナントが変わる
   たびの原状回復工事がなくなる話
   なので面白いわけがない。家主も
   いろいろ調べてきたらしく、造作
   売買は禁止と確約できれば、お世
   話になったテナントに負担をかけ
   させないのはいいことだと思いま
   すと、柔軟になってきた。内装業
   者の顔をのぞきながらさらに、但
   し次のテナントがいない場合は3
   か月前の解約通告と原状回復は、
   従来通りですよと、念を押してき
   た。内装業者にも、これからはそ
   うしますのお願いしますと、言葉
   で確認した。内装業者は仕事が減
   る交渉なのに黙って耐えていた。
   その後、 この内装業者の評判が
   良かったのと、協力してくれた縁
   から、複数の内装業務を紹介し、
   上手に請け負ってもらいお互いに
   良い関係が続いた。それと地下の
   メイドカフェの仲介も家主から依
   頼を受け一般媒介だが早いもの勝
   ちの仲介業務に狂奔して地元の有
   利さもあって、色々あったが、契
   約に至り、その後もテナント募集
   では相談が入り専任状態になった。
   (次回に続く)
   
   

   44.メイドカフェの原状回復  

   近くの地下一階で老舗に近いメイ
   ドカフェ経営している社長からの
   依頼で訪問した。閉店したいが、
   契約が現状回復(事務所)になる
   のでどうにかならないか、費用が
   掛かりすぎるので困っているのだ。
   先日も家主紹介の内装業者が内見
   にきて見積もりを持ってきたが、
   あまりにも高いので、途方に暮れ
   ているのだ。ここの家主とは面識
   はなかったが、仲介は神田の同業
   が受けていた。家主に連絡入れて
   みると、物件の近くの不動産業者
   ということに興味をもったらしく、
   意外と早く面会できた。中年の真
   面目そうな女性が代表だった。今
   までは必ず業種に関係なく事務所
   に原状回復して時間と費用を借主
   に負担をかけてきた。そこの処を
   省略して原状回復を継承しつつ次
   のテナントに居抜きのまま引き渡
   しを承諾すれば、お互いに時間と
   費用が省略でき感謝され、ビルも
   余分な負担が掛からずメリットが
   あると思いますと、説明したが、
   ピンと来なかったみたいで、再度
   近いうちに合うことになった。
   (次回に続く)

 

   43.ネット時代の課題  

   インターネット不動産の研修会が
   東京の丸の内で開催され参加した。
   テーマ別に5会場に分散し各会場
   とも100社前後の参加があり盛況
   の内に始まった。さすが全国から
   集まり熱気があった。インターネ
   ット不動産の成功例のテーマ室に
   参加した。午前中は主催者の現状
   報告があり、午後から成功例の会
   社の報告があった。結論から言う
   うと成功例の報告は地域では、東
   京が荒川区、後の3社は千地方の知
   られていな地名だった。インター
   ネットは遅れている地域程、効果
   が抜群で一時独占状態になる、結
   局その確認であった。初めてHP
   で集客したころが懐かしく思い出
   した。都心の業者から反響がない
   と、いう声が休憩中の雑談のなか
   ら漏れて聞こえてくる。都心部で
   はもう集客の方法は差がなくなり
   後は商品(物件)とデータの活用
   方法のが問題なのだ、がその点に
   ついての報告は皆無だった。不満
   の残る研修会った。結局、商売の
   本質は、いつの地代も変わらない
   、人よりも少しでも先に出て、い
   い商品を提供する、これしかない
   のであるが、ネット時代の商売は
   データの活用が次の課題なのであ
   る。
   (次回に続く)


   

   42.断トツの同業者現る 

   朝一番で同業の営業マンの訪問を
   受けた。物件の収集である。営業
   マンによると、月の契約数が30件
   前後、東京都全域を営業地域とし、
   各区に担当を置いて物件を収集し、
   毎月同程度の契約数を達成してい
   るという。社員も30名以上になり
   それでも不安定な経営だという。
   そこで、サブリースを始め100件
   程になると、かなり安定しだし、
   これからはサブリースをメインに
   営業を進めるという、だから物件
   が欲しいと、正直なのだ。ライバ
   ルと思っていた同業が遥か彼方に
   見えるところにいる、かなりショ
   ッキングな訪問だった。大雑把に
   いって、活動地域・人数・契約数
   等で約10倍の規模で、サブリース
   で安定的に伸びているのだ。サブ
   リース専門の同業と違って、仲介
   から始まってサブリースで安定さ
   せる。客付けに強いだけあって、
   理想的な展開に思えた。会社案内
   を見たが、資本金も十倍以上であ
   る。やはり、家主の信用を得るた
   めには必須条件なのだ。営業マン
   帰ってから、少しぼんやり比較し
   てみた。内容では負けていない自
   信はあるが、将来の意味で水を大
   きく開けられた衝撃があった。
   (次回に続く)

 

         41.更に第三のHPを  

   第二のHPの入力作業中にふと、
   秋葉原の中古マンション専門のH
   Pも作ったらと、脳裏をよぎった
   。ついでに調べてみると秋葉原だ
   け中古マンション情報ははなかっ
   た。これもいけると、思い、前、
   飛び込み営業で来た簡易HPの格
   安の製作費でできる資料を思い出
   し電話して、早速、来社してもら
   い、もう一人の事務員に一緒に参
   加してもらい打ち合わせして、取
   り組む事に決定した。今まで考え
   てみなかった事を矢継ぎ早に2つ
   同時に進めることに自分でも驚い
   た。今までは、HPのあるなしの
   戦いだったが、いよいよネット上
   での淘汰の時代を迎えたことが感
   覚で分かった。その思いがそうさ
   せたのだと自分なりに解釈したが
   、当たっていると思う。店舗専門
   のHPは、今のところ従来の業績
   下回ることなく予定通りの売り上
   げを確保できている。今、チャレ
   ンジしておかないと余裕がなくな
   ってからで間に合わないし、おそ
   らくできなくなるだろうと、思っ
   た。
   (次回に続く)

 

         40.第二のHPに挑戦  

   サブリースをやらない方針を決め
   てから新しいことを模索している
   中でHPをもう一つ作るという発
   想が強くなってきた。賃貸全般を
   扱い店舗も含めて事務所・住居も
   扱う、それで、静かに改めて秋葉
   原で賃貸で一番を目指す。調べて
   見ると秋葉原専門の賃貸全般HP
   は存在しない、あるのは他の地域
   と絡めて秋葉の物件を掲載してい
   るHPがほとんどで、というより
   すべてだった。これはいけると、
   思い事務員に相談の結果、早速ス
   タートさせた。コピー機メーカー
   推薦の全国を対象のHP専門の会
   に依頼、事務員も含め打ち合わせ
   数回もって、HPの内容を決め、
   製作を依頼した。1カ月ほどで完
   成、待望のHPが届いた。期待を
   膨らませての入力作業がスタ-ト、
   初心に帰った気分になった。
   (次回に続く)

 

         39.売上は順調だが・・ 

   インターネットのお陰で2000年
   代に入ってから必要経費が一定に
   なり、女子事務員2名体制が確立
   して売り上げも順調に上がり、時
   には必要経費の5倍の月も出てき
   た。利益率が抜群なのだ。物権確
   保は困難であったがやはり少し先
   行した強みがあり、なんだかんだ
   物件情報を確保できた。しかし、
   サブリースは方針に逆らうので取
   り組まないと、決定してから物件
   確保の方法とか、多角化の問題と
   か将来の映像が描けないでいる。
   順調なだけに時の過ぎるのも早く
   どんどん進む。常に誰かに追われ
   いるような気分なのだ。今までは
   先のことが見えてその通りに実行
   してうまく回転してきた。が、サ
   ブリースを拒否してから何も見え
   なくなり、不安が募る一方なのだ
   。判断が間違っていたのかもしれ
   ないと、思うようになってきた。
   サブリース会社の情報が入るたび
   に胸が高鳴った。
   (次回に続く)

