ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

クロスジギンヤンマ  2015<4月>

2015-04-25 | クロスジギンヤンマ

<4.23>

早くも産卵

クロスジギンヤンマの羽化撮影に多摩の池に行くと、8時頃に産卵を目撃。この時期の産卵には驚きました。
敏感で落着きがなく、すぐに飛び去りましたが、30分程して探雌の♂も目撃しました。最高気温は25℃。

♀ 産卵





2015.4.23 東京都

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ヒメクロサナエ  2015<4月>

2015-04-23 | サナエトンボ科ダビドサナエ属・ヒメクロサナエ属

<4.22>

今年の初サナエ

まだ間に合うと思ったムカシトンボの羽化は空振り。渓流で羽化したヒメクロサナエの翅が光りました。
発見が早ければと言いたいところですが、端から羽化を探していないと見つけることは出来なかったでしょう。

♀  羽化直後






上流の林道では、羽化直後の♀がふらふら飛んで近くの草叢に着地しました。

♀  羽化直後



2015.4.22 東京都

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シオヤトンボ 2015<4月①>

2015-04-20 | トンボ科

<4.16>

羽化始まる

今年も初物はシオヤトンボ。前週はかなり気温が下がり、漸く20℃を超えてそろそろ羽化が見られるはずです。
到着が遅れて翅が伸びた後の個体ばかりでしたが、1週間程前に羽化が始まった様子。ピークはこれからです。
腹部の一部が青白く変色した♂が湿地の様子見に飛来してすぐ去りました。湿地の植生はやや劣化していました。

♂  羽化




♀  羽化


♀ 羽化 蟻に襲われて暴れる


翅が伸びきる前に暴れたため飛べそうにない


♀ 羽化


飛立って日当たりのよい草叢に静止


♀ 未成熟 静止 未成熟個体が集合する草原の個体数はまだ少ない


♂ 未成熟 静止

2015.4.16   鎌倉市


<4.19>

羽化出直し

3日前は成果なく、時間を早めて出直しです。一時薄日が射したものの正午前から小雨で最高気温17℃。
日のあるうちは湿地周辺に♂が多数出ていましたが、池での縄張り行動は見られませんでした。

運よく姿を見せたヤゴを発見。やや遠いが、望遠でこれに賭けました。♀の羽化、時間の経過を追っていきます。

9:50  定位のヤゴ


10:00  羽化が始まる








10:05  肢が完全に抜けて休止期に入る


10:27  ちょっと目を離したら脱出していた


ここまでは順調にきたが


10:40  突然、暴れ始めた


蜘蛛に絡まれていた




11:45  羽化途上のトラブルで翅にダメージを受けていた


上の♀は湿地右手にいましたが、左手を見ると珍しく水面から50cm以上高い所で羽化中の♂がいました。

♂ 羽化




♂  羽化 別個体


♀  羽化 




♀  羽化 別個体 足元にもう1頭いた 雨が降り出して飛立った個体はゼロ

2015.4.19 鎌倉市

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昭和40年代前半の鉄道写真(55・名鉄)

2015-04-14 | 昭和40年代の鉄道(名鉄)

<名鉄>パノラマカー

昭和36年、運転室を2階に設けて前面を展望席にしたパノラマカー、7000系が登場した。
豊橋・新岐阜間の特急に投入され、特急料金が不要である大衆特急車としては日本一のデラックス車といわれた。
地元のマスコミが盛んに採上げ、当時は名鉄に留まらず名古屋のシンボルといっても過言ではない存在であった。

主要機器は5500系を基本とし、空気バネ台車を使用した車体側面が固定連続窓の2扉車である。
冷房、転換クロスシートは勿論のこと、名鉄名物のミュージックホーンを装備してスカーレット一色に塗装された。
前照灯はシールドビーム4灯を備えたが、複層の平面ガラスの前面形状は当時でも野暮ったく感じたのは否めない。

踏切事故が多発する時代であり、課題の安全対策として油圧ダンパー2本が前照灯と一体化して設置されていた。
前面ガラスから最前列客席までダンパー収納スペース、冷房装置で距離を保っていたのである。

