不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

L'Abbazia di San Fruttuoso

2013-08-28 08:11:00 | インポート
船で海からアクセスするか、
最寄りの街から約1時間半の
トレッキングでアクセスする以外には
辿り着くことができない、
リグーリアの小さな入り江にある
L'Abbazia di San Fruttuoso(サン・フルットゥオーゾ修道院)。

ドーリア家(Famiglia Doria)の所有であったものの、
一時放置されていたこの修道院は
ドーリア・パンフィーリ家(Doria Pamphilj)から
1983年にFAI(イタリア環境基金)に寄付され、
その後、修復が行われて一般公開となっています。

ポルトフィーノ山の緑と、入り江の青という
自然の織りなす色彩の中に、
白く浮き上がるような建築物は
海からアクセスすると言葉を失うような美しさです。
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伝説では、スペインの司祭フルットゥオーゾは
その助祭二人とともに火にかけられて殉教しました。
そののち、アラブ人の侵略を受けたTerragonaから
司祭Prospero(プロスペロ)が
修道士をともなって逃亡する際、
フルットゥオーゾの遺灰をもっていた
若い修道士(Giustino)の夢にフルットゥオーゾが現れ、
彼に自分の遺体を安置する場所を示したと伝えられています。
その場所とは3つの特徴を持つところで
海岸沿いにある「凶暴なドラゴン」が棲息する
「洞窟」で、近くに「水源地」のある場所。
天使によって導かれた司祭と修道士たちが
この三つを満たす場所をリグーリアの海辺に見つけ
そこにいたドラゴンを天使が鎮め、
この地の水源の上に教会を建てたとされています。
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建築群の起源ははっきりしませんが、
800年代には初期の修道院の建設が始まっていたとされています。
上記の伝説のように
当時スペインのTerragonaの司祭だったプロスペロが
アラブ人の侵略から逃れてリグーリア地方に辿り着き
殉教者Fruttuosoの聖遺物を安置するために
この地に教会を建てたのが始まりといわれています。
現存する修道院の建築物の大半は10-11世紀の頃のもので
神聖ローマ帝国皇帝オットー1世の未亡人アデライデの命により
改築が行われています。
この改築で、水源地に該当する場所に
ビザンチン風の丸天井をもつ教会が建てられています。
13世紀からドーリア家の手が入り
より海に近い部分に開廊付きの修道院施設を設け、
彼らのこうした改築協力に感謝の意を表する形で
修道士たちは教会のクリプタ部分に
ドーリア家の墓を集めた部屋を作ることを認めています。
現在もこのドーリア家の墓は残っており、
1275年から1305年に亡くなった
同家のメンバー7名が眠っています。

1467年に最後の修道士が亡くなると
ベネディクト会は修道院から去り、
ドーリア家に関係する臨時修道士などが出入りしますが
そのころから修道院の衰退が始まります。
1915年に大洪水に見舞われ
教会の一部が崩壊し、
奔流によって運ばれてきた土石により
修道院前に小さな砂浜が形成されました。
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1933年にリグーリア州美術監督局による修復が行われ
洪水の被害を修復し、
改装されていた開廊の海側の三連窓を
オリジナルに戻したりしています。
1983年にイタリア環境基金に寄付されたあと
1985年から1989年に大掛かりな修復が行われました。

回廊部分は二層になっており、
下層部分のロマネスク様式の回廊は小さな庭園に面しています。
またこの回廊に面した一角に
前述の、白大理石とグレーの石を使った
二色作りの墓碑がならぶ、ドーリア家の墓もあります。
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上層部分は12世紀に増築されたもので
1500年代にAndrea Doria(アンドレア・ドーリア)の希望で
大幅に手が加えられています。
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修道院の建築物から少し離れたところに
大きな塔が建てられていて
急勾配の階段を使ってアクセスすることができます。
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修道士たちが日常的に利用していた
淡水の水源地と修道院自体を海賊の襲撃から護るために
1562年にドーリア家によって建てられたものです。
この塔の、海に向かった二面には
鷲印のドーリア家の大きな紋章がつけられています。

ラパッロ、ラ・スペーツィア、
サンタ・マルゲリータ・リグーレから毎日船が運航されています。
ポルトフィーノからは約30分、
サンタ・マルゲリータ・リグーレからはポルトフィーノ経由で約45分。