 

         38.サブリースが本命か 

   不安低な経営を安定させるために
   、それぞれがしのぎを削ってまで
   物件確保の課題に取り組んでいる
   。最近の傾向として店舗専門業の
   欠点を補う物件確保の手段として
   サブリースが主流になり、かなり
   店舗数が確保されている。ある会
   社では700室確保し、今後も増や
   方針だという。経営も安定してき
   ていると言っている。おそらく人
   材も育ち組織もしっかりしてきて
   いると想像できる。サブリースを
   扱っていない同業は、当社を含め
   て、当面は実績でカバーできても
   これから先は物権確保で追われる
   毎日になると思える。すでにそう
   なりつつある。ネットの発展で集
   客で差別化が難しい時代になり物
   件勝負になりつつある。秋葉原で
   地域密着不動産として、物販・メ
   イドカフェ・飲食と取り扱える当
   社は恵まれていると、よく言われ
   が大きなスパンで見れば早いか遅
   いかの違いと思う。今のところ数
   字だけ見れば順調である。しかし
   物権確保の課題を見ると、相当の
   プレッシャーがかかっている状態
   である。
        (次回に続く)

 

   37.不安定な店舗専門会社

   店舗(飲食)専門不動は、どうし
   ても物件の確保のきっかけは、現
   に飲食を経営している方とのつな
   から始まるケースが多い。そこに
   家主さんはもちろん、別途管理不
   産会社が存在するケースがほとん
   である。事前に相談するのが一番
   だが、情報が洩れるとどうしても
   営業が難しくなるケースが多い。
   そこで内密で引き継ぎ客を探す事
   が優先される。たとえ管理会社が
   いないケースでも上階の事務所や
   住居の募集に他業者が動くケース
   がほとんどである。それと、たと
   え無事に引き継ぎ客を見つけて契
   約にこぎつけても次の募集の時の
   約束は保証されてないケースが多
   い。かなり不安定な物件確保の連
   続なのが現実である。やはり家主
   さんから依頼を受けないと継続が
   困難になる。結構努力しても状況
   は改善しない。店舗だけで一棟を
   管理する仕事はそんなにない。つ
   まり不安定なのだ。
         (次回にに続く)

 

         36.至福の10年間    

   ネットで店舗専門不動産を検索す
   ると当時は、いつも最初のアクセ
   ス欄に社名が出て結構それなりの
   知名度があり、秋葉原では断トツ
   だったが、それだから、経営が楽
   かというと、そんな甘くはない。
   本音でいううと、もし秋葉原でな
   く違う地域で開店したらもっと違
   う展開というより、経営が行き詰
   っていた可能性が高いと思ってい
   る。少し早めのネット対応が秋葉
   原では本当に力を発揮して活躍し
   てくれ、その恩恵を独占できた時
   代が10年ぐらい続いた。とても楽
   しい時間だった。その時の過ごし
   方が近い将来の命運を握っていた。
   組織化・後継者育成等、それと、
   物件の確保のためにサブリース契
   約の可否の問題。サブリースに関
   しては仲介に始まり仲介で終わる
   の原則から外れていると、思いが
   あり踏み込めないまま時が過ぎ、
   結果的には、取り組まなかった。
   (次回に続く)

   35.手数料無、業者の出現  

   リーマンショックが世間をにぎわ
   せていた。規模の小さい店舗業界
   では話題になるがどこか違う世界
   の出来事のような感覚があった。
   目の前の仕事に影響はなかったの
   だが、都心の事務所仲介業者の業
   績には影響があったらしく店舗の
   仕事に参入する機会が多く見られ
   た。増々、物件確保の競争が厳し
   くなり仲介手数量の値引きも始ま
   った。造作譲渡契約の仲介料には
   規定がなく売買とみなして価格の
   3%をもらうのが一般的だった。
   ここに店舗専門の妙味があったが
   競走が激化したことで無料の業者
   も現れ、造作売却委任契約に訪問
   空振りというケースが増えてきた。
   仲介料の件でも物件確保が大変に
   なってきて、さらなる対策が必要
   になってきた。長くやっている店
   舗不動産として実績があったのが
   幸いに契約はどうにか確保できて
   資金的には割合余裕があった。
   (次回に続く)

