5人の爺さん、自転車を漕いで
野洲市内の 城址巡りをしています
滋賀県野洲市
(第8回:全10回)
Kennyの滋賀から情報発信
野洲市内の城址
今まで見てきた市内のお城(館)址は今から450年以上も前
の六角氏の家臣の城でした。
今日歩く城址は300年ほど前の江戸時代の城(館)址です
三上藩の城(館)
今回訪ねた城(館)址
三上館中屋敷址、三上館下屋敷址、小清水城址
三枚の合成写真です 野洲市妙光寺地区
5爺の食欲は旺盛です 城址探索を終えて
さてお城巡りです
三上館中屋敷と次に掲げる三上館下屋敷、そして今回は訪ね当
てることは出来なっかったが、三上館上屋敷が藩主の、また三上
藩の家老だった鷲見(すみ)氏の屋敷だったのでしょうか 。 規模も
大きく主となるお城(館)のようです。 詳細は私の今後の課題です。
この、中と下屋敷は現在民家としてお住まいで、下屋敷のYさんと
は当日ご在宅で、暫し歓談させて頂きました。
畑仕事中のもっと先輩のおじいちゃん
訪問時当日、畑仕事のお爺さんが、上屋敷に殿さまが、下屋敷に
は御姫さまが住んでいやはったんやで、と。
三上館中屋敷
実は、取材(見学)当時はここが上屋敷と理解していましたが、ここ
は中屋敷の間違いでした。後日(12月18日の再訪問で当主三上様
からここな中館だとお聞きしました。(12月23日17年 訂正)
土塁が立派に残っています 今お住まいのMさんが手入れされているんですね
敷地は今も土塁で囲まれています
お屋敷の正面左側から
お詫びとお礼: 当日お留守でしたが、勝手ながらお屋敷の周囲を歩き写真撮影を
させて頂きました。 ありがとうございます。
三上館下屋敷
堀の名残
この下屋敷も土塁で囲まれています
ところが、お住まいのYさんのお話では、湿気がひどく
一部は取り払ったと
虎口(こぐち)だったのだろうか、土塁の一部が切れており石垣が積まれています
道路から見た三上館下屋敷(中央部)のある森
お礼: Y様、過日は突然の訪問にも関わらずありがとうございました。
小清水城址
最初にお断りです。 この小清水城址は間違いかも知れません。
事前にネットで検索しますと、幾つかの情報はこの場所が小清水
城址とあります。 しかも、地図、そして私が撮った写真も合致。
ところが! 近くで畑の手入れをしていたおじ様は、ここが城址とは
聞いたこともなく、あの堤(土塁)は元ここを流れていた野洲川の堤
で、もっと長かったが、国道8号線付け替え工事で崩してその土を
もって行った、と。 下の写真で土塁と思っていたのは野洲川の堤
だった、との事です。
さて困ったですが、歴史はロマンとして私もここが小清水城址として
取り上げることにしました。
しっかりと残る土塁
堀跡は今は水路に
城内 段差や大きな穴などが見られます
城内
所在地は御池、妙光寺山への途中、この橋の正面です
筆者の備忘録
三上藩: (ウィキペディアより)
元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡
三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)
に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養
子とした上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。その後、遠藤氏は大番
頭として、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に
封され、陣屋を構えた。
第5代藩主で若年寄の遠藤胤統は功績を認められて2千石の加増をうけた。 第6代
藩主の胤城(たねき)の時明治維新を迎えている。明治3年(1870年)に和泉国吉見
に陣屋を移して吉見藩となった。翌明治4年には廃藩置県となり吉見藩は消滅した。
鷲見(すみ)家: 三上藩遠藤氏の家老
遠藤家の家臣として三上(滋賀県野洲市)に移りすみ、家老として江戸時代末期まで
この地に家を構えていた。
鷲見家ももとは美濃の郡上八幡に住していた武士の一族である。現在も岐阜県には
高鷲鷲見(たかわしわしみ)という地名があり、このあたりはいまなお鷲見氏の本拠地
である。附言しておくと、いまの地名はワシミであるが、かつて鷲見郷と呼ばれていた
時代にはスミと呼んでいたそうである。
今回のお城址は今、住宅や田畑で
訪ねる城跡は遺構が残っていないこと(民家、田畑に)が多く、地図が頼り
また、ここに城(館)があったんやね~、で偲ぶお城址も
探しつかれて、灌漑ダムに出ました 暫し歓談です 画面に初めて筆者登場・・
いつもは写真の背後に(笑)
灌漑ダム ずいぶん水が減っています
今日もご覧くださいましてありがとうございました
(10月11日UP)