田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

2000年8月、ブラジルで講演しました(思い出の記録)

2008年10月04日 15時08分25秒 | ブラジルと私(ブラジルをかじる)
1.農業は国の基本

今、地球環境問題が世界の人々によって語られるようになりました。でも、先進国にみられるように石油エネルギーや原子力エネルギーをふんだんに使った夢のような生活を世界中の人々に拡げることは出来ません。炭酸ガスの増加、環境ホルモンや農薬による水の汚染、酸性雨、排気ガスによる大気汚染など、近代的な文明のあるところはすべて例外なく環境が危機に瀕しています。
今いい生活をしようと思うとそれは大都市に住むことです。しかし、大都市では環境が非常に悪くなっており、健康にとって大きな問題があります。
毎日口にする食糧や水にも深刻な問題があります。これには農業のやり方のまずさや農村の開発の間違ったやり方などが大いに関係しています。
 今、世界の貿易を活発にしようとして、世界を一つの市場のようにし、安いもの、便利に手に入るものをいったん大都市に集め、そこから各地へ再配分するするというシステムが拡がろうとしています。安いものを大市場に集め、消費者に供給するという「市場原理」が浸透しますと、農産物でも、近くで作り、近くで食べるという「地域経済のサイクル」が壊れていきます。こうして日本の農村は今急速に崩壊しつつあります。日本では、大豆は殆どアメリカで作ったものを食べています。大豆は日本人にとっては大変重要な食糧なのですが、アメリカ産の方が安いという理由だけで、国産のものは消費されません。でも、食事は人間の身体を作る原料です。体にとっていいものは、高い/安いといった市場の評価ではなく、それが安全であるのかとか、これからも安定して子孫に食べさせることが出来るのかどうかということが重要です。市場だけで、大切な体を作る原料である食糧生産が左右されるということは、国の存続にとっても非常に問題のあることなのです。

 まとめましょう。世界の隅々にまで農産物が流通することは、それはそれでいいことでしょうが、問題は農産物を作っている場所、つまり農村が①自然を壊したり犠牲にしたりしない②農民が幸せに生きられる、換言すれば元気な農村があるということが絶対条件です。今は逆です。世界中で農村が壊れ、自然が壊れ、その犠牲の上に一部の国の大都市の市場が聳えているという仕掛けです。日本がいい例です。日本は莫大な稼ぎを都市(工業)で上げ、世界中から農産物を仕入れ、全国に販売しています。お陰で、日本の農村は大きく破壊されました。今日本の食糧自給率は40%程度なのです。日本の農家は失意の底にあります。日本の土地の8割を占める農村の沈滞は、国民の健康問題、国の誇りの問題とも繋がっています。
今ここで大切なのは、世界のすみずみで農業者が誇りを持って、土づくりと自然農法を実践し、それぞれの国民の健康と栄養の守り手になることです。農業にはこうした使命があります。こうしたことを前提に少しばかり基礎的なお話をしましょう。

