尊王攘夷と公武合体の対立勢力、今で言えば、保守とリベラル?の対立よりもっと深刻な亀裂(新旧勢力の摩擦、及び新勢力内部の背比べ・・覇権争い)の深い政情の中で、大村は兵部太輔という地位を獲得し、実質的軍事大臣になりました。しかし、この仕事をしている最中、志半ばで攘夷派浪士のテロに遭ったわけでしょうね。
その後の明治政府の10年を見てみると、廃藩置県やら地租改正、征韓論やら台湾侵略やら、ご存じ熱い内戦(佐賀の乱、西南戦争)で対立抗争が多々あり、それに加えるに、不平等条約改正失敗、百姓一揆、打ちこわしの頻発し、さらにインフレとデフレの狂乱経済など内憂外患が続きます。そこで内政充実か、海外進出かなどの論争を経て、朝鮮にもちょっかいを出し、80年代には目を外にそらすための排他的な好戦国家に舵取りされていった?のでしょうか。これって、令和の今の情勢と少し被る感じもありましょうか?
大村がテロに倒れ、数か月後、切傷がもとで敗血症で死んだ時、「ばばちゃま」の父上、つまり大臣のお付きの若き武官のS士は大臣官房の職場を離れ、大臣の愛妾に届け物をする秘密任務?についていて大村が襲われた時は留守でした。
大村にとって世間に知らされたくない事実を前に、S士は「逃走」とか「裏切り」とかの恥辱に堪えて、公には口を閉ざしていたようです。
が、当局の糊塗にもかかわらず、子孫には墨書した紙で真実(妾のこと)を伝えています。その紙を発見したのが30年前、手に取って見た子孫が私の義理の小母のK女さん(S士の孫・・昨年鬼籍に)でした。彼女が言うには、読めるか読めないかの薄墨で書かれたものでこれを「ばばちゃま」に見せた?らしいのです。
「ばばちゃま」はそれを見て、司馬遼太郎に「S士は裏切ったり、逃げたりしなかったよ」と抗議の書状を送ったのでした。彼女が言うには、もう一つ傍証としては、大村益次郎の遺骸を萩市に搬送した時にS士が付き添っていた。もし裏切っていたのなら付き添うようなことはあるまい。さらにまた「ばばちゃま」の家の墓誌に「武庫司S士」(軍需物資の調達の公務員)と刻まれることはあるまいということでした。
大村益次郎死後は、薩長軍閥派が次第に国の主導権を握り日本は軍国主義国家に変貌していきました。以上は私がまた聴きの、さらにまた聴きの情報で勝手解釈の楽しみを満喫して書いたもので、検証を重ねるつもりはありません。いずれにせよ、何事にも裏面史があるのでしょうかね。ことの真偽はともかく、想像を交える歴史のエピソードは面白いですね。この項目、私に文責はごめんこうむります。
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