玄宮楽々園の御書院、特別公開
普段は非公開、このチャンスに
彦根藩下屋敷
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:7月3日から7月9日)
毎日新聞の記事で特別公開を知りました (6月19日朝刊)
この特別公開は6月28日で終了しています。9日間の公開でした。
御書院の玄関部分
庭園の方から見た御書院
楽々園の「御書院」とは?
楽々園は彦根城天守の北側にあり、4代井伊直興により延宝5年(1677)
から2年を要して造営された彦根藩の下屋敷です。11代直中の隠居に
際して大規模な増改築が行われ、全盛期を迎えたがその後は縮小傾向
に転じ現在に至っています。この下屋敷には玄宮園(庭園部分)と楽々園
(建物部分)が建立されました。 ( )内は現在の呼び分けだそうです
その建物は「御書院、地震の間、楽々の間」などで構成されており、
「楽々園」と呼ばれるようになるのは明治時代以降のことで、江戸時
代には「槻御殿、黒門外御屋敷」などと呼ばれていました。
(彦根市のHPから抜粋引用。表現を一部変えています)
上 御上段 下 上之御間
御書院内部
当日持参のカメラでは広範囲が写りません。下に拝借の写真を掲げました。
御書院内部の様子をご覧ください。 m(_ _)m
彦根市HPから拝借 読売新聞の記事から拝借
現地で入手の解説書にある写真 当日はこのように襖は全開していなかった
槻御殿(けやきごてん)とも呼ばれ、総欅(けやき)造の屋敷です。 木造平屋
194平方メートルで、床が一段高い御上段と上之御間、御次乃間、御
小座敷の4室があります。上下の身分差を厳然としています。
大老 井伊直弼は、1815年(文化12年)この屋敷で生まれ17歳まで過ご
しました。
襖障子には松に鶴亀が描かれており、襖や貼り付け壁は全て金箔貼り
となっています。他に屋根は杮葺とか天井は、など他のお話もあります
が今日は省略です m(_ _)m
御上段 「菊蝶燕図」と云うのやそうです
御上段
庭 枯山水
これらは戦国時代のいわゆる合戦がなくなって久しいこの時代の文化遺
産です。井伊藩(家)では玄宮園は藩の仕事、接客用として、楽々園は生
活の場として利用されたと、当日の解説員さんのお話でした。
玄宮園
能装束 (博物館)
JR駅前通りを進むと彦根城が目に入ります
あとがきに変えて: こんな思いをもって・・・
玄宮園、博物館なども見学してその豪華さ、絢爛さに往時を偲んでおり
ました。
明治4年(1871)廃藩置県時点では23万石、その井伊家の今に残る
文化遺産です。それらは日本の文化創造、発展に大きな役割をはたし
たことには間違いないですね。
その源泉は、石高、主にお百姓さんかぁ~・・。
一方、治水や耕地開発などで大名は領地の発展に力を注ぎました。一
例として、近江の北部を治めた浅井氏は餅の井落としで民の水問題を
解消した名君で、以前に現地の見学もしています。
湖北の 餅の井落とし: 私の過去のブログは、
ここを
参考:感謝します
彦根市のHP
現地で入手のリーフレット
読売新聞
非常に詳しい解説のブログにヒットしました。紹介します
TRAVEL JP
なお、御書院内、博物館内の写真撮影はそれぞれに許可を得ています
今日もご覧くださいましてありがとうございました