チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ヴィルヘルム・バックハウス来日、「日本の印象」(1954)

2013-11-12 21:22:09 | 来日した演奏家

ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus, 1884-1969)は一度だけ、1954年4月に来日しています。
『藝術新潮』昭和29年6月号にバックハウス自身による「ニッポンの印象」が掲載されていました。京極高鋭【きょうごくたかとし、1900-1974】訳。
これを読んだらバックハウスがより身近な存在に感じられるようになりました。

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私は、3月30日夜、ニューヨークのカーネギー・ホールでの、32年ぶりの独奏会をすませて、PAA機での4月5日の午前11時羽田に着いた。今回の訪日は私の妻アルマも同行した。

羽田に着くと可愛らしい少女に花束を贈られたのは印象深い。私共は有名な日本の桜を見ることを期待していたが、不幸にして、羽田から帝国ホテル迄の道筋には、僅かに芝公園の中に二、三本の満開の桜を見ただけであった。私の日本に着いた翌日は相当な大雨の日であったが、今明日の中に、桜を見ないと散ってしまうと云う忠告をうけたので、雨中を、自動車で、九段の靖国神社、弁慶橋、青山墓地等の美しい桜を観賞した。

私の最初の独奏会は、4月9日か午後6時半から、公会堂で催された。演奏会の始まる午後6時半と云うことは、私にとって驚くべき早さである。欧米の音楽会が大体、夜8時に開始される習慣であるのに、何と、早く始まることであろうか。もっとも、イタリアや南米のように、夜の9時半に音楽会が始まる国もある。世界の国々は、かくも習慣が異なるものであろうか?東京の公会堂に備えられている米国製のスタインウェイ・ピアノは、素晴らしく良いピアノであった。私は習慣に従って、このピアノの番号を記録しておいた。この夜の曲目は、バッハ、ブラームス、ショパンであった。演奏が終わって、可愛らしい少女が花束を持って、ステージに現れた。ステージに飾られた本物の大きな桜の花のついた枝と共に、好印象を与えられた。欧米では女流の音楽家の他には、ほとんど花束を贈られることはないので、私にとって初めての経験であった。

この私の第1回の独奏会のあった夜、ホテルに帰って、夕食中、京極高鋭君(私の古い友人で、今回の訪日中私の世話をしてくれている)が「地震だ」と云ったが、私達夫婦は、全く何も感じなかった。日本人は、地震には非常に神経質なようだ。しかし、この夜、就寝中の私達は、突然の地震に驚いて起こされた。私達は日本において、得難い経験を味わうことができた。

私の第一回の地方の演奏会のために、4月15日の昼、「はと」という特別急行で東京を出発した。日本の展望車は、なかなか気持ちがよい。車窓から見える熱海の海岸、またこの日は素晴らしくよい天気で楽しみにしている富士山が、美しい姿を現している。緑の中の黄色い菜の花、白い大根の花も印象的だ。そして、山の中腹まで開墾されて、田畑になっているのも私達には面白かった。今は、旅行のシーズンで、停車した駅はいずれも混雑していた。私にとって特に印象的なのは、日本の婦人が背中に子供を背負って、運んでいることであった。

この特別急行の食堂車のグリルド・チキンは、不幸にして私の分だけが生であったので、焼き直してもらった。夜、八時半に、日本の第二の都会である大阪に着いて、新大阪のホテルに入った。立派なホテルであったが、グリル食堂の趣味は、ひどくアメリカナイズされていた。大阪での演奏会は、4月16、17日の二日であった。宝塚劇場において、私は、日本製のコンサート・グランド・ピアノを使用した。この日本製のピアノも、仲々よいピアノであった。しかし何と云っても高音部が、欧米の第一流のピアノに比較して差があるようだ

大阪の滞在中私達は、大阪城を見物したが、あのように大きな石が、トラクターのない時代に如何にして、搬ばれたか想像が出来ない。造幣廠の八重桜は、満開で私の妻を喜ばせた。大阪市内には、二千人を容れる演奏会場はないそうで、海外からの音楽家は、皆宝塚劇場を用いるそうである。この会場はホテルから、自動車で一時間余りもかかって不便であった。

↑ 大阪城の古い大砲とバックハウス

大阪の演奏会をすませた翌日の4月18日は、雨であったが、午前中、大阪を出発して、まず自動車で法隆寺に向かった。日本最古にして、大部分完全に今日まで残されているこの寺が、私等を喜ばせたことは云うまでもない。そうして、私達は奈良市へ入って鹿の公園、大仏寺を見た。ただ雨であったことが、如何にも残念であった。奈良ホテルで昼食をすませて、春日神社の奥山廻りをした。神社の所有物であったため、千年も斧が加えられていないので、全く原始林の姿であった。この春日山の上で、自動車がぬかるみに入ってしまったため、上りの坂道で、車輪が空回転をはじめて、一時はどうなることかと心配した(この、雨中の山の上で、人も自動車も通らない所なので)が、運転手最後の努力で、幸い坂を上ることが出来、一路京都へ向かい、都ホテルに入ることが出来てホッとした。

翌日は、快晴の天気だった。妻が写真を撮りたいと云うので、午前中、清水寺へ行った。この清水の高台から、京都市の三分の二が展望できた。「錦の布」で出来ている、災害を避けることが出来るマスコットというのを売っていた。これをもっていれば昨日の様な事件は、避けられたのであっただろうか!!