 2.自然の維持管理(地球環境保全)こそ農業の役割

すべての生物は、大昔は海に住んでいました。やがて、その一部が進化して陸に上り、植物社会を築きました。その植物社会からさらに時間をおいて動物が生まれ、さらにずっとずっと時間が経って、人間が誕生しました。ですから、人間の父・母に当たるものは土壌であり、祖父母に当たるものは海であるということができます。地球上に命が誕生して
から、その生きているすべての命は、進化などの複雑な道を通ってきつつも、親-子、親-子、親-子という無限のリレーで受け継がれてきました。地球上には、無数の命があります。これらの命はすべて、このようなリレーで保たれてきているのです。
土壌の中には、現在分かっているだけでも約1,600 種類の細菌類、そして4万5千種類のカビ類が生きているといわれています。土壌の中には、細菌や、カビなどの小さな命ばかりではなく、アメーバーや、ミドリムシ、ゾウリムシなどの原生動物、ミミズなどの環形動物、昆虫、もぐらなどの小動物がたくさん生きています。このような生物が豊かに生きている土について我々人類はまだ多くの知識を得ているとはとても言えません。今地球上で森林が人間の都合によって減ってきていますが、森林の中は、特に生命活動が活発なところで、森林植物や森の中に暮らす動物たちは、土壌の膨大な生物群と結んで多様で複雑な生命のドラマを繰り広げています。そして人類は、森林の作り出している土壌の中の生物の10% も把握、確認していないと言われています。命のみなぎる自然はそれ程多様で神秘で奥深いものでありますが、農業とは、この自然の営みを人間が上手に利用する技術であるということができます。言うまでもないことですが、人間も自然から生まれ、やはり、親-子、親-子、親-子のリレーによって、この世に存在しています。このリレーが何かの理由でとぎれる時は、人間がこの地上から姿を消すときです。このリレーが地球の突然の変異でとぎれることも百万年ぐらいの単位であるということですが、現在、わずか200年位の間に異常に繁殖した人類が、自然環境を壊すというとんでもないことをしでかしつつあり、自らの命のリレーを自分から阻害しているという地球環境の危機が進行しています。人間は土壌の中に住むことは出来ませんが、土壌から離れられないところで生きている生物の一つです。地球ではすべての生物はお互いに食ったり食われたりして、つまり命のやり取りをしております。人間は、他の生物(動物や植物)を食べ、寿命がくると他の生物(主に微生物)に食べられ、土に帰っていきます。人間も含めてすべての生物は、他の生物の命を譲り受け、また死ぬときには他の生物の食料として命を捧げるという宿命にあります。どんな生物もこの法則から逃れることは出来ません。この食ったり、食われたりする関係を食物連鎖といいます。生命は、他の生命に食われることによってその生命に変わる、そしてその生命は今度は別の生命に食われてその生命に変わる、それが無限につながって複雑な生物社会を構成しています。もしも、この生命と生命の繋がりが切れてしまいますと、それぞれの生命は死を免れることができなくなります。このような生命と生命の連続した関係を生態系といいます。農業は人間が自然に働きかける産業ですが、植物を生産すれば農耕に、動物を生産すれば畜産に、椎茸やシメジや木炭を生産すれば林産に、材木を生産すれば林業にそれぞれ分かれます。共通していることは農業は
生態系を制御して人々の命の持続に役立てるという営みであります。土が、無数の生物たちの生きる場であること、この土を大切にして生物たちの繋がりを生かして農作物を作ることが本来の農業なのだということを主題としております。今、世界の至る所に森林を切って、人間の仲間である生物を殺し、森林の遺産である土壌が作物を育ててくれる間だけ利用し、駄目になると砂漠にしていくという、土壌を使い捨てるとんでもない農業が行われています。それは、農民の自殺であり、人類の自殺であるといえましょう。日本では、農民たちは長い間、土壌を命から2番目に大事にしてきました。日本のように山が深く、森林をきりひらくことの難しいところでは、土地は非常に貴重なもので、使い捨てできないものでした。小さな土地をていねいに耕して、農地や家を村の人々が一丸となって守ることは当然しなければならないことでありました。このような管理をしているかぎり、その土地は食料を供給し続けてくれました。少ない平地は、田や畑となって数百年以上、長いものでは2千年近くも働き続けてきたわけですが、そのように永久的なサイクルで土地が働き続けられるのは、農民たちが土づくりをやってきたからであります。農民たちがやってきた土づくりというのは、森林に入っていって落ち葉や枯れ草、ときには枯れ枝を集めて、わらをまぜその上に動物の糞などを混ぜてそれを発酵させ堆肥にした後土に施すことでありました。
こうすることによって、収穫した後減退した肥料分を森林から補ったのです。しかし、堆肥というのはただの肥料分ではありません。これは、土に生きる生物の餌でありました。堆肥を入れることによって土地の中の生物の活動が活発になり、命のやり取りが繰り返されて、その結果生態系は安定し、作物の健康が守られ、収穫に結び付きました。堆肥を入れることによって土地の中の生物の活動が活発になることを土が生きているというふうに表現いたしますが、この生きた土こそ、水分を把持し、根に酸素を供給し、雨や風によって飛び散ってしまわない作物にとってもっとも望ましいものであります。