L'Abbazia di San Fruttuoso
San Fruttuoso (Camogli)
開館時間:平日
     1月・2月・3月・10月・11月・12月 10:00ー15:45
     4月・5月・9月後半 10:00ー16:45
     6月・7月・8月・9月前半 10:00ー17:45
     土日
     1月・2月・3月・10月・11月・12月 10:00ー15:45
     4月・9月後半 10:00ー16:45
     5月・6月・7月・8月・9月前半 10:00ー17:45
休館日:12月25日
入場料:5ユーロ(特別展開催中は7,5ユーロ)
インフォメーション:http://www.sanfruttuoso.eu
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Tra la mente e il cuore 11.11.2012

2012-11-11 19:03:57 | インポート
ずっとさぼってきた。
それはよくない。
ということで、思い立ったので、また書き始めることにした。
ただそれだけです。

日々感じることを綴っていた、
数年前のブログのように、
ちゃんと自分の見たもの、感じたこと、
考えたことを記しておこうと。

吉川さんのMind Trip(マイトリ)ではないけれど、
自分の脳みそと心の中を旅する感じで。

「象は一度見た景色を忘れない」という一説に
心が引っかかりちょっと調べてみた。

象のなかには50-60年と長生きするものもいて
砂漠の中、ジャングルの中の同じ道を
何十年もきちんと忘れることなく歩き続けるとか。
私もきっといつかフィレンツェを離れてしまっても
自分が通い続けた道は
間違いなく歩いていけるような気もするけれど、
やってみなくちゃわからないしなぁ。

色々調べていたらこんな記事も見つけました。
こちら
年老いたメスの象の記憶が
群れを干ばつから救ったという仮説。


人間は忘れることができる動物だから
色んなことを忘れていって、損することもあれば、
忘れることによって救われていることもある。

痛みの記憶は忘れてしまうべきなのかどうか。
痛みをずっと心や身体が覚えていたら
人間だって10年も生きたら
多分日常生活は送れなくなってしまう。
痛みに押しつぶされちゃうもの、きっと。
そういう意味では忘れることも大事なんだろう。

でも、忘れてはいけない傷もある。
そこから学ぶことが多い場合、
そして継承していくべき知恵を生む可能性が高い場合。

11月11日に日本で行われた
大規模な「反原発デモ集会」に呼応するかたちで
ちょうど10年ぶりに
フィレンツェで開催されていたソーシャル・フォーラム
Firenze 10+10のプログラムの中に
急遽組み込んでもらった
フィレンツェ在住日本人による「反原発」の訴え。
金曜日には
福島・信夫山のユズの話をもとにした
ユズノミルユメの紙芝居上演(イタリア語)、
土曜日には
福島の僧侶が書いた詩の朗読(イタリア語/英語)。
それぞれ参加させてもらいました。
私にできるささやかなことだから。

もちろん直近で決まったことでもあったし
宣伝不足だったし、
こちらにも反省点は色々あるけれど、
在住日本人で
「興味はあります」「賛同します」という声が多かったわりに
実際行動に移して、集会に顔を出した人は10名ほど。
こういう政治的運動に好感を持たないのが日本人なので、
仕方ないと思っていたし、ある程度想像はしていたけれどね。
少々がっかりしたのも事実です。
Firenze 10+10は国際的なソーシャル・フォーラムで
世界的に訴えかけるせっかくのチャンスだったのに
うまく活用できなかったのが心残り。

福島の悲劇を、
東北の悲劇を忘れかけている人も多いでしょう。
まだなにも終わってないし、なにも解決していない。
まだまだできることもたくさんあるし、
やらなくちゃいけない。

象のように忘れずに伝え続けて
次に同じことが起きた時に
干ばつから群れを救ったメス象のように
自分の仲間を救える人になるか、
人間らしく嫌なことは忘れてしまうか。

私はせめて前者でありたい。
政治的に大きく訴えることだけではなく
静かに訴え続けることは、一個人でもきっとできるはず。
そのために私はユズノミルユメを書いたのだから。



Michelangelo e l'imbroglio

2011-10-18 00:00:00 | インポート
1496年、まだ若きミケランジェロは
メディチ家のLorenzo di Pier Francesco
(ロレンツォ・ディ・ピエル・フランチェスコ・ディ・メディチ)の
口車に乗ってちょっとした詐欺事件を起こします。
自分で制作したキューピッドの大理石彫刻を
地中に埋めて
アンティーク風の風合いを出せば
アンティーク市で高値で売れるとロレンツォに唆され
ローマのアンティーク市で実際にアンティークとして販売したのです。
この偽物アンティークを購入したのが
Raffaele Riario(ラッファエレ・リアリオ枢機卿)でした。
美術蒐集家でもあった枢機卿は
やがて購入した作品が偽物であることに気づき
自分の信頼する人物である
銀行家のJacopo Galli(ヤコポ・ガッリ)をトスカーナに送り、
作品の代金を返金させることにしましたが
リアリオ枢機卿は若きミケランジェロの作品をみて
その才能を確信したこともあり、
自分の手元に呼びたいとも考えました。
代金返金とミケランジェロの採用を言いつかったガッリは
フィレンツェを訪れ、
ミケランジェロを伴ってローマに戻ります。