次に、三十三間堂に廻った。一千の観音に囲まれた千手観音があったが、この裏側の、空気の入った大きなバッグを持った風の神の彫刻には、興味をひかれた。摩候羅王と云う琵琶を持った像は音楽の神らしいので、日本人の真似をして、若干の金を献呈した。大阪と京都の演奏旅行をすませて私達は帰京した。この旅で私は、「アリガトウ」という日本語を覚えた。この言葉は、大変便利な言葉である。"Thank you"が「アリガトウ」なら「"Thank you very much"はなんと云うのか」と聞いてみたら「アリガトウ」でよいのだそうだ。この後、4月21日に、宮中に招かれて、宮廷に今日なお保存されている雅楽の「越天楽」「陪蘆」と、舞楽の「春寧花」を観賞する機会を与えられた。いずれも「ハーモニー」は、私にとって、親しみの薄いものではあったが、古い日本を偲ぶには充分であった。

次に、私には、日本の皇后陛下に、私の演奏を聞いて頂く機会が与えられた。私は「月光の曲」と、バッハ、ブラームス、シューベルト、ショパンの数曲を演奏した。皇后陛下は、その年齢よりも若く見え、可愛らしい方であった。曲目が終わって皇后様の拍手に応えて私は、ショパンの嬰ヘ長調の夜想曲と「子犬のワルツ」を礼奏した。終わって、皇后陛下は、私達夫妻に面会の機会を与えられ、今日演奏された曲目は、自分が弾いたことのある曲と、また長年親しみを持っていた曲だったので非常に興味深く観賞することが出来たと云う親しい言葉を頂いた。そうして、今日の記念として、日本の人形を私達に与えられた。これが終わってから、私達は、往復とも飛行機で、福岡の演奏会に四日間の旅に出た。幸い天気にも恵まれて、飛行機の旅はよかったが、福岡のホテルは、昼も夜も、交通機関の騒音で休むことができなかった。日本人は、どうも音に対しては、あまり神経質でないように感じられる。

福岡から帰った翌日、日本の「能楽」を観賞した。牛込矢来の観世喜之氏の舞台で、「大原御幸」と「正尊」を観た。シテが、橋がかりから、舞台に出て来るまでが非常な時間を要した。PAA機なら、あれだけの時間に、どこまで飛べるだろうと想像せざるを得ない位に、時間を要するものであった。シンボリズムの舞台装置は充分私達を楽しませてくれた。ただ、この能の声楽もそうであるが、日本の音楽は(先達て観賞した新橋の東京をどりも)共通して、発声が「のど」に力を入れるので、不自然のように思われた。「正尊」は「大原御幸」に比して、現実的のものだった。自分には、「大原御幸」の悲劇の方が楽しむことが出来た。謡の意味は、勿論、全然理解出来なかったが、あのマスクの中から出て来る言葉は、日本人にも言葉が聞き取り難いそうである。

日本に於て聴いた演奏会は、私の友人ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮したN響であった。それから、私と共に演奏してくれた東京交響楽団の両方とも、私の期待より余程優れた演奏であった。強いて批評を求められれば、弦楽器の優秀であるのに比して、管楽器が少し劣ることである。これは、この二つの日本の大交響楽団に共通して云えることであろう。

日本に於いては、金管楽器にも、木管楽器にもこれを教える立派な教師がいないと云うことであるから、止むを得ないことであろう。

それから、日本の聴衆の真面目な点、熱心な点には全く敬意を表したい気持である。私のベートーヴェンの「悲愴」、「ワルトシュタイン」、「ハンマークラヴィーア」を弾いた夜は、私自身非常に愉快で、熱狂している聴衆に応えて、四曲のアンコールをした。未だ二曲位のアンコールをする位の気持はあったが、拡声器で妙なアナウンスが入ったため遮られてしまって残念であった

私は、日本の若いピアニスト数人の演奏を聴く機会を得た。これは、日本の若い才能あるピアニストのレベルを、私に知って欲しいと云う希望からであった。私は、全く社交辞令ではなく、この人達のピアノのレベルは、私の期待していたものよりも遥かに高く、テクニックも、ソノリティも、完全に、また充分にそなわっていた。

欲を云えばもう少し詩的であってほしかった。しかし、彼等は、まだ十五歳から、十七、八歳のものが多く、これを期待することは無理かもしれない。

この外、私は日本のカブキを観た。「本朝廿四孝」、「茨木」、「鳥辺山心中」であった。勿論、言葉が解らなかったが、倦きずに、この三幕を終わりまで見た。日本の歌舞伎は、非常にテンポがのろく感じられた。

私は今日5月6日、日本に於ける最後の名古屋の演奏会のため東京を出発する。明7日に名古屋の演奏会を終えて再び関西に向かい、京都、奈良をもう一度観光する予定であったが、妻の富士山をもっと近くで見たいと云う希望によって、名古屋から熱海に引き返し、数日間熱海で静養して、この間に川奈、箱根を遊覧し、心行くまで富士山の美しい姿に接したいと思っている。

(帝国ホテルにて)

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バックハウスの前で演奏した若いピアニスト数人って誰なのか気になる~

日比谷公会堂第1日(1954年4月9日、同誌より)