もちろん軍事力が使われた。軍事力は縄張りしあ植民地の人民に対するものと、植民地の争奪戦を行う国家間のもの、そして自国民に対する抑圧と三つに分かれる。近代国家国家が存立するためには、例外なく軍隊の力で植民地の確保をはかり、輸送路を確保する戦争を準備するという帝国主義の論理が所有された。この論理は、迷信や伝説をでっち上げ、怪しい曲を作ることによって人々をまじめにまともに道理と人倫に触れることを阻害することによって支えられた。これは真っ向から民主主義に反するものであった。日本では富国強兵という表現はよくそれを表している。しかし、世界が植民地解放闘争、世界大戦などの痛苦を通じ、人類社会に民主主義と法による支配という理念が成長してくると、この論理はまともに主張できないようになり、かりにそのような主張があれば世界から反対され、排斥されるようになった。今では勇ましい征服戦争とか領土拡張戦争とか生命線とか正面切って標榜することはできない。現代においては軍事力はすべて「自衛」とか最近では「抑止力」とかいうまやかしの概念で支えられることとなり、攻撃も言い訳が通るように遠慮がちに使用されるようになった。しかし、軍事の本質は昔と全く変わっておらず、資源とその加工先の市場を確保する目的が貫徹されている。
最近の戦争や紛争は例外なく石油や石炭、ウランなどの資源の争奪が絡む。現在進められている「戦争立法」は、平和でも安全でもなく、資源を略奪し、新しい形の植民地を作り出すための「あがき」である。この推進の強敵は民主主義である。民主主義はまず、物事を知ることから始まる。これはまずいから、先ずマスコミを眠らせる、人々の関心を本質からそらせ、道理と人倫に根ざす幅広い活動を警戒する。この時節、古くさい生命線論が再燃し、迎合する有力マスコミが油紙のごとくべらべらに延焼し、大火になろうとしている。しかし、これを鎮火させるのは、人々の冷静な、そして、道理を判別する力、そして無欲な働きそのものである。
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