3.土の値打ちが農産物の値打ち

人間も、土の中の生物も皆命のやり取りをして繋がっている仲間なのです。早い話が、人類を結核や肺炎などから救ってくれた抗生物質は、人類にとって一見敵に見える青カビが作り出す物質であります。土壌の中にある微生物については研究が大分進んでいますが、その中で最近の注目すべき大きな発見として、作物の根の中にある特別の菌が作物から栄養を貰いながら生息して、根の働きを助けつつ、作物が病気になることを防いだり、植物が成長ホルモンをその体の中に送り込むのに重要な役割を果たしていることが分かってきたことです。いうならば、ある特別な種類の菌が作物の根に、門番がわりに住み着いて、悪者が攻めるのを防ぎ、また植物にとって大事な物質、例えば成長ホルモンなどを外界から受け渡しして供給する役割を果たしているということであります。このことはもし別の機会があればお話ししたいと思いますが、私が言いたいことは、生きた土壌とは、無数の生物が生態系を構成し、それぞれが特別な役割を果たしていると考えられること、最近その役割についての研究が進み、土壌がいかに大事なものであるかについてますます認識されてきたことであります。現在地球には約14億立方キロメートルの途方もない数量の水があります。しかし、その97.5%海水で、あとは北極などにある氷が1.8 %で、さらに残ったものが地上と地中にある雲や水蒸気、そして川・湖に溜まっている水や森林の土が保持している水であります。生物の体の中にある水、地上の命が使える水は、このような形をしていて、実は0.01%しかありません。人間が、海で遭難したとき一番必要となるのは食糧ではなく実は水です。健康な人ならば、たとえ断食しても直射日光を避け、体温調整に心がけていれば、適当なミネラルを含む水を持っていさえすれば、1ケ月以上は生き続けられます。しかし、海水を直接飲むと1両日、一滴の水も飲まないでいるとわずか数日の命です。この貴重な水を地上で蒸発しないように、支えてくれているのが森林や畑の土壌なのです。森林や畑の土壌がなければ人間は海で遭難したときと同じようになります。土の第1の働きは、地上で乾燥から生物を守っているということであります。もし森林がなくなり、畑が保水機能をなくしたらその状態を砂漠化といい、人間はおろか植物や多くの微生物が命を繋ぐことが出来なくなります。ところで、雨の水はどう考えたらよいのでしょうか。雨の水は、海水や陸の水が蒸発したものが冷えて再び水に変わったもので、基本的には蒸留水であります。しかし、喉が乾いたときに、この雨水を一気に飲むと命にかかわります。蒸留水は電気を通しません。それは何故かといえば、ミネラル(無機塩類-カルシュウム、カリウム、ナトリュウム、など)を含んでいないからです。ミネラルを含んでいる水は、ミネラルウオーターといい、これこそが、命が必要とする水であります。実は、この水は土が作ります。土壌にはたくさんの小さな孔隙があり、団粒といわれる小さな固まりが無数に形成されております。