鳥まり、参る!

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優しさは己を助ける、その逆は…。

2020年09月07日 | ガチ☆スピ
※ガチなスピリチュアル記事です※

【呪詛返しの返しを施してもらえなかったのかい?】

栄枯盛衰は世の習い

誰も抗うことのできない決まりごと

ああ

目を閉じればよみがえる

ありし日の姿

野心に満ちたあの横顔

傲慢なあの瞳

贅を尽くした日々

終わるはずがない隆盛

満月も欠けないと己惚れた

並ぶ者などいないと己惚れた

何もかも昔のこと

すべてすべて過ぎ去ったこと

時代という風の前に跡形もなく消え失せるのみ


…とまぁ色々書いてみましたが、実は

「望月の欠けたることもなし…」

と歌った頃にはミッチー(藤原道長)はもう病気が手の施しようもないほど進行していたといわれています。

こちらのミッチーは過去記事(→・二人のミッチー~道真と道長~。)でも書いたとおり私はあまり好きじゃないんですが…ってまあ道長を好きだと思う人の方が少ないか。

残された史料から道長の病状を現代医学で照らし合わせると、重度の糖尿病だったんじゃないかと言われています。

wikipediaにも載ってるよ。
  ↓
※藤原道長(wikipedia)

それも事実なのでしょうが、ガチ☆スピ記事なんでひとつ私がずっと思ってる仮説を。

ミッチー、陰陽師に嫌われて呪詛返しの返しの術を施してもらえなかったんじゃないの?

私は専門じゃないし恐ろしいから近づかないようにしてますが、昔において黒魔術や呪詛は実際的な謀(と書いて、はかりごとと読む)と並行して必ず行うことです。

かなり近世までそうだったんじゃないかと思いますね。

そしてそういう呪術的なことはスポーツや職人技と同じで、ある程度天賦の才がないと能力をのばせませんから、専門家にやらせてたでしょう。

で、まさにミッチーの時代の有名陰陽師といえばかの有名な安倍晴明さん。

一条天皇と道長に信頼されていたというのは史実です。

私はずーっとずーっと思ってた。

「晴明さんがバックにいたのなら、呪詛返しを返す術を施せないわけがない。

 でも呪詛返しをくらったとしか思えないのは、わざと施さなかったんじゃないの?」


…と!(古文の授業っぽい!)

道長は当時の最高権力者。

晴明なり門下一の法力をもつ弟子なり、一番の実力で任務遂行したはずなのです。

「人を呪わば穴ふたつ」

というでしょう。

「他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺される。

 葬るべき穴はふたつ必要なこととなる」

これは本当だと思う…思ってるっていうか知ってる。

前世の記憶由来か歴史の勉強由来かはわからないけど。

それで恐ろしいことですが、黒魔術・呪詛の世界では

「呪詛返しがかぶってこないように返す術をさらに施す」

「呪詛返し専用の生贄をたてておく」

という手法があるらしい。

それをやらなかったのなら、そこにこそ意味があるのです。

端的に書くと

「ミッチー、陰陽師に嫌われていたんじゃないの?」

です。

傲慢で嫌われたか、金払いが悪くて恨みを買ったか、その両方か…。

だいたいこの3つだと思うけど、美しい仮説を立てるとすれば

「依頼されたから道長の政敵を呪ったけれど、本当はその人たちのほうが好きだったから」

というのも有り。

定子母子をめぐる悲しい顛末は涙無しには読めないものね。

『枕草紙』では道長に遠慮してか若干バカにして描かれる伊周だって、はめられて失脚したに決まってると私は思うよ。

いつでも歴史は勝者を美化し正当化して語り継がれるもの。

勝てば官軍、負ければ賊軍だからね…。

ガチ☆スピな視点で考えれば、私は道長物語の後半~結末は呪詛返しをくらったとしか考えられない。

当代一の晴明さんはなぜ道長に呪詛返しを返す術を施さなかったのか。

あるいは、前半だけ防いで後半は防がない仕様にしたのか。

そこにこそ勝者の書かせた歴史書にはない、人間としてごまかせないメッセージを強く強く感じるのですよ。

京都の晴明神社は私も何度か参拝させていただきましたが、実に陽気で優しい気持ちに満ちた場所だよね。

それもまたメッセージなのか…。

残暑のオカルト話でした。

(タイトルに「優しさ」と書いたけど、むしろ「誠実さ」かもしれない。

 もう一人のミッチー=菅原道真さんが今なお愛されてるのは誠実さ由来な気がするよ)

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