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なぜ信長は安土に城を築いたか?

2009-10-01 20:55:25 | 安土城址

安土城のこと第二話:なぜ信長は安土を選んだのか?

         
                (写真:安土町、安土城観光パンフレットから)

430年前の1582年、6月2日午前4時頃に本能寺の変で信長は死去。
同年に本丸などが焼失します。安土城の築城は1576年に始まり信長は
3年後の1579年に安土城に移り住みます。わずか3年の居城でした。

昨年6月1日滋賀県の安土町にあるセミナリヨで「信長の棺」の著者、
加藤廣先生の講演があり興味深い表題のお話しが有りましたので紹介
します。

それは結論として滋賀は京都より「日の出、月の出が見易い」事だと
加藤先生の説です。 以下に講演内容を:

1.一般的な安土町での築城の理由は:
岐阜から当時の政治の中心、京都に近い。琵琶湖が湖上交通(水運:戦略、
物資の輸送に)利用できる。北国街道の要所にあり監視が効く。

2.さらに加藤先生は:
安土城の天守閣の四辺が東西南北に向いている。安土城の天守は下を見て
敵を監視するのではなく、上を見る。つまり天象観測だとの説。

信長は冷酷非道と言うが一方、好奇心の強い人物。当時の暦にづれが大きく
役立にたたない。朝廷に対し改良の注文をつけるが受け入れられない。
(欧州でグレゴリオ暦に変えたことを宣教師から聞いていたのではと)

そこで安土に天皇を迎え入れ、天守の東西南北から御帝と一緒に眺めるため
安土城に大手道まで造った。

3.さて、なぜ安土にだが:
京都では四方が山に囲まれ、日の出、月の出が見えにくい。そこで岐阜から
京都に近い場所で、天象観測に都合のいい滋賀県、安土(西が琵琶湖岸でも
あり)に築城した、と加藤先生はお話しされた。

詳細は先生のご著書「信長の棺」342ペ-ジ前後にあります。

添付写真:安土城はこんな感じ、風景だったのでしょうね・・・・。

コメント (6)
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