その孔隙の約半分で、容積にして土壌の25%の水をつかまえておくことができます。つまり1立方メーターの土壌は250 リットルの水をつかまえることができます。また、1立方メーターの土壌は200 リットルの水を出し入れすることもできます。山野に降った雨が土壌につかまえられたときに、土壌の中の有用な成分(ミネラル)を溶かし込んでミネラルウォーターとしてすべての生物の栄養になります。土壌の中に住んでいる生物はこの水を使って団粒の中で、いろいろな生を営んでいます。したがって土壌の第2の働きは命の水を作り出しているということであります。
以上の二つだけでも、人間の命がいかに土壌に守られているかがお分かりでしょう。土壌は、幾100 万、幾1000万の微生物・小動物・植物・緑色植物が生を営む環境なのですから、土壌がなくなれば生物もなくなり、その延長である人間もなくなります。土壌が人間を養っていることは明らかです。土壌を手にとって調べてみますと、それは岩石・鉱石・植物の根、葉・小動物や微生物の死骸などがあることが分かります。これらの環境の上に幾100 万、幾1000万の生物が思い思いに生を営み、ある物は他の物を食べ、そして他のものはその他の物を食べという命のやり取りを無限に繰り返しながら、全体として自然の秩序を保っています。もし、土壌の生物たちが農薬とか化学肥料のやり過ぎとか、強い展圧などの人為、火山の爆発による溶岩や地震などの天災などで失われた場合、そこは風や大雨で流され荒涼たる不毛の地になります。手入れのよい畑は、畝間を歩くとブクブクする感じで、土が硬くならない、この下には大量に空気があるなという感じで、畝の下に空気があると、地下30センチ位根が伸びます。森林の中に入ると、踏み締める足は、土の感触として右とおなじことを私たちに伝えてくれます。森林の中を散歩すると、堅いコンクリートの上を散歩するのに比べて疲れが数倍違いますが、このことはみなさんが確かめられている真実であると思います。 森林を例にとってみますと、落ち葉や、落ち枝や朽ちた木は土の表面に生息している小動物によって細断され、その後微生物によって分解されて腐植というものに変わっていきます。堆肥化というのは、自然界において有機物が生物の作用によって次第に分解され腐植化することをいいますが、この自然の営みを真似して人間も堆肥を積極的に作って土にすきこみ、よい土をつくっていくことが求められています。化学肥料は、面倒な思いをして堆肥を作らないですみ、またその効き目が直接的でありますので、とても便利なものでありますが、これを連用すると畑が次第に堅くなり、作物は病気にかかりやすくなることが知られています。これを防ごうとして農薬を併用するわけですが、結局化学肥料と農薬を悪循環的に多用していくはめとなり大切な土地を不毛化するばかりでなく、収益性も次第に落ち込んでいきます。急がば回れと言います。健康な肉体には健康な精神が宿るとも言います。土を健康にすることこそ、結局は長続きし、経営の安定する農業の基礎であると言えましょう。

