不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

劣化する語学力

2020-08-06 12:59:54 | Tra la mente e il cuore

なんてことはない、放置しすぎたので、書いてみようかなと思っただけ。

今朝、通勤の途中で、
三島駅新幹線のチケット売り場を横切ったのだけれど、
その時視線の端に、
何か呪文のように唱えているおじさんの姿。

よく見ると、かなりご高齢なユニフォーム姿の駅員さん。
もしかしたら正社員さんではないかもしれない、おじさん。
胸の高さくらいのところで律儀に両手で小さな冊子をもち
それを一生懸命音読しているようで。

後ろを通り過ぎるときに聞こえてきたのは、
ぶつぶつと繰り返す英語のフレーズ。

外国のお客様の利用も増えてきていた三島駅。
勤務する以上はちょっとした英語でのコミュニケーションが必要だったので
会社から支給されたのか、もしくはご自分で作ったのか、
駅で必要な簡単英会話のリストを用意しているのでしょう。

Covid-19の影響で利用客がぐっと減り、
ましてや外国のお客様など、ほとんど姿を見かけないここ数ヶ月の三島駅。
それでも漫然と朝の勤務時間を過ごすのではなく、
時間ができたらさっと冊子をとり出して
自分でスキルアップの努力をしているのかなと。

その姿に、
己も死ぬまで貪欲に学び続けなくてはいけないなと心を新たに。
とりわけ語学というのは、
一朝一夕でどうにかなるものではなく、
たとえ使う機会がなかったとしても
日々ブラッシュアップしていかなくちゃいけないものなんだから。

とは言いつつも、
私のイタリア語力は日に日に劣化していっている。
もともと、イタリア語で自分が理解したものを
誰かに日本語で伝えることがとても苦手で
あぁ、同時通訳は絶対できないと思って諦めているけれど、
歳を重ねて、イタリアを離れて
ますます日本語への置き換え作業が苦手になっている。
努力が足りないってことに尽きるわけですが。

相手のあるコミュニケーションの中では
想定外の展開にもなるし、
決まり文句じゃ凌げない場面のほうが圧倒的に多いので、
語学って使えるフレーズを丸暗記しただけじゃ意味がないという方も
たくさんいらっしゃいますが、
なにもしないよりはずっといいわけで。
そういう、誰かのために何とかしたいという気持ちこそが、
実は語学の域を超えて、
相手に伝える原動力になったりするわけで。
伝えたいことがあること、
伝えようという気持ちがあること。
文法よりも語彙数よりも、それがとても大切だと私は思っている。

だから、
駅員さんの今朝の努力が報われる日が来ようが来るまいが
その時間は決して無駄になることはないよね。


La pace non deve dipendere dalle armi

2015-09-17 14:48:16 | Tra la mente e il cuore

憂うことが多い日々です。
またもやまとまらないまま、
ぱらぱらと思うところを綴っておきます。

タイトルの通り、
平和は武器をもってして築けるものではないと考えているので、
どんなに正当そうな説明をくっつけられても、
やはり他人の戦争に加担するような法案には反対だし、
戦争が起こる前の調整役を
進んで買って出るような国であってほしいと今でも思ってます。

昨日の私のつぶやき
私が安保法案に反対するのは、それが違憲だからということよりも、民主主義が機能していないからということよりも、なにより、世界が日本に望み、これまで評価してきた平和主義が一瞬の過ちで崩壊してしまいかねないから。世界が日本に求めているものを現政権は見誤っているよね。」に対して、
私とは反対の立場なんだろうなと思う方から提言をいただき、
その方からこんなリンクをいただきました。
世界が日本の転換をどのように「評価」しているかという内容。
ここでいう「極めて限定的な集団的自衛権」の幅が
それぞれに異なるであろうというのは
考えなくてもわかることですし、
隣国が危機感(もしくは嫌悪感)を抱いている、
その根本の理由も理解できる気がします。
私は自分の身の周りの友人たちが
日本の憲法9条についてどう考えているかを元に
「世界は日本のこれまでの立ち位置を評価している」と判断しているわけで
このリンク先の情報が偽情報だとは思わないけれど、
それがすべてだとも思ってはいません。

この法案が成立してしまうことで、
なし崩し的に憲法9条が壊れてしまうのが一番悲しいと思っているから
上のつぶやきに繋がったんだけれど、
昨日からの参議院での出来事を見ていて、
民主主義が機能していないことも同等に憂うべきことだったなぁと
今更ながら自己反省。

