ローマから南へナポリに向かって高速を走ると桃の花が沢山咲いていた。南部地方は暖かいので桃の産地だと言う。
更に、南下すると、イタリヤ風に選定された丸っこい頭の松並木が見えた。 この道が、アッピア街道と呼ばれる、大ローマ帝国の“ローマ街道”(高速道路)の代表的な道路である。
ローマ街道(ローマかいどう)とは、古代ローマ時代に主要都市を結ぶように作られた道路のことである。 ローマ街道の歴史は、紀元前312年にローマのケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。
それまでも、サラリア街道(Via Salaria、「塩の道」の意)などの街道は存在したが、軍隊の迅速な移動を目的とした舗装されたローマ街道は、アッピア街道が最初である。
以後、敷設されたローマ街道には、その街道を敷設したケンソルや属州総督などの名前が冠せられることとなる。 初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけであった。
しかし戦争を重ね、領土が広がるにつれ、ローマ以外の都市から都市へ結ばれるようになる。 最終的にはイタリア半島のみならず、ガリアやブリタンニア、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなどローマの属州にも敷設され、地中海全域に網の目のように敷設されることとなった。
また、軍事目的で敷設されてはいるが、軍事に関係のない一般市民でも利用することが出来たため、物流などの経済面でも大きな影響があった。
アッピア街道(Via Appia)は、現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。
新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道 (Appia Antica) とも呼ばれる。
紀元前71年、約6000人の奴隷がスパルタクスに率いられ反乱を起こした。マルクス・リキニウス・クラッススによってこの奴隷反乱が鎮圧されると、逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらはポンペイにまで達した。(ローマ・ポンペイ間は250kmある)
ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが、教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。 街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている(例えば、ヴェッレトリ近辺)。
ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベを多数見ることができる。 アッピア街道上にマイルストーンがあると聞いていたが、見る機会は無かった。
街道沿いに延々と磔になった反乱者の列が続いたシーンがあり、印象強く残っていました。
一つ勉強になりました。