 

         34.電気街からオタク文化へ 

   秋葉原が電気街からオタク街に変
   貌する中でメイドカフェが誕生す
   る1998年ごろで、その老舗は今
   でも外神田3丁目で営業している。
   そして今はときめくAKB48の
   劇場が2005年に誕生し努力の甲
   斐あって今日の栄光をつかんで
   いる。一度、劇場に行ってみたが
   お客もぱらぱらで今日の隆盛は、
   想像できなかった。メイドカフェ
   に参入する企業・個人も増えてき
   居抜き物件を扱う不動産会社が少
   ない、いや、なかったので当社の
   出番が増え、かなりの件数を紹介
   できた。メイドカフェ業界でも居
   抜き売却に貢献できたと思う。今
   でも相談を受けている。オタク文
   化の発展と共にパソコン・メイド
   系飲食、それと伴ってラーメンも
   注目されてきた。オタク文化にそ
   れぞれが相性がいいらしく今でも
   繁盛している。
        (次回に続く)

 

 

   33.市場の開発     

   秋葉原で不動産を開業した時にい
   ち早く電気街の市場性に目を付け
   中央通りの中心の喫茶店の居抜き
   を買い取り電気街1号店としたCD
   販売の社長は、その後も順調に店
   舗を広げ地元のCD販売店を追い
   越し、撤退させるほどの活躍を見
   せている。中古の買取と新製品の
   販売でダブルの売上を戦略として
   出店戦略も駅前・中央通り・その
   他と集中させ市場の独占化をほぼ
   果たした。おかげで店舗紹介で仕
   事も沢山出来、電気街の上客とし
   て長年お世話になった。感心する
   のは、人よりも少し先に行動する
   のがうまい、優れていると思う。
   だから簡単に大きくなってしまう
   。偶然にも電気街に店舗専門不動
   さんを開業したことをラッキーと
   、同業者はよく言うがその通りだ
   と思う。人より少し前にに先行で
   きることの凄さを目の前で体験で
   きた希少な経験だった。CD販売
   の社長は中野のブロードウェイに
   も注目していた。
   (次回に続く)

 

   32.営業力の低下は必然 

   ネット営業で一番向いている物は
   、同じ商品がないものである。そ
   んな商品があればネット発信すれ
   ば必ず売れると思うが、それはも
   ちろんニーズと合致が前提である。
   その意味で言えば、不動産は、同
   じ物件はない、隣、上下はあって
   まったく別物である(同業者の同
   じ物件のバッテングの問題は本質
   的に意味が違います)。 ネット
   不動産専門になって久しいが、本
   当に発信するだけで不動産契約者
   が確定してしまう場面を沢山経験
   します、物件次第なのです。物件
   を取得することは別にして、客付
   けという意味では営業力の差がな
   くなり、そして思うことは、営業
   力の低下が著しくなり、入力する
   ことで営業が終了と、勘違いして
   しまいます。誰でもそんな経験を
   していると思います。時々、不動
   産業は男性がいなくなり女性だけ
   で成立する業種にと、そのほうが
   お客さんも安心するかもしれませ
   ん。ネット契約も着々と実験が進
   行しています。数年先IT化が一
   番進んでる業界かもしれません。
   (次回に続く)

 

 

