高台寺を訪ねました
=どんなところで世の行く末を
案じておられたのか=
この日記の掲載期間:10月28日ー11月3日
この霊屋(おたまや)に北政所様が
この厨子内の左右に北政所と秀吉の木像が安置されています。
そしてなんとそこには北政所が埋葬されている、またその場所
のお客様案内係の方にお聞きしたところ盗掘もされていないと
の事です。
北政所(ねね)が眠る 霊屋(おたまや) 京都・高台寺
今戦国時代に特に興味を持って野良猫(のらねこさん、失礼)の
ように気ままに歩きまわっている私にとってこれは今までにない
最高の感動でした。そうとすればすぐそこにご本人様がおられて
そのまたすぐ前に立っているんです。これまでは伝(伝承として仮
にその場所を指定)とか、うんと後世の(例えば江戸時代に描か
れた誰だれ像とか)資料でしか見る、偲ぶことが出来ませんでした。
勿論発掘された生活用品などは本物に違いはありませんが。
方丈から庭を
今までもうひとつ実感がなくて:現地の殆どで
関ヶ原の合戦が1600年、もう410年も前のことです。その時代
は火災が多く、現存する神社仏閣、史跡を歩いていると案内に
必ずと云っていいほど一回、二回と火災に遭いと書いてあります。
となれば記録も消失し、また保存する手段も整備されておらず、
多くの場合今に伝わる極めて少ない記録で現在語られているの
が実状です。
方丈前庭 遺芳庵(茶席)
それだけに私はこの霊屋で長くその場に留まることになりました。
係のお姉さんは不思議思われたことでしょうね、大抵の観光客は
わいわいと語ってさーっと引き上げていかれるのですから・・・。
書院ー観月台ー開山堂
意外と質素と思いきや:やはり火災か
案内書でやっと理解できました。その案内書によれば寛政元年
(1789年)以降度々の火災にあって多くの堂宇を失い現在残
っているのは・・・、とあります。なるほど、それでも今目にする事
の出来る建物やその内部、さらに庭などは壮麗な雰囲気を感じ
ます。それは秀吉夫人、贅を尽くした絢爛豪華さは求めなかった
のかなとも。
湖月庵 (打ち水されしっとりと) 庭師さんの技(方丈)
東大谷廟 (都会に広大な敷地の)
それにしてもやはり都ですなー
早朝の方が景色が綺麗に見えるだろうと朝8時過ぎがから
八坂神社を歩き始め、丸山公園を経て高台寺へ。
丸山公園 京風情の狭い路地
鴨川を北の方向
道中の広大な敷地、石畳、風情のある通りなどなど、古都、京都
を感じながらの朝の散歩です。しかし維持費が・・・、とも。 見学を
終えて鴨川に出ました。 絵を描く人、読書、犬と散歩、そこは正に
庶民の生活にと我に帰る場所でした。大都会の真中にこんなオア
シスがある。そういと韓国ソウル市内の清渓川も一旦は塞いでしま
ったが復元しました。大都会ならでこそ自然を大事にしたいですね。
写真:ドコモ携帯電話
今日もご覧くださいましてありがとうございました
朝早くからの京都散策でしたか。
(京都の伏見、そして今は宇治に住んでいても、朝早くの鴨川堤、東山近辺を訪れたっていうことがありません。)
すべて、携帯電話のカメラ機能で撮った写真ですか?