廃案にするために、時間稼ぎと言われても
なりふり構わず、
色んなことをやってくれている野党の皆さんには感謝もするけれど、
でも、やり方がスマートじゃないと思うこともたくさんあったし、
国会議員の皆さんが晒してくれた醜態って
憲法9条が掲げる崇高な精神に対して、
レベルが格段に違いすぎるじゃないかと
画面のこちら側でぼんやり思っております。
彼らがなんのためになにを争っているのかさえ、わからなくなりそうです。

世の中には自分と異なる意見の人もたくさんいるけれど、
そのすべての意見の根拠はそれぞれにあるのだろうし、
反対意見だからといって最初から撥ね付けていたら
見えるはずのものも見えないし、解決するはずのものも解決しない。
国会のやり取りをみていると
それぞれの理論の押しつけでしかないから
なんかこう、みているだけでこちらまで疲弊するんじゃないでしょうかね。

なんて思っているところに流れてきたことば。
All'uomo irrazionale interessa solamente avere ragione.
All'uomo razionale interessa imparare.
Karl Popper-
まさしく。

Twitter上で少しだけ言葉を交わした先述の方が
賛成、反対両派とも『戦争反対』だと思います。
賛成派は侵略される戦争回避、
反対派は海外派兵される戦争回避を訴えていると思います。
だからこそ誹謗中傷じゃ無く自分と違う意見も聞きたいのですが
」と仰っていて、
そうなんだよねって思えただけ、
その方と関わることができてよかったなぁって。
たとえ反対の意見をもっていてもお互いに学ぶところはきっとあるんだもの。


Una scelta che non condivido

2014-11-12 09:13:54 | Tra la mente e il cuore
自宅から一番近い市内の某観光施設に
長年まったく愛着が持てない。
こちらに帰ってきてから
意識的に好意を持とうと要らぬ努力もしてみるけれど、
全然効果なし。

その理由は、
ある意味とても日本らしいと思える、
頓着のない文化の融合を
そこにみているからだと思っていた。
ポリネシアと中華が同居でき、
温泉文化も入り込める
不思議な空間の統一性のなさが
私には合わないんだと思っていた。

多分それも一要因。
しかし、
今朝、決定的に嫌いになった理由に思い当たった。
それは敷地内の植物への敬意の低さなんだよ。

今年の初夏、
花の終わったばかりの桜の木を数本切り倒した。
初秋にはたわわに実をつけている旬の盛りに、
フェイジョアの枝を打ち落とした。
そして、
今朝散歩の帰りに通りかかったら、
敷地の端に「非常用発電&貯水槽をつくる」ために植栽を破壊していた。

無駄に広い駐車場のどこでも掘り返して
貯水槽なんかいくらだって造れるのに、
わざわざ植物を刈り
桜を根ごと移し替え
土を掘り返して「そこに」造るまでの必要性ってあったのか。

観光施設内の植物なので、
所有者の自由にしていただいて
もちろん構わないけれど、
私は根本的に木を切り倒す行為は
蛮行だと思ってるので、
こういう行為を選択できるということに
嫌悪感を抱いたということ。

植物だって命のあるもの、
その植物の周辺に長年築き上げられていたはずの
小さな生態系サイクルを
無闇に壊していいとは思わないの。

たとえその小さな生態系の始まりが
人間の思いつきによる植樹だったとしても、
だからって再び人間の都合で壊していいとも思わないの。

観光施設の温室で守られている
商品としての熱帯植物の価値と
雨風に晒されている植物の価値って
同じだと思うんだけどね、私は。


Il senso della vita

2014-11-10 13:08:38 | Tra la mente e il cuore
頭の中が整理されてません。ぐだぐだ書いてます。

イタリア暮らしを捨ててまで、
レイラとチッチーノに長旅させてまで
日本に完全帰国したのは、父のことが気がかりだったから。

父はレイラを一目見た時から溺愛し、
レイラとチッチーノのために色々気を遣い
日々面倒をみて暮らし、
帰国から一年を経て
レイラとの毎日の散歩の成果もあって
すっかり体力を取り戻し元気になっていた。
そんな元気になった父の姿を見て、
実は単身再びイタリアに戻ろうかなと思い
色々根回しを始めた矢先。