   31.バッテング     

   比較的古い同業で親しくしている
   社長から朝一番で電話が入った。
   話を聞いていると、お客さんから
   どこどこのHPにある事務所物件
   契約したいので確認してください
   と、結構こうゆう話があるらしい
   。同じ物件があちこちのHPに登
   録されているの折角契約するなら
   知っている業者さんに頼もうと、
   なるのだそうだ。言われてみれば
   店舗でもそういう依頼があったの
   思い出したが、店舗の場合は競争
   が厳しいのでなかなか目的は達成
   されない。その業者さんはHPは
   やらないと、断言し地域密着でほ
   とんどの物件が店から5分以内で、
   交通費は使ったことがないと、い
   つも自慢げに話していた。確かに
   事務所をネットで探すと3桁の物
   件が目の前に現れ、しかも同じ物
   件が複数の業者から発信っされて
   いる。中には気に入った物件があ
   ったら無料で仲介しますと、発信
   している業者さんもあると、言っ
   ていた。夕刻早めに仕事を切り上
   げ、いつもの相方と開業時、紹介
   開店して夫婦でかんばっている近
   くの居酒屋に寄った。相変わらず
   接客上手のママが笑顔で迎えてく
   た。早くいったのでカウンターに
   座って相方と愚痴を言いながら飲
   んでほろ酔い加減で帰路に就いた。
   (次回に続く)

 

 

        30.電気街の一番の顧客  

   仲介か購入かで悩んだ売買物件の
   契約はスムーズに進み、引渡の当
   日、物件で待っていると社長と息
   子さんが内装業者と伴って現れた
   、準備が良いのだ。そばで見てい
   ると、どうも焼き鳥屋を息子さん
   任せるようで外側のスペースにカ
   ウンターを作って、6席ほど座席
   が増えるようだ。事前に内装業者
   が調査済みで法的に問題無いと、
   いうことで1時間ぐらいで終了、
   最後まで参考に見学していた。
   このカウンターが近い将来、焼き
   鳥経営につまずき賃貸するときに
   ラーメン店としてすごい力を発揮
   し、それ以来今日まで同じ店主が
   営業を続けていて、結構有名にな
   っている。開業時、知りあった、
   このDVD販売の社長とは縁があ
   り、売買物権で4件、一棟貸し店
   舗5件と長い間にわたり仲介でお
   世話になった。普段は、威張らず
   地味で、社員教育が大好きだと、
   いうのが口癖だった。
   (次回に続く)

 

   29.情報管理と活用   

   インターネットの普及で通信が早
   く安くでき従来の紙媒体の広告と
   比べならない。しかし、インター
   ネットの本質は、一方通行でなく
   双方向性が最大の特徴だ。集まっ
   顧客情報も5桁の数に上りこれを
   どう管理しどう活用するかで近い
   将来の各企業の立場が、激変する
   可能性が大である。どうしてもイ
   ンターネットを広告媒体として見
   がちであり、当方もどちらかとい
   うとその通りなのだ。新物件情報
   など瞬時に全員に送付できる。他
   社物権の場合は、すべてスピード
   の勝負である。これは取り組むと
   毎日追われてかなり疲労する。突
   き詰めて行くと、必然的に物件の
   確保の問題にたどり着く。最近、
   サブリースを取り組み会社が相当
   増えてきて把握しているだけで十
   数社程あり、合計の室数もかなり
   の数字になる。果たしてサブリー
   スは、仲介で始まり仲介で終わる
   という、原則から逸脱しているの
   か、現時点でそう思うが、最近の
   情勢はそれを否定している現実が
   進んでいる。
   (次回に続く)

 

   28.激変する業界地図  
 
   物件確保の課題に答えが発見でき
   ないでいたが、契約数に今のとこ
   ろ影響が来ていないながら、近い
   将来の不安が大きくなるばかりだ
   。専任の委任を受けている店舗物
   件の主にもいろいろな印刷物が、
   どこかで情報を得て送られてきて
   いる、依頼主の動揺も感じられ、
   それがさらに不安を増長させる。
   そんな場面が多くなってきた。同
   業からもリース物件がかなり増え
   ていると良く聞くようになった。
   ある企業では3桁のリース物件を
   確保していると聞いている。仲介
   で始まり仲介で終わるの教訓から
   判断すると、リース物件確保は、
   原則を逸脱していると思うので
   今のところ取り組むつもりもない
   資金的にも人材的にも無理である
   が、かなりその方向が進化してい
   る。そこがすごく怖い。又、ネッ
   トを取り組まない業者の苦境もよ
   く聞くようになった。凄いスピー
   で淘汰が進んで気がする。判断を
   間違えると大変な時期が来ている。
        (次回に続く)

