大中の湖 南遺跡
(滋賀県近江八幡市)
琵琶湖(内湖)の弥生時代の集落遺跡
滋賀県にある登呂遺跡、唐古・鍵遺跡に匹敵する
Kennyの滋賀から情報発信
(このブログの掲載期間: 3月4日~3月9日)
第51回企画展 「よみがえる弥生のムラ 大中の湖南遺跡」を見て
平成27年7月18日~ 9月23日 (終了しています)
昭和39年(1946)、大中の湖干拓事業で発見、地元小学生の快挙
工事が進み数日前まで湖底だった場所からおびただしい量の土器片が。そして
その下から隆平永宝という古代の銅銭が104枚も出てきました。 これが、この
遺跡発見の発端です。 それは地元 小学生の大発見でした。
これが弥生時代中期の農耕集落の姿だそうです。 今から2000年以上も前の事です
最初に気づいたのはその小学生で、古銭、土器片の他、その後水田跡、稲束、
木製の農具、獣骨、貝塚、木偶、お墓など、3年に亘る発掘調査で次々と発掘
されていきました。
木偶
獣骨 木製農具
収穫の様子
「方形周溝墓」 というお墓と推定されている
第51回企画展 「よみがえる弥生のムラ 大中の湖南遺跡」
平成27年7月18日~ 9月23日まで安土城考古博物館で表題の特別展が開
催されました。 時々車で走っている大中の干拓地、これほど価値のある遺跡
が眠っていたんですね。
干拓前の大中周辺 (赤い文字、線は私の追記)
(安土城の山の麓まで元は琵琶湖でした)
干拓された後の大中 西の湖は大部分が残されました
大中干拓地
太平洋戦争後の食糧難対応として国策で本格的に開始された干拓地です。
今ではお米の栽培は主ではないようで、例えば大中のスイカはとっても美味
しくて有名ブランドです。
なお、この遺跡は弥生時代に留まらず、縄文時代から鎌倉時代の遺物が発
掘されており、その時代、その地は琵琶湖の水位が今よりも低く陸地(大中
内湖の全体かどうかは聞き漏らしました)であり人が住んでいたことになります。
この大中湖南遺跡は国指定史蹟、そして県の有形文化財にそれぞれ指定
されています。
現在はこのような状態で保存されています 2015年9月の撮影
発掘された遺跡の位置
入手の冊子
大中の湖 南遺跡の価値
この時代の考証は発掘に基づく成果からなされるのですが、その評価が大きく
分かれるのが稲作が始まった弥生時代、その一つは、水田跡の区画の大小だ
そうです。
しかし、それらの点は別としても、弥生時代の集落の実態を総合的に明らかに
したという評価は大きいとのことです。 住居域、生産域、墓域が一体となって
確認できた価値は高く、膨大な出土物がそれを補完していると、この冊子では
述べられています。
私の過去のブログ:大中の湖と干拓について
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滋賀県は古代遺跡の宝庫、戦国時代だけではないんです!
この大中の湖南遺跡の他、滋賀県には野洲川(沿い)に下之郷遺跡や服部
遺跡(共に守山市)といった学術的に大きな意味のある遺跡があります。また
別の機会に取りあげたいと思います。
引用資料: よみがえる弥生のムラ: 滋賀県立安土城考古博物館 編集・発行
シンポジューム、レジュメ: 近江弥生時代を考える(H.28年2月)
講演会、レジュメ: 大中湖南遺跡(H.27年8月)
お断り: ここに記載の内容、殆どの写真は上に掲げた冊子、特別展期間中の、
また別の機会の講演、頂いたレジュメから引用させて頂きました。 聞
き違いや勘違いで間違いも多々あるかと思いますが、素人の興味と
どうかお許しください。
今日もご覧下さいましてありがとうございました