比叡山
日本仏教の母なる山
そのー2
延暦寺
一つのお寺、お堂を指すのではなく、この比叡山全体が延暦寺
山全体に100以上のお堂が点在する
最澄
766(年) 近江国、現大津市坂本に誕生
778 近江国分寺に入る
785 東大寺戒壇院で受戒 ところが、 奈良の大寺では
本当の修行は出来ないと、この国家公認の僧侶の地
位でありながら比叡山にこもり12年の修行に入る
(NHK歴史探偵 画面より)
今の根本中堂の位置に小堂を築き修行に入る
同小堂
(日本の仏教(双葉社)より部分引用)
788 比叡山に一乗止観院(後の根本中堂)建立
804~805 唐に渡り天台山などで学び帰国
806年 天台宗を開く
822 比叡山にて没
866 伝教大師の太師号を清和天皇より贈られる
最澄の教え 法華経
法華堂
8巻の法華経
後の鎌倉仏教の名僧を引き付けた最澄の教え
一仏乗
大きな乗り物で仏、迷いのない世界、心安静な世界に絶対に行ける
全員成仏できる、全員仏になれます、とこの経典には書いてある
これは当時(奈良時代)としては画期的なこと
と言うのは、最澄の時代の教えは、全ての人が成仏できるわけではなく
仏教は国家を守るためのものであった
これに疑問を抱いた最澄は比叡山に籠ることになる
この時最澄はまだ20歳
受戒
戒壇院
正式な僧侶を輩出する山(戒)として求めらるよう国に働きかける
4年後、受戒できるようになる。 奈良仏教から独立を果たす
背景は、最澄の教えに引かれて多くの僧が集まったが正式な僧に
なれる受戒が比叡山にはなく、去っていく僧も多かったことにある
しかし、最澄は自分の弟子の第1号の僧を見ることなく57年の
生涯を閉じる
2012年6月撮影の戒壇院
2012年6月撮影
比叡山がなぜ母なる山
大講堂
撮影:2012年5月
法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、他
比叡山延暦寺で長く修行された方々の像
これらは各宗派の方が納めた
この比叡山で
唐から仏教を伝えた最澄の教えに、後に鎌倉仏教を開宗する
法然、親鸞、他多くの僧が集まり学ぶことに
最澄の理想、どのようなお坊様を育てる
最澄の直筆 「天台法華宗年分縁起」国宝
ここに書かれている
照千一遇:一隅を照す
一人ひとりそれぞれの持ち場で全力を尽くすことで社会全体が
明るく照らされていく
忘己利他
己を忘れ他人に尽くすことで仏と人々を繋ぐ
平安時代後期にはお堂が約3000も有ったと
最澄は人里を離れた山の中が仏教を学ぶには打ってつけと考え
僧が学ぶために沢山のお堂が出来た
ではこんな険しい山の中にどうしてこれだけ多くのお堂を
建てる事が出来たのか?
以後は次回のブログ「そのー3」へ
私のブログ:平安時代のもう一方の僧、空海
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感謝
比叡山、最澄を学ぶにあたり、双葉社「日本の仏教」
NHKブラタモリ、歴史探偵 の放送の内容、画像(過去
の訪問で延暦寺堂内の撮影は不可なこともあり)その
まま使わせて頂きました
(6月3日、22 UP)