 

   27.購入する      

   銀行融資で賄えたので、結局購入
   した。この物件は仲介の原則に対
   して、地元・安価・4階を事務所
   として使用・1~3階の賃貸募集
   も難題でないと、いう観点から例
   外としてみることができる。早速
   4階を事務所に改装し、1~3階の
   募集を開始したが、意外と1~3階
   の賃貸が決まらない、いざ家主に
   なると焦るもので、その焦りが、
   周囲に伝わるのか悪循環になって
   中々申し込みが出なかった。同業
   に頭を下げて回ったが、内見の連
   絡もなかった。そうなると、月日
   の流れるのも早く、仲介の仕事も
   おろそかになり、悪いことばかり
   考えるようになり、食事ものどを
   とうらなくなり、げっそりして、
   困憊した。どうしようと悩んでい
   いる時、はっと、目が覚め安堵し
   た、今朝の事を思い出しながら、
   買い付け証明書を確認した。昨夜
   悩んだことで根付が悪く、浅い眠
   りだったので、余分なことを考え
   たから、悪い夢を見たのだ。
   買い付け証明書は、金額も満額、
   ローン条項無し、決済も売り主に
   合わせるわると、完璧だった。こ
   れで、腹が決まり、本当の意味で
   目が覚め、珈琲が久しぶりに、の
   どに心地よかった。
   (次回に続く)

 

   26.仲介か購入か    
   
   購入か仲介か決めないで内件に立
   ち会うのは失礼とは思いながら現
   地に着くと、すでに社長と息子さ
   んらしい二人が凛として待ってい
   た。気持ちがやけに伝わってくる。
   開業時に知り合ったDVD販売の
   社長である、1階を細かく採寸し
   て渡した平面図をテェックしてい
   る。どうも飲食店をやるようなの
   だ、そういえば、子供が飲食店を
   やりたがっているが、どう想いま
   すかと、出会ったころ質問を受け
   記憶がある。後から内装業者も参
   加して1時間ほどかかって、終了
   した。帰り際に、買い付け書、f
   ax送っておいて下さいと、買う
   気満々の様子である。事務所に戻
   り仕方なく、買い付け証明書を送
   った。夕食をすませ、入浴中もそ
   のことから逃げられなかった。や
   はり、仲介に徹するべきかと、悩
   んでる居るうちにいつも間にか眠
   ってしまい、朝を迎えていつもの
   のように会社に向かったつもりだ
   が、何処かぎこちなかった。社に
   着くと、思った通り昨日の内見物
   件の買い付け証明書がfaxされ
   ていた。
   (次回に続く)

 

   25.不動産経営の原則  
     「仲介で始まり
      仲介で終わる」 

         翌朝、寝不足の頭を熱い濃いめの
   珈琲を飲んで刺激してから出社し
   て、午後からの売買内見の準備を
   した。開業時に学んだ不動産経営
   の原則「不動産業は、仲介で始ま
   り、仲介で終わる」と、いう先輩
   たちの教えを何回も頭の中で読ん
   で、今日の売買物件を購入するの
   か、仲介ですすめるのか、考えた。
   不動産業は最初仲介しているうち
   に購入して賃貸に回したり、タイ
   ミングによっては売却で利益を出
   そうと、いろいろ挑戦して、痛い
   目にあったりして、結局は仲介業
   に専念するという教訓だ。だった
   ら最初から仲介業に徹して決して
   購入しないと、決めて開業を決意
   したはずだ。結論が出ないまま、
   午後の内見に向かった。
   (次回に続く)

 

 