奇麗に撮れていますね。
高台寺はライトアップもいいですよ。
数年前に一度ものは試しと見物に行きました。庭巡りだけになってしまいますが。
霊屋の中の須弥壇の柱、階段、厨子の蒔絵がすばらしい。高台寺蒔絵として有名です。昔、昼間に高台寺を訪れた時、北政所と秀吉の木像を見た後、私はそちらの方に関心が移っていましたね。
霊屋は北政所の廟所ですが、高台寺は臨済宗建仁寺派の禅宗寺。お二人の木像が仲よく安置されていますが、秀吉は阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られたとされています。徳川が一旦、豊國廟を破却したようですが、明治になって豊國廟が再建され、今、山頂には巨大な五輪塔が建っています。京都国立博物舘の北隣の豊国神社は、秀吉を祭神として祀っていますね。(秀吉さんは仏式で葬られ、神式で祀られているってことでしょうか・・・)
豊国神社の境内には、摂社として貞照神社があり、北政所がまつられているそうです。
中央に一段高い屋根の観月台をもつ屋根付き廊下(建物)は「楼船廊」と称されていますね。
「京風情の狭い路地」 あの石塀小路を通り抜けるのが私は好きです。ねねの道が観光客で一杯でも、一旦小路に入ると、比較的すいていて静かな雰囲気の中を下河原通りに通り抜けることができるので・・・・写真中央の奥に開いている所が、多分下河原通りへの出入り口ですね。この下河原通りには、少し南にもう一つ、やや幅の広い石塀小路への出入口がありますよ。
街灯がつく頃に、この小路を通り抜けるのもまたいいです。
ところで、「霊屋(たまのや)」というルビは入手された案内書にでも載っていました?
「おたまや」という言い方は高台寺のHPで使っています。これが一番一般的でしょう。『京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(淡交社)がこのルビをつけています。
一方手許の本には、「たまや」とルビをつけた本があります。
一つは『都名所図会 上』(竹村俊則校注・角川文庫)の注のルビ。
もう一つは『京都府の歴史散歩(上)』(山本四郎著・山川出版社)です。
ちょっと気になりましたので。
半年前に新調しましたが今の携帯はスナップや掲載の被写体の写真なら十二分です。画素も大きく、ホワトバランス、望遠などなど、私のコンパクトは引き出し入りで今はカメラが荷物になる場合は携帯です。現役時代(電子部品営業)に携帯は将来電話との位置づけはなくなると聞きました。それで基盤のカラス開発に。そうなりましたね。その他秀吉の埋葬地、禅宗寺など帰宅後調べまして記録に追加して保存と思っていましたがまだやっておりません。このまま保存されますので助かりました(笑)サプライズですね、訂正しました。コメントありがとうございました。今日は雨で横山岳中止です。それで昨日の信長館セミナーの日記を書いています。
携帯のカメラ機能に、望遠までついているのですか、すごいなあ・・・
昨日は、当方、高島氏の新旭公民館に行っていました。
フォーラム「高島の佐々木七氏と清水山城」の聴講です。知らなかった史実をいろいろ聞けて参考になりました。
その前に、午前中、清水山城舘跡に登ってきました。その規模にビックリです。
高台寺関連で、手許の本から少し補足しますね。高台寺のHPには記載がなかったようなので。
いくつかの本からの整理・要約です。
*高台寺の前身は北政所が生母を供養するために寺町に建てた康徳寺であるとか。それをこの地に移したようです。
*秀吉の追善のために、徳川家康の援助をうけて創建したとのこと。創建当初は曹洞宗の寺だったとのことです。
*元和8年(1622)に臨済宗建仁寺派に改宗されたもようです。(公式テキストブックより)
*中興開基が建仁寺の三江和尚で、高台寺のHPには、「寛永元年(1624)7月の開山」と記されています。
なお、『都名所図会』によると、この高台寺の地には、雲居寺が弘仁年間に建立され、自然居士が住んでいたところだったとか。応仁(1467~1477)の兵火で寺が焼失したといいます。
「四季を通じて鴨川は絵になるところ」と言って、よくスケッチに行っているようです。
いい写真が沢山撮れましたね。
先日は有難うございました。毎日頑張って練習していますが、本番ではきっと物凄く緊張すると思います。大きな失敗をしないよう演奏できればと願うばかりです。"^_^"
京都はまたぶらりと出かけてみたいと思っています。NHK大河ドラマで最後に情報を提供してくれますのであれはいいですね。
八幡遊人様、コメントありがとうございます。また過日は写真展にお越しいただきありがとうございました。