10月20日に父が倒れ、
意識不明のまま救急車で搬送された。

2日間意識が戻らないまま過ぎ、
医師からは、そのまま意識が戻らないか、
意識が戻っても障害が残るとまで言われ、
内蔵器官もかなりのダメージを受けているので、
心臓バイパス手術や人工透析の覚悟もといわれた。

ほとんどすべての内蔵機能が低下しているにも関わらず、
様々な検査で癌も動脈瘤も血栓もなにも見つからず、
原因不明のまま経過観察。

身体中に管をつけられてベッドに固定され
酸素マスクをつけた父の姿を見ても
私はずっと父はまた元気になると信じていた。
それこそ、あの状況では
医学的にまったく根拠のない自信でしかなかった。
逆に、信じるほか何もできなかった。

延命処置についての家族の見解を質されたとき、
常々私自身が延命処置をしてほしくないと思っているから
当然のように父も延命処置はしたくないだろうと
本人が望まないであろうことはしたくないと考えた。
母の意見を聞こうと
彼女を振り返って、気丈な母の呆然とする姿を初めて見た。

その時、
同じ人物に対して互いに形の違う愛情を持っていたとしても
娘から見た父と、妻から見た夫という
そのスタンスの違いは明らかなんだと初めて気づいた。
呆然とする母に向かって
私は訥々と、
延命処置をしてまで父に生きてほしいのかどうかなどという
母にとっては辛い決断を求めなくてはならなかった。
結局我々は弟夫婦も含め
最悪の事態になった時には延命処置はとらないと
気持ちをまとめて、医師に伝え
それ以外にできる限りの処方をお願いすることになった。

倒れてから2日後、父は呼びかけに反応するようになり、
やがて奇跡的に意識を取り戻し
口に挿入された管で苦しみながら声を発し
自分の状態を把握できるまでになった。

結局、意識障害の直接の原因は低血糖。
医師も初めて経験したというくらい、
あり得ない血糖値の数値だったらしい。
一時的とはいえ、そこまでの低血糖に陥ったこと、
その血糖値の低さで生命を維持していたことが
かなり珍しい症例だったらしい。
ただし、その低血糖を招いた原因は
どんなに検査を重ねても判明せず、
そうこうしているうちに
衰えていた内蔵機能は徐々に回復し、
最終的にウィルスに因る一過性の膵臓疾患ということで
一応は収まったけれど、
やはり二年前と同じように
「原因不明」な部分が多く残されたまま。

3週間のICUでの入院生活を終えた父は
11月8日に退院して
自宅でのリハビリと通院で様子をみることに。

自宅に帰ってきたことで
父は気持ち的に楽になっただろうと思う。
まず、レイラの近くにいることが
今の父にとっては一番の特効薬だというのもあるし。
でも、入院中に落ちた体力と体重が元に戻るまでには
相当な時間と努力が必要だというのは明らかだし、
近くでみている私には辛い現実でもある。

父は完全復活はできない。
本人も昏睡状態にあった2日間のことは
まったく思い出せないというくらいで
その失った記憶はきっと戻らないだろうし
入院生活中に落ちた体力も決して倒れる前と同等にはならない。
ただ、今の父が戻せる限りのレベルまでしか戻らない。
それを見守るしかないと思っているし、
レイラと散歩にまた行けるようにって
一人でこっそりリハビリしている父の
生きようという意志に賭けるしかない。


父が倒れたことはあまり多くの人に伝えていなかったので
これを読んで初めて知る人も多いんだけれど。
父が望まなかっただろうし
私も望まなかったから。

事実を伝えたほんの少しの人たちからの様々なメッセージ。
それぞれの立場をわきまえて、
色んな形で寄り添ってくれたり、見守ってくれたり。
心からありがとう。

こんな状況だから、
自分にとって本当に大切なものが見えたりもする。
ずっと大切だと思っていたものが
実はそんなに大切じゃなかったり、
心に響くこと、響かないことが明確になったり。

そしてなにより、自分は無力だってことを教えられた気がするな。

書き続けるとずっと続きそうだからリセットしよう、リセット。

La prima neve sul Monte Fuji

2014-10-16 08:01:02 | Tra la mente e il cuore
実は静岡側は昨日15日にもうっすら雪化粧してたようですが、
甲府にある山梨気象台で目視できなかったようで。
今朝、両県の気象台で目視確認ができたので、2014-2015シーズン初冠雪。

すっかり冷え込んできたね。


最寄り駅から。


会社の階段踊り場から。


富士山上空、ヘリコプターからの映像
(LINK:静岡新聞ニュース)