   24.顧客がライバル   

   土地面積8坪、使用面積6坪の4フ
   ロア、セットバック0.5mの売買
   物件チラシを作成中に顧客一人に
   絞って紹介しょうと思案している
   と、購入して4階を事務所に1~3
   階を賃貸してみたらと、ふと、よ
   ぎった。考え出すと心が躍った、
   ドキドキ感だ。そのことで脳がグ
   ルグル回転し始めると止まらなか
   った。そう、とりあえず顧客の一
   人に紹介だけしておいて、ゆっく
   り考えようと、少し冷静になれた。
   その日の夕刻、早速、紹介した顧
   客から内見の依頼が入った。折角
   冷静になった脳がまた、高鳴りだ
   した。顧客がライバルに見えてき
   た、不思議な感覚だ。その夜、寝
   つきが悪く、かなり遅い時間まで
   脳が働き、どうするか結論がでな
   い中、ようやく眠りについた。
   (次回に続く)

 

   23.運命の物件     

   ありがたいことに近くの同業社が
   売買物件を持ち込んでくれのだ。
   近所なので社名や代表者の名前は
   知っていたが、面と向かって会う
   お互いに初めてである。今では一
   等地になっているが当時、電気街
   の裏通りになるのと、角地だが、
   一方が3mなので将来の建て替え
   50㎝のセットバックが必須なの
   で、弱点のある昭和40年代の4階
   建のエレなしの古い建物なんであ
   る。内密で処分したいと専任を受
   けたらしい。そこで最近頭角を現
   した(笑い)当社に客付けを依頼
   に来社した訳なのである。
   お客いらっしゃいますかと、小声
   で聞いてきたので、思わずやはり
   小声で、おりますと、返事したの
   大笑いになって打ち解けた次第で
   ある。1カ月間任せますのでと、
   少し余裕のある時間をもらえたの
   で、笑顔の挨拶で見送りすること
   できた。
   (次回に続く)

 

 

   22.走馬灯の如く    

   集客方法で少しほど先にいってい
   るせいが、契約数は予定をクリア
   して毎日が走馬灯の如く過ぎてい
   く。ネット社会は、データだけが
   どんどん残って凄いスピードで物
   事が処理され、虚しさを感じたり
   する場面も結構増えている。人間
   関係が形だけとなり、面識のない
   顧客と何回かメールのやり取りを
   していると、いつの間にか知人に
   脳の中で昇格してしまう。メール
   は結構個性が出やすいらしい。出
   会い系のサイトが問題になるがハ
   マル気持ちは、最近よくわかる。
   その日の午後一番で近くの同業者
   が飛び込みで入ってきた.  やせぎ
   すの背の低い70歳ぐらいの面識の
   ない人だった。
   (次回に続く)

 

   21、サブリースは物権確保の
     本命          
  
   気が付くと秋葉原駅周辺にもネッ
   ト不動産専門の業者がタケノコの
   ように増えていた。一階でなく上
   階に社名だけの看板なので業種が
   わからないので気が付きにくい。
   宅建取引主任者証を持っていれば
   法人をつくのに費用は掛からない、
   問題は開店後の推移である。ネッ
   ト営業はツボにはまると早いが、
   専任の物件がないと中々問い合わ
   せすらない。その物件確保の課題
   永遠のテーマである。今でもその
   答えはないと、いうのが正直なと
   ころだ。最近時々話題になるサブ
   リース、いつの間にかその専門の
   企業も増えてきた。HPをみて、
   当社が借主になりますので、紹介
   くださいと、いう営業が増えてき
   ている。老舗の同業で、サブリー
   ス業者を嫌っているものも多い。
   物件を取られた気分になるらしい。
   でも、物件確保という意味では、
   本命に近いと思うようになってき
   た。資金はかかるしリスクも多い
   、いざ自分が転貸者になった場合
   冷静な判断ができるのか。サブリ
   ースを物件確保の手段として取り
   組むか否かによって、近い将来、
   大きな差になる予感がするが、決
   断は直ぐにできない、月日がど
   んどん過ぎていくばかりだ。
         (次回に続く)

 

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