あさか野の四季

      写真歳時記

菜の花畑

2014年05月02日 | 風景や景観

菜の花が美しい時期を迎えた。
畑一面に広がるこの花を見ていると、なぜか子供の頃に見た懐かしい風景がよみがえってくる。

菜の花、正式には油菜(アブラナ)の花で、その種子から菜種(ナタネ)油を取ることからナタネナともよばれる。世界的にみると菜種油の生産は増加しているとされるが、残念ながら日本では昭和30年代をピークに減少をつづけている。

早春の美しい情景をうたった”♪菜の花畠に入日薄れ・・・”で始まる小学校唱歌「朧月夜」の作詞家、高野辰之のふる里(長野県)には、今もこのような風景は残っているのだろうか。(写真:市内県農業総合センターほ場にて)

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新春の安達太良山(あだたらやま)

2014年01月03日 | 風景や景観

郡山から望む名峰・安達太良山(1700m)。
雪をいただく山容は凛として美しい。
安達太良山は古くから有名な山で、万葉集にも三首詠まれている。そのうちの二首に安達太良真弓(檀の木で作られた弓)がうたわれており、この山一帯が檀の産地だったことが分かる。

この安達太良山。東側山麓にある二本松地方の人々からは岳山、反対側の猪苗代の人々からは沼尻山などと呼ばれて親しまれている。それぞれのふる里の山なのである。
日頃から見慣れた山も、新春にみるとなぜかひときわ新鮮に映る。
(写真:市内逢瀬町から)

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恵みの流れ・安積疏水(あさかそすい)

2013年07月27日 | 風景や景観

清らかな水の流れ、明治初期に開削された安積疏水(日本三大疏水の一つ)の幹線水路である。

この疏水は、ときの新政府が廃藩置県後の失業士族救済を目的とした原野開拓のために猪苗代湖の水を引くという壮大な国家プロジェクトによって生まれた。この水に望みをかけて計画に呼応した人々(遠くは九州久留米、土佐、鳥取をはじめ県内の二本松、会津、棚倉など全国9藩の士族2000人余り)は、慣れない土地、初めての作業、少ない収穫、このような厳しい環境に耐えながら未開の原野に挑んでいる。

幕末まで、水利が悪く放置されていた広大な安積野を美田に変え、電気をおこし、増加する人々の飲み水となってきたこの疏水は、先人の歩みと相まって今日の郡山市発展の源となっている。これからも大切に守っていきたい流れである。
(写真:郡山市熱海町安子ヶ島地内)

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長寿日本一の染井吉野(ソメイヨシノ)

2013年04月16日 | 風景や景観

 今年も桜が美しい季節になった。
 県内有数の桜の名所、ここ郡山市の開成山公園も1,000本余りの桜が見ごろを迎えている。この中には明治のはじめ、この地を拠点に行われた安積開拓時に植えられた桜が今も残る。その桜は、開拓を始めるにあたり地元の富商が組織した「開成社」の人々によって、灌がい用ため池の堤防などに植えられたものである。
 開成社百年史によれば、開成社は明治6年の結社社則に花木苗木購入の金額を具体的に掲げ、明治8年には開墾地周辺に桜苗木の栽植を決定している。一方、開成山と周辺一帯の桜を「国の名勝及び天然記念物」として申請するために行われた県の調査報告書(昭和7年)には、開成社が中心となり山桜をはじめ染井吉野(当時は下り苗と呼ばれた)の苗木を東京の植木商から購入し、明治11年(1878年)に植栽した、とある。これらからすると公園内の古いソメイヨシノの樹齢は少なくても今年で135年を数えることとなる。一般にソメイヨシノの寿命は40~50年、長くても60年とされ、樹齢135年は驚異的な記録と言える。
 現在、日本最古のソメイヨシノは、明治15年(1882年)に植えられた青森県の弘前公園の桜とされているが、こちらの方が数年早く植えられたと思われ、日本最古、長寿日本一は開成山公園のソメイヨシノであると推察される。写真がその長寿日本一と思われる古木のうちの一本であるが、なぜか市の緑の文化財や天然記念物にはなっていない。
 いま、この古木と同時に植えられたと思われる公園内のソメイヨシノの多くは朽ちかけており、ひん死の状態のものも少なくない。当面、最古か日本一か、とは別に、一層の養生対策を行うなど、名誉ある長寿記録をさらに延ばす手立てに知恵を集めたいものである。
(写真:郡山市開成山公園にて。残念ながら歴史的な桜であることを知る市民は少ない)

