「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

メタ評価

2010-07-10 06:31:10 | その他
PTA進路講演会後のアンケートを集約・分析しおおむね好ましい評価をいただいたと判断。2、3は厳しい評価もあるが、私個人はそれで健全だと思う。数字を追えば教育の理想からは距離ができるしその逆も然り。いくらバランスをとってもどこがベストなのかは誰にも分からないのだから。

厳しいご指摘を真摯に受け止める姿勢を持つことは大切。だが、ごく少数の意見に過剰に反応することには危険な面もあるのではないかとも思う。学校運営が、より「ラウド」な意見に左右される可能性があるからだ。(このことは、職員会議についても同様だと考えている)

もちろん、いじめの問題のように「少数」の意見の中に、決定的に重要なものが存在する場合もある。だから、私たちが磨かなければならないのは「評価」を適正に評価する力なのだ。

矛盾するようだが、逆に多数派の見解が絶対に正しいとも限らない。例えば授業評価で「面白くない」、「つまらない」、「分からない」という評価を多く受けた授業は、常に「面白い」、「楽しい」、「よく分かる」という評価を多く受けた授業より「良くない」授業であると断言できるか。

教育はどちらかといえばアートやクラフトの世界に近くビジネスの論理で捉えるべきではないのではないか。教育を数字で評価することは、カンディンスキー、ルノワール、カラバッジョの絵を並べて、どれが一番「美しく」、「面白く」、「好ましい」かを決めることや、音楽において大衆から一番の支持をうける楽曲が最も高品質だと考えることの愚かさに似てはいないか。また、教員の成長を陶芸家の成長になぞらえるのはどうだろうか。教育の真の価値を知るのにconnoisseurは不要と言い切れるか。

もちろん「良い評価」を受けた授業が本当に良いものである可能性はある、と言うか、その可能性は高い。しかし、そのことを根拠に評価を吟味せず鵜呑みにすることが正当化されて良いとはとても思えない。量的評価は、必然的に教育に弊害をもたらすとまでは言うつもりはないが、質的評価の質を高めることの重要性をおざなりにすれば「評価」が教育にもたらすのは結局は混乱のみであろう。

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