4.農業は地域循環-原料を自給することで持続

農村には、土づくりの材料となる、打ち捨てられていた有機物が存在しているものです。その例を少し考えてみたいと思います。
なお、森や林の生産する材木が土づくりにいいといって、森林を伐採するというようなことをやればそれは本末転倒というべきことであります。森や林はその土地の環境を保全するために大変大きな役割を果たしているばかりでなく、その土壌の作用を通じて貴重な飲み水を保全し、我々に提供してくれています。森林は、絶対に保全すべきものであります。土づくりの材料は、我々が廃棄物にしているものを中心に考えなければなりません。気がついたものから例をあげていきましょう。堆肥を作る原料は大きく分けて、木質(炭素が多いもの)系のものと、蛋白質(窒素分多いもの)系のものがあります。一般にこの二つが混じりあってよい堆肥ができます。まず、木質系から。ノコ屑、カンナ屑、樹皮。木材を使っている地域には必ず製材所があるはずであります。畑に残った農作物の屑。剪定した枝や、切り株、藁やもみ殻。廃材。木造の建造物を立て替えるとき、壊すときに排出する廃材は堆肥資源としては優秀なものであります。
牛・豚・鶏の糞、糠とかふすま。それらは直接畑に施してもそれなりに効果がありますが、大量に飼育している場所では、少し始末がやっかいなはずです。これをどのようにしたらよいかについては改めて考えてみたいと思います。
食品工場から排出するカスなど。みそ糟、あん糟、醤油糟、豆腐糟、ビール糟、酒糟などの糟類や、魚の缶詰工場や加工工場などから排出する有機性の汚泥など。家庭から排出する生ごみといわれているものも、立派な原料になります。また、人間の屎尿も実は大変貴重な資源であります日本では、下水処理場とか、し尿処理場がたいていの所にありますが、処理場の中に沈殿した固形分を乾燥したもの(下水スラッジ)が堆肥原料として使われ始めております。畜産の糞尿とか人間のし尿とか蛋白質系の資源は、臭いを発生しまたハエなどがたかるので、誰もがその取り扱いを嫌いますが、機械化などによって汚い思いをしないように上手に処理すれば、こんな貴重な資源であったかと改めて感謝したくなるはずであります。今から150 年ぐらい前の江戸時代から明治時代にかけて今の東京はその半分ぐらいは畑でありました。そこでよく作られていたものは、大根とか、キュウリ、カボチャ、ネギ、サトイモなどで、工芸作物としては桑も栽培されておりました。このような作物の肥料は江戸市民の下肥でありました。当時は、水洗トイレもなく市民のし尿は周辺の農民がお金を払って争って買いに出ていたのでした。それは山で落ち葉を掻き集めようにも、近くに山はなく、また日本人は当時は肉を食べなかったため畜産がなかったからでありました。このように、地域地域によって事情は少し違うのですが、農民たちは土づくりのために地域の条件に応じた努力をしてきたということがいえます。今、化学肥料や農薬、そして機械化など農業生産自体はずいぶん楽になったかのように思えますが、真面目に検討してみるとこれによって必ずしも経営が楽になったとはいえない、むしろ、コストが上ったり借金が増えたりというような矛盾に苦しむ人が多いのが、日本では現実であります。農業というのは、土壌から作物が養分を吸収していく過程を管理する技術に他なりませんから、同じ土地で永続して作物を育てようとすれば、作物の必要な栄養分を補給してやらなくてはなりません。昔は化学肥料などという便利なものがなかったので、農民は山に出かけていって落ち葉や、枯れ草や、枯れ枝などを集め、畑で残ったわらや、もみ殻や、ぬかとかふすま、茎とか蔓を、動物の糞や尿と混ぜて堆積し、発酵させて畑に入れておりました。このような物を堆肥というのですが、堆肥とは生物の凝まりと考えてよいかと思います。堆肥の中には、土の生物の栄養になる物質や生物たちが豊富に含まれていて、これを土の中に施すと生物たちの活動が活発になり、土が生きたものとなります。土は、ふっくらとした感じになり、地温も上り、冷害や、病害に強い畑になりました。 今日、化学肥料が出現して堆肥なんかなくても立派に作物は育ち、現実に日本でも堆肥を使わないで大規模に作物を生産している畑作地域はたくさんありますし、また水耕栽培とか土耕栽培とかいって、ハウスのなかで植物の根に栄養分と酸素を適切に与えることによって立派に作物を育てるということが可能になりました。極端に言えば、土がなくても作物は穫れるようになりました。こんなに技術が進んでいるから農業はもう畑の土に頼らなくてもいいではないかと思う人もなかにはいます。
堆肥の重要性を説くのは、近代技術を知らないもののいうことである、ということになりかねませんが、ちょっと待ってもらいたいと思います。それは間違いです。その理屈は、人間は金魚鉢で魚を飼うことができるようになったから、もう魚は川や海に頼る必要がないということと同じことです。畑ではなく、ハウスとかガラスの瓶のなかで、極く一部の種類の作物を、育てることができるようになったから、畑はもう要らないというのは、自然というものの奥底を理解できない人の皮相な考え方で供給あります。これと合い通じることですが、植物の栄養は解明できたし、その一つ一つを化学肥料として与えることができるから、もう堆肥は要らないと早合点することです。このような短絡に陥らないように、自分の周辺の土について、ひいては自然について関心を高め、自然に優しい農業を実践したいものであります。森林は自然に堆肥を作り土壌にしています。ですから堆肥の作り方は森林を観察すれば誰でも実行することができます。とはいえ、農民は趣味で堆肥を作るのではなく自分たちの経済のために作るのですから、経済的に作る方法を見つけなければなりません。
終わり

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