チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

フランス六人組~ジョルジュ・オーリックに聞く(竹原正三)

2014-02-06 22:24:19 | メモ

昔の音楽雑誌は宝の山ですね。ホコリやカビで喘息気味になるけど、面白いから我慢でける。

『音楽現代』1974年6月号には「ジョルジュ・オーリックに聞く」というインタビュー記事が掲載されていました。

オーリック(Georges Auric,1899-1983)は日本では映画「ローマの休日」の音楽の作曲者として有名ですよね。あとムーラン・ルージュ(赤い風車)のワルツのメロディーなんかは超有名。

この記事では竹原正三(1927-2006)という方が1974年3月22日にオーリックに直接インタビューしています。すごい。

(1)この記事の中では、まず6人組(Les Six)の結成の経過がオーリック目線により話されています。簡単にまとめると

6人組は「ただ単に仲の良い友人の集まり」だった。

1913-14頃コンセルヴァトワールでオーリックミヨーオネゲルと知り合う。

次に、ピアニストのリカルド・ヴィニェス(Ricardo Viñes, 1875-1943)に師事していたプーランクとヴィニェス宅で会うとたちまち親友になる。

1915年戦争のさなかに、やはりコンセルヴァトワールのタイユフェールらと音楽会を開催。

終戦後、モンパルナスでデュレと知人になる。
デュレの兄弟に画家がいて、その関係でユイガンス街のアトリエで音楽会をやることになった。ジャン・コクトーとの出会いはそのあと。

(2)オーリックとプーランクが特にサティを尊敬していた。サティに関する個人的な回想は?と聞かれてオーリックは次のように話しています。

「私とサティとの出会いは、他の人と全然違います。私はまだ13歳の頃から作曲をはじめ、コンセルヴァトワールに通っていましたが、1913年14歳の時、はじめてサティの音楽に接して非常にショックを受けました。そしてある音楽雑誌にサティについての評論を書きました。その当時、サティの音楽は討論の対象になることはあっても、世間では全く認められていない時代でしたので、彼は私の評論を読んで大変喜んでくれて、私が14歳の少年と言うことを知らないものですから、非常に礼儀正しい、丁重な礼状を送ってきました。勿論私も大喜びで、私の家へ彼を招待することになり、忘れもしない午後4時の約束だったのですが、私はもう胸がわくわくしてちっとも落ち着きませんでした。そしていよいよ来訪のベルが鳴って扉を開けたとき、子供である私が出てきたものですから、サティは「お父様はどこにいるの?」と尋ねる始末でした。でも私がその当人だということが判っても、何しろ彼はもともと子供好きでしたので、かえって非常に喜んでくれました。私とサティはその時以来の付合いで、6人組では一番はじめにサティを知ったことになります。」

なかなかイイ話ですね!その他にもいろいろ面白いことが書いてありますが、ヤベーのでこのへんにしておきます。
有名作曲家のナマの声をもっと探していきたいっす!



一緒に載っていた1931年の写真。竹原氏提供とのこと。左からプーランク、タイユフェール、デュレ、コクトー、ミヨー、オネゲル。肝心のオーリックはデュレの背後の絵として写っています(よく見えないけど)。同じ時に何枚か撮られたようですが、オネゲルが横を向いているバージョンは初めて見ました。