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初冬の疏水路

2012年12月02日 | 風景や景観

初冬の光を浴びて延びる疏水路。
サイフォン方式を利用した灌がい用水路で、長さは800mに達する。今から50年ほど前に地元の人々(土地改良区)により建設されたものである。(現在は地域全体の灌がい水を調整する安積疏水土地改良区が管理している)

かつて、この地域は周囲より一段高い位置にあるため、水利の面で水田が造れなかった。しかし、高低差を利用したサイフォン方式の採用によって、宿願であった稲作が可能となったのである。米が十分に自給できなかった時代、人々の米作りに対する執念、情熱が作り上げた傑作といえる。
この風景は、地域の美しい田園風景の一部になっており、いつまでも残したい景観の一つである。
(写真:郡山市三穂田地内にて)


ひつじ田(ひつじだ)

2012年11月23日 | 風景や景観

秋、刈り取ったあとの稲株から再生した稲を「ひつじ」といい、「ひつじ田」とは、一面にひつじの生えた田のことである。ひつじは、早刈りした稲ほどよく伸び、まれに穂をつけるまで生長することもある。

ひつじを「ひこばえ」と呼ぶこともある。ただ、ひこばえ(蘖)は、草や木の切り株から出た芽を指す点でひつじと同じであるが、春の季語とされており、稲に対して使うのは不適当かも知れない。
ちなみに、「ひつじ」は漢字で、禾へんに魯と書く。その意味は、漢辞海(三省堂)によれば、野生の稲のことだという。

やっとここまで成長し、緑を保ち続けた「ひつじ田」も、やがて霜にあい枯れてしまうことを思うと何となく儚さが胸をよぎる。
(写真:郡山市片平町内にて)


初秋の美女池

2012年10月06日 | 風景や景観

静御前が身を投げたとされる伝説の池。
兄頼朝に追われた義経は奥州平泉へと逃れた。その後を追った静御前は、下僕の小六と乳母のさいはらを供に安積の里へとたどり着くのであるが、その最後の峠を越える途中で小六を亡くしてしまうのである。静は嘆き悲しみ、涙を止めることができなかったが、気を取り直して化粧を整え先を急いだという。幸い村人の好意で地元の花輪長者の屋敷に案内され、ここでしばらくの間、村の娘などに針を教えた。そんなある日、ひとづてに義経が亡くなったことを知った静は、絶望のあまり、さいはらと共に近くの池に身を投げるのである。いつしか人々はその池を美女池と呼ぶようようになったという。

この地域には、今でも静御前堂はじめ小六峠、小六塚、針生(はりう)、化粧坂(けわいざか)といった地名が残る。静御前伝説は全国に数多いが、この地域のように話の流れが地名となって伝えられているところは少ないと思われる。
(写真:郡山市大槻町美女池上地内にて)


冬の安積山(あさかやま)

2012年02月21日 | 風景や景観

安積の地(郡山市)より望む額取山(ひたいとりやま、1009m)の冬の姿。別名を安積山という。

「安積香山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思わなくに」
この歌は万葉集に収められ、古くから安積山の歌として有名。
安積山は歌枕にもなっている。また、
平成20年、滋賀県信楽町の遺跡からこの歌が墨書された木簡が見つか
り、全国的に大きな話題となったことも記憶に新しい。

ところが、悩ましいことに、地元には二つの安積山が存在している。
一つは写真の額取山、もう一つは元禄時代、松尾芭蕉が奥の細道行脚で
立ち寄った奥州街道沿いの安積山(小高い山)である。
歌枕なるほどの山、つまり安積の地を代表するほどの山と解釈すれば、
やはり額取山の方が有力か。(写真:郡山市片平町内より)