私は非常に新鮮な気持ちでエキサイティングな毎日を過ごした。しかし、ボルネオに行った目的は何と「石炭」と「金鉱」のリサーチだった。商社に雇われたのだった。
ボルネオに私を帯同した商社マンは、材木や鉱石やら果実やら・・ありとあるものを商品化し、日本に輸出するのが使命だ。あの酷暑の中で日中はあちこちに出かけ、夜はタイプライターをカチャカチャたたきFAXで本国と交信していた。
現地で我々に力を貸してくれた者は各世帯が廊下を共有し、簡易な仕切りで部屋を連結しているロングハウス・・に住む集落の民だった。営むのは自給自足的な焼き畑農業と漁業で、それはおよそ「石炭」や「金」とは無縁のスローな生活を営む社会だ。
そこに「宝」があると教わってから、数年もしないうちにあちこちに森林開発が進み、発電所ができ、近代的な住宅や外国人向けのホテルやガス、水道、電気などが敷設され、社会ががらがらと変わりつつあった。森が切り開かれたのと引き換えに、村落は近代化し、文明を受けとることになった。働く人は鉱山や農園に雇用されていった。総じて、石炭と金や農園が彼らを幸せにしたかどうかは知らないが、住民の時間の過ごし方、生活のスタイルが「忙しい」ものに激変したに違いなかった。
現役時代は「忙しかった」と、今でも当時を思い出すと息苦しささえ感じる。しかしリタイア―した今でも、なにやかやでのんびり過ごすことが難しくなって、ある意味の苦しさが加わったような気がする。現代はほとんどの人が、もしかして子供までが忙しく時間を過ごしているようにも感じる。
ふと考えたことだが、生産年齢に達すれば、一日の24時間のうち8時間を生産、8時間を消費、8時間を睡眠と習慣づけたらどうだろうか?社会は分業で成り立つから、生産は人のため、消費は自分のため、睡眠は生存のためと意識付けもできる。法制化は暴挙だが、この習慣の下では、病気や、過剰な欲望も浪費も、犯罪も抑えられるかもしれない。
国際分業が進む現代はほとんどの人が、ボルネオの種族までもが、忙しさと苦しさが交錯して暮らしているのではないかと思う。いろいろなことが激しい市場競争にさらされ、あらゆる事物が差別化され、システム化され「便利」になった。その反面で廃棄物も多様化し、あるものは中途で使われないでそのままゴミになったりする。例えば、我が家では、同じ石鹸や洗剤でも数えきれないほどの形や用途の商品が並び、洗濯石鹸と普通の石鹸しか知らなかった私は、それらをどう使えばよいかわからない。システムは日々に更新され、子供や高齢者まで、いろいろな場面で注意深く、細やかな操作を強要される。交通機関への乗車、買い物、銀行、医者、電気製品、ドアの開閉、キッチン、お風呂やトイレまで、カードやらボタンやらのお世話にならなければならない。こういう社会では、高度化された技術を使う「生産」も「消費」も「睡眠」も過ごす時間が必ずしも楽しくあるまい。後期高齢者の私が忙しいことは、ぼけないし、いいことだよと言えなくはないが、こういう物に取り巻かれることでの忙しさは困る。
問題は過ごす時間の質なんだよなあと思う。時間の質とは、その時間を過ごしていることが「楽しい」かどうかで決められる。「忙しい」、「苦しい」と結びつくと、過ごす時間の質が低下していく。
○私が行った時期は1985-7年です。シンガポールで活動する商社が資金源で、国立大S教授、地球科学者(地質構造発達史)に指導していただき、北朝鮮の鉱山学者を帯同しての大掛かりな調査でした。どうしても奥深く入る必要があったのでしょうね。そこで私は焼き畑農業の光景を目に焼きつけました。木材搬出道路はすでに四通八達し、あちこちに置き場があり、猛烈な勢いで木材が運び出される光景を見ています。英国人(現地王を名乗る)と中国人(華僑)が経済的に支配していた地域でした。
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