この抗議した祖母は、大村益次郎に付き添い明治維新に突き進む彼の身の回りの世話をした萩藩の下級侍(仮の名前をSにしておきます)で、大村の死後は新政府の下僚として実直に勤めました。
萩のS 家に最後に残された住人が祖母の「ばばちゃま」ー私の義理の祖母です。
その家には面白い史料と遺品があったようですが、私は手に取ったことは一度もありません。これらの史料や遺品は最近になって一番若い子孫の手で仕分けされ、その一部は我が家の屋根裏に留置されています。
ともあれ、S士の娘・・ 「ばばちゃま」によれば、1863年、幕末の内乱抗争中、大村益次郎が萩にやって来て20歳代の青年だったS士と関係が結びました。彼は長州征伐時では奇兵隊の一員だったとか。
1868年、逆転気味に維新政府が誕生し、自動的に大村のお付きを続けます。維新後は京大阪や東京にあり、常に大村に付き添い、大村暗殺後も東京に留まり、1878年ごろに萩の旧家に戻ります。旧家とは藩主から下賜された茶室?でした。1896年、何番目かの子女として「ばばちゃま」が誕生しました。旧家は萩城を取り巻く藩士屋敷街から離れた郊外にありました。S士の代々は、武道に優れ、その仕事向きは藩主等の護衛に当たっていたそうです。もしかしてS 士一族は代々諜報活動もしていたのかな?これも勝手な想像ですが。なお、この近所には今も下級武士の桂小五郎(木戸孝允)の旧宅があります。
司馬遼太郎に抗議した「ばばちゃま」は、若くして東京に学び、戦前までは東京で生活をし、太平洋戦争が激しくなってから萩に帰宅、定住します。しかし1980年亡くなるまで彼女の子孫(大勢)の大半が東京で住んでいましたから頻繁に上京し子孫の家を渡って元気「ばばちゃま」ぶりを発揮していました。
私の妻は彼女の子孫の一人というわけでしてね。ま、とにかく、私も若き日々にしばしば萩の「ばばちゃま」宅に行き、彼女の炉辺談話を訊いたり、萩や津和野を歩き回っておりました。父S士を巡る彼女のお話の中には、谷 干城、乃木希典(日露戦争の英雄)、久原房之助(日産の総帥)、鮎川儀介(満州の暴れ凧)、正力松太郎(読売新聞社主)等々との交流こぼれ話もありましたが、これをばらまくのは不本意なので止めておきましょう。
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