7000系は全て電動車で、先頭車7000形、中間車7050形、7150形の各2両の6両固定編成である。
1次車は3編成が製造され、本線特急のうち毎時1本はパノラマカーとすることで運転が開始されている。
翌37年に2次車の4編成が製造され、38年からは後述する改良型の7500系の投入が始まった。

その後、42年の3次車は、支線特急用として4両固定の5編成が製造された。
車両直前の駅構内の踏切安全確認のためにフロントアイを装備して、以後、支線運用に使途が広げられていく。
一方、一時期は8両に編成変えする等多様に運行され、7000系は50年の9次車まで116両が量産された。

いつでも乗れる身近な特急電車で、最高110km/hを示す車内のデジタル速度計の動きを見るのが楽しみであった。

撮影当時は、6連運用の7000系パノラマカーである。7編成が本線特急で運行されていた。

7000系6連の新岐阜行特急

1965.9 神宮前・金山橋

7000系6連の豊橋行特急

1965.7 須ヶ口駅

パノラマカー登場の2年後の38年、7000系の改良型で、高速での加速性能を向上させた7500系が製造された。
回生ブレーキ、電子装置による定速度制御を導入、電子頭脳車と称されたものの、初期はトラブルが多発した。
7500系は低重心設計のため、7000系と同じ高さに設定した運転室が屋根から上にやや突出した形状である。

7000系同様、全て電動車であり、先頭車7500形、中間車7550形、7650形各2両の6両固定編成である。
まず4編成が製造され、従来の7000系と合わせてパノラマカーでの本線特急運転は毎時2本になった。

39年、名鉄のSR車としては初めての非電動である中間付随車7570形4両が製造され、7連運転を開始した。
同年には、2次車、6両3編成も製造され、パノラマ特急の増発体制が整備されていった。

42年、前述した中間付随車7570形を電装化、3次車として新造した同形4両を組入れることで8連運転を開始。
その後、45年には全編成とも6両に戻すことになり、最終の6次車は先頭車のみが製造されている。

7500系は計72両で、支線用に幅広く使用された7000系より先に製造を終了し、引退時期も早かった。
特異な仕様で他系列と併結できず、本線以外は犬山線、常滑線、河和線に運用が限定される等の制約によるためであった。

撮影当時は、6連及び7連の7500系が計7編成で、7000系と共に本線特急で運行されていた。

新一宮に入線する7500系の豊橋行特急、右は尾西線、左奥は国鉄尾張一宮駅

1965.8  新一宮駅付近

7500系7連の豊橋行特急の通過と名鉄バス

1965.8 国府宮駅

7000系同様運転室の出入りは側面のステップ、新川橋を渡る7500系豊橋行特急

1965.7 須ヶ口・新川橋  

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


平成19年、長きに亘り活躍したパノラマカーが翌年に営業運転を終了するとの新聞記事を目にした。

思えば鉄道少年時代のパノラマカーは、当たり前過ぎる存在でフィルム代を節約するために殆ど撮ることがなかった。
42年を経て19年の大晦日、7000系4連のパノラマカーを撮影してきた。7500系は17年に廃車済であった。
フロントアイを装備してはいるものの、逆富士形といわれた行先表示板は変わらず、懐かしい姿を見せてくれた。
普通電車のパノラマカーにはいささか淋しい気分にさせられたが、これも時代の流れで致し方ないか。

枇杷島分岐点を行く7000系犬山線普通




新装の行先表示板、犬山線経由の新岐阜行準急

2007.12 東枇杷島・下小田井

かつては予想もしなかった津島線、尾西線へのパノラマカー、佐屋行普通






辛うじてパノラマカーの急行が来た、犬山線経由可児行急行

2007.12 東枇杷島駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(54・名鉄)

2015-04-11 | 昭和40年代の鉄道(名鉄)

<名鉄>歴代の吊掛駆動特急車

名古屋鉄道は、昭和10年、名岐鉄道(押切町・新岐阜間)と愛知電気鉄道(神宮前・吉田間)が合併して誕生した。
当時、両区間は接続されておらず、西部線(旧名岐)、東部線(旧愛電)と呼ばれていたとされる。
12年、特急車として当時流行の流線形で製造されたのが西部線の850系、東部線の3400系であった。

