「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

予習不要論

2009-01-09 19:39:04 | 研修
10年以上昔の話だが、研究指導主事をされていた先生から「これからの時代は予習を前提にした授業ではだめだ」という話を聞いた。当時は、自分もそれに近い考え方をしていて、即興的なインタラクション以外に、外国語を本当の意味で学ぶことはできないと考えていた。

確かに、それでしか身に付かない力はあるだろうが、外国語力はそれだけではないことに今は気付いている。特に「読む」という行為は即時的ないわゆるオンラインなものだけでなく、オフラインでじっくり取り組んだり後から見えてきたりすることも重要だと思う。昔で言えば、stop to read ということになるだろうか。

しかも、学校での授業時間が極めて限られたものであるということを考えてみれば、本気で英語力をつけさせようというなら、自学力をいかに育むかが重要であることは明白なことだ。かくして、「実の詰まった予習をさせるべし」というのは、現在の私の信念である。

実は、先日のSELHi高のシンポジウムの中で、私がその場を離れた後に、「生徒に予習を課すべきか否か」という質問が会場から出たそうである。人伝えで聞いたことであるが、これに対して地元大学のT先生を除き、根岸先生を含めてすべてのパネリストが「予習は不要」と答えたそうだ。

このことについて、知り合いの先生方と話をする機会があり、絶対に予習を課すことは必要だという持論を述べた。ただし、予習は不要だとお考えの方と議論しようというつもりはない。納得のいく説明があれば耳を貸す用意はあるが、それを積極的に求めようとも思わない。

「予習が必要か不要か」という問題に対して今の自分の中で疑念がないからだ。うまくいっているものを直す必要はないし、うまくいっていないものは直す必要がある。それだけのこと。自分が目前の生徒を見て、「ひょっとしたら予習をさせずに授業をした方が、もっと力を伸ばせるのでは」などという思いは全く浮かばないということだ。

もし、他の誰かが「自分の生徒は予習をさせた時に比べ、予習をさせずに授業をしたときの方が力がついた。やはり予習は害悪だ」と言うのであれば、それはそれでいいのだと思う。要は、教育において一つの「真」があると考えるのはまずいのではないかということである。異なる指導者と異なる生徒がいる状況で(同じ指導者、同じ生徒でさえも時が経てば変わる)、いつでも通用する絶対的な法則があると考えるのは危険なのではないだろうか。

というわけで、パネリストの先生方を批判するのが趣旨ではない。真価が問われるのは、答えを聞いた会場の側がいかにそれを消化するかだと思うのである。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