こうした経緯でミケランジェロはフィレンツェをあとにして
ローマへ向かうことになったのです。

ガッリ自身も美術蒐集家でもあり、
若きミケランジェロをとても可愛がり、
ローマでは自分の邸宅に住まわせていました。
このガッリの邸宅で、
枢機卿からの依頼である
Bacco con Satiro
(バッカスとサテュロス)を制作しています。

リアリオ枢機卿とガッリは
ローマで
ミケランジェロのマネージャーのような役割を果たし
彼らのおかげでミケランジェロは
フランス人の枢機卿
Jean de Bilheres Lagraulasに出会い、
Pieta' vaticana(ヴァチカンのピエタ)の
注文を見事手に入れたのです。
ガッリはミケランジェロの後見人として
1498年の枢機卿ラグラウルスとミケランジェロの
契約締結にも同席しています。

これまでもミケランジェロとガッリの
仕事および友情で結ばれた二人の関係は
歴史的な文書で証明がされてきましたが
数週間前に改めて別の文書も見つかっています。

ローマの国立古文書館で見つかったのは
みっちりと書き込まれた公正証書で
1498年の9月7日の日付が打たれています。
4つ折にされた文書は損傷が激しく
卵白を混ぜたインクで書かれた文字は薄れているものの
辛うじてミケランジェロとガッリの名前を
読み取ることができるそうです。

この書類によると
証書作成時に
ミケランジェロは未だガッリの邸宅に住んでおり
彼ともう一人の証人の元で
不動産の売買契約を結ぶところだったようです。


イタリアにはまだまだこのような隠された重要文書が
数多く残されているのです。


Mostra a Cuculia

2011-10-07 23:20:00 | インポート
私の友人の個展のオープニング。

彼女の作品の大ファンでもあるので
いそいそ出かけてきました。
思ったよりも仕事が押したので、
仕事場から直接向かう途中、
橋の上からのアルノ川の眺め。
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ちょうど橋の上でであった会場に向かう別の友人に
なんかいつもと違うと言われて気づいた
St.Regisホテルの輝き具合。
何か特別なことでもあったのでしょうか、
というくらい過剰に光ってます。

個展の会場はこれまた私の大好きなCuculia。
本当ならレイラも連れて行く予定だったのに、残念。
カフェの入り口に手書きのこんな素朴な案内が。
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Cuculiaにも随分久しぶりに足を踏み入れたので
せっかくだからと思って
Aperitivoをいただきました。
パイナップルのノンアルコールカクテルと
ワンプレートの食事。
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パルミジャーノリゾットと
オムレツがめちゃくちゃおいしかった。
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久しぶりに行ったCuculiaは
中途半端だった中庭のスペースが綺麗に手入れされて
こんないい雰囲気に仕上がってました。
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展覧会は11月3日まで。
時間のある方は
是非可愛い作品たちに会いにいってください。
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Anello con la forma di chihuahua

2011-02-06 00:28:58 | インポート

Anello con la forma di chihuahua
先月半ばに遊びにきていた友人の
お気に入りのお店にくっついて行き、
たまたま見つけたごっつい指輪。

その時はシルバーがなかったので、オーダーしておいた。
10日くらいでできると言ってたので、
今日レイラを連れて寄ってみた。

フォームはできていたけど、
瞳が入ってなかったので、
悩んだけどグリーンの石を入れてもらって夕方引き取りに。

本当ならピンシャーにして欲しかったけど、
チワワの方が丸みがあって指輪にはいいのかも??
まぁ、似てるし。

ごっついので、この指輪はめたら手袋ははめられない。
これつけてスーパーに買い物行ったら、
袋詰めする時に結構引っかかって邪魔だったけど。

でもキーボード打つときは
見ながらなんかニコニコしちゃう。

ただの自己満足だけど、
とても可愛いので、すっかり気に入りました。
もちろんビリーって名付けたよ。