東部線の3400系は、張上屋根、前照灯埋込式、全溶接構造の半鋼車で、新生した名鉄を代表する優秀車であった。
前面3窓に曲面ガラスを使用、窓上の通風口が特徴で車体下部をスカートで覆う優美なスタイルの流線形車両である。
種々の新機軸を採入れ設計速度120km/hの高速走行性能を有し、全席転換クロスシート、緑の濃淡2色塗装で登場した。

制御電動車3400形、制御付随車2400形の2両固定、3編成が製造され、東西直通運転以後は旧西部線にも乗入れた。
25年、中間電動車3450形が製造され3両固定化、28年、付随車2450形を組込み4両固定編成と変遷している。

子供の頃は、新鋭の3850、3900系と共に本線特急に使用されていたが、撮影当時はすでに特急から退役していた。
動態保存された2両が平成14年に運用を終了するまで長きに亘って人気が衰えることのない車両であったといえる。

一方、なまずの愛称が付された850系は、撮影してはいるが、フイルム劣化で残念ながら再生できない。

木曽川に架かる自動車共用の犬山橋を行く3400系、重整備前の一番車3401先頭の河和行普通

1965.8 新鵜沼・犬山遊園

3400系、須ヶ口から津島線に入る弥富行普通

1965.6 新川橋・須ヶ口

16年、東西直通運転に備えた制御電動車3350形、制御付随車2050形他が製造され、東部線に投入された。
3400系の仕様を採入れた後継車の位置付けであったが、前面貫通式で張上屋根は採用されず、外観は大きく異なる。
全溶接の半鋼製車で、埋込式の前照灯、一段上昇窓、転換式セミクロスシートを装備していた。

16年に地下駅の新名古屋駅が開業、19年に戦時輸送確保のため新名古屋・神宮前間が開通し東西の路線が結ばれた。
しかし、東西の電圧が異なるため金山橋駅で分断されて乗換えを要し、直通運転は戦時の混乱で23年まで持ち越された。
直通運転は600Vであった西部線を1500Vに昇圧することで実現している。

戦後の形式番号変更で3350形は3600形、2050形は2600形になり、3600系の2両、4編成が運行された。
その後、複電圧車に改造、本線から600Vの西尾線、蒲郡線等への直通運転用に使用、複電圧装置は40年に撤去される。
30年代には三河湾への観光特急に投入され、小学生時代に家族旅行で乗車した時は三ヶ根号の呼称であった。

写真の3600形は、特急色の塗色ではあるが、重整備された後で残念ながら殆ど原型を留めていない。

3600系、重整備後、高運転台に改造された3601の河和行普通

1965.8 犬山遊園駅

26年、戦後初の特急車として3850系が新造された。半鋼製、張上屋根で、広窓の全席固定クロス車である。
制御電動車3850形、制御付随車2850形の2両で組成、10編成が製造された。

赤クリーム、チョコレートのツートンカラーの名鉄伝統の特急色は、この系列で初めて採用したとされている。
前述した3400系、3600系も本系列の登場を機に塗替えられたようである。

翌27年、旧3500形の電装品を流用して、3850系とほぼ同型の3900系3編成が製造された。
制御電動車3900形、制御付随車2900形の2両で組成、固定セミクロスシート車で初めて蛍光灯を使用している。
28年に中間電動車3950形、付随車2950形を組込み、4両固定編成で本線特急の主力車として運用された。

29年、翌年デビューの次世代高性能電車5000系の試験車として2900形2両、3950形2両が製造された。
スタイルは同様でも先の3編成とは異なる別編成の4連で、両端の先頭車の2900形にパンタグラフを設置していた。
車番は2904、05及び3954、55で、名鉄の最後に新造された1500V吊掛駆動車であった。

新川橋を行く3900系、第4編成の2905先頭の4連河和行普通

1965.6 新川橋・須ヶ口

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