CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

三木市 高木墓地内 一柳直明の墓碑 on 2022-9-3

2022年09月12日 04時45分01秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年9月3日、三木市高木墓地の南側奥にある一柳直明の墓を墓参したので紹介します。

一柳直明(1851-1897)は旗本一柳家の十六代当主で高木藩5,250石の当主です。

城は無く、豊城根神社付近に陣屋があった。

元和7年(1621)以来、幕府の支配地となった三木郡内に寛文5年(1665)に領地没収された

西条藩の復活が許された第7代の一柳直増が元禄16年(1703)10月、三木の15ケ村(高木村、

東這田村、西這田村、花尻村、上石野村、中石野村、下石野村、跡部村、吉田村、安福田村、

井上村、上村、上和田村、四合谷村、興治新田)5,250石を領して高木藩を成立させた。

以降、9代を経て一柳直明の時に明治を迎えた。直明は明治3年(1870)領土を奉還したが

高木陣屋内にあった豊城根神社だけが残った。

直明の子、一柳慎(まこと)は廃藩後、、県会議員となり三木金物の隆盛に力を尽くしたが

明治36年(2003)に北海道旭川に移住した後、三木とは疎遠になった。

一柳家の系譜について『三木の人物史』三木市観光協会刊より引用紹介します。

高木陣屋は一柳氏の陣屋として、初代一柳直増から続いた高木藩の陣屋である。
 天正の三木合戦の際に浅野長政とともに二位谷の奥に付城を構えた一柳直末は、その後の数々の合戦でも戦功を挙げ、その賞として岐阜大垣城主となった。
 が、天正十八年(1590)の山中常の合戦で直末が討死した為、弟の直盛が継ぐことになった。その直盛には三人の男子があり、長子の直重が伊予西条三万石の藩主、二男の直家が播磨小野二万八千六百石の藩主、そして三男の直頼が伊予小松一万石の藩主となり、ここに三つの一柳藩が成立したのである。
 後に西条藩の直興が幕府に対し不興を買うこととなり、領地没収となってしまう。そして貞享三年(1686)に加賀で病死してしまったことで、西条藩は天領となり取り潰しとなった。やがて本家西条藩の建て直しが幕府に認められるが、すでに天領となった西条の地は復興することはできず、かわりに播磨三木の地、五千二百五十石が与えられたことになった。初代直増から明治三年の版籍奉還の時まで当地は一柳氏の支配する地として続いていった。
 
前置きが長くなりました。本題の一柳直明の墓碑に話題を戻します。
上の写真の中央が一柳直明の墓碑です。 撮影:2022-9-3

墓碑には妙法威徳院殿直明豪智日俊大居士(正面の戒名)

 側面に明治三十年九月二十九日卒 高木村他十四ケ村領主 十六代 一柳 直明 

 享年四十六才と刻まれています。

墓碑は昭和27年(1952)3月、18代一柳直通が千葉食糧事務所加工課長を退いた退職金を

元手に石工の大貫梅吉に依頼して建立されたそうです。

上の写真は一柳直明の墓碑の角柱の上部の笠部と宝珠のアップで一柳氏の「二重釘貫」の紋が

くっきりと刻まれています。

 

上の写真は一柳播磨守越智直方室の墓碑で戒名の真如院殿妙境旦馨大姉

明治10年(1877)没 享年61歳

上の写真は一柳播磨守越智直方室の墓碑の左手にある墓碑

明治16年9月5日 戒名は解読できなかったが大姉とついているので女性

上の写真は一柳直明の墓碑の右手の墓碑 こちらも詳細解読できず。女性の墓である。

上の写真は裏側からみた4つの墓碑

上の写真は4つの墓がる茂みの遠景 隙間から一柳直明の墓碑が見えています。

高木墓地の住所は三木市別所町高木

上の写真は高木墓地の位置と高木陣屋跡の豊城根神社の位置を地図上に示した

出典:三木の石造品Ⅲ-別所地区編- 令和3年(2021)9月 三木市教育委員会Page57

 

四国の一柳陣屋について下記サイトで紹介されています。

 一柳氏の陣屋跡を訪ねて - 紀行歴史遊学 (typepad.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする