チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

グレツキ来日、特別講演会『わが生涯と音楽』(1996)

2014-07-26 17:08:37 | 来日した作曲家

ポーランドのヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki, 1933-2010)の交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」(1976)は本当にイイですよね。時々聴きたくなってはその優しさに深く癒されます。

そのグレツキが、日本に来てトークショーを開いたという貴重な情報を「閑人の王」さんのブログで得ました。ありがとうございました!

そのトークショーの時期と内容が知りたくて、当時の雑誌に載っていないか調べたところ、音楽之友社『音楽芸術』1997年1月号で松平頼暁氏による記事を見つけました。

以下、その記事からです。



ポーランドのシレジア・フィルハーモニー交響楽団と一緒に、ヘンリク・ミコワイ・グレツキが来日して、1996年(平成8年)11月11日(月)、19時から毎日ホールで特別講演会「わが生涯と音楽」が開かれた。

講演会のタイトルは素晴らしい、「わが生涯」と「音楽」を切り離すことはできない、と言って、講演は始まった。続けて、人は生まれてくる時代や場所を選ぶことはできない、と言う。彼が生まれ、育った時代は、劇的で悲劇的でさえあった。それはこちらから影響を与えるには、強過ぎて、それらは彼に影響を与えた。もっと穏やかな時代に生まれていたなら、別の人間になっていただろう。音楽は彼の職業だが、別の職業の方が適していたかもしれない。(後で、フロアからの質問に関連して、半ば冗談で民族楽器制作のために大工になっていたら良かったかもしれない、と語った)。音楽は、彼が見てきたことへのコメントである、という。

彼は1933年、ポーランドという美しい国に生まれた。ポーランドは今も、過去にも、そして今後も彼の祖国である。しかし当時、西にヒットラー、東にスターリンがいた。グレツキは二歳で母を亡くした。二十六歳だった。彼女は職業としてではなく、ピアノを弾いていた。父も同様にさまざまな楽器を演奏していた。その後、グレツキは病んだ。建築現場で事故に遭ったのだ。治療レベルは低く、包帯とメスがあるだけだった。戦争が始まったが、その間、彼は病院にいた。ドイツ人の医者が数回に亘って手術した。彼は良い人で、シレジア地方のある町で整形外科医をしていた。病院で演奏していたオーケストラと教会のオルガンが当時の彼にとっての音楽だった。楽器に触れる機会はなかった。1945年、十二歳の時、戦争は終わった。ピアニストになりたかったが、先生はいなかった。先ず、病院の学校、ドイツの学校、ポーランドの学校で一般の教育を受けなければならなかった。十七歳で高校卒業試験を受けた。しかし音楽学校では受け入れてくれなかった。第二の母がピアノを止めるように言った。ギナジウムの作文でショパンのピアノ協奏曲が弾けたら死んでもよい、と書いたが、まだ弾いたことはない。だからこうして生きている-二年間小学校の教師をやった。三年間中等音楽学校でピアノと理論を学び、1955年に、カトヴィツェの国立音楽院に入学、シャベルスキ(Bolesław Szabelski, 1896–1979)に学んだ。それまで系統立った勉強はしていなかった。「狼は森に帰る」のだ。ここを五年で卒業した。

彼はこうした時代を生き抜いた。ソ連では、書いた物だけでシベリア送りになった。彼はアウシュヴィッツから比較的近い所に住んでいたが、1939年にポーランド人、41年にユダヤ人、そしてその後、ジブシー、捕虜、オランダ人が収容された。彼の親族も何人か収容所で死んだ。戦争と関わりのなかったポーランド人はいない。ポーランド人であるために、ユダヤ人であるために、パルチザンであるために人々は死んだ。それらの情景が彼の眼前を通り過ぎる。彼の近所の収容所にいたソ連の捕虜が彼のために作ってくれたブリキの箱が大切な思い出になっている。妻はピアニストだが、当時はパルチザンだった。戦後も何度か、ポーランドやハンガリーで事件が起こった。死が離れられないテーマとなった。しかし、そうした時代にも、ベートーヴェン、ショパン、シマノフスキが彼の傍にあった。悲劇的な時代は彼にとっての悲劇ではない。それは素晴らしい人生の学校だった。


ここから長い質疑応答の時間になった。そして彼が予告していた、後半部のメシアン、ショスタコーヴィチとの出会いについては聞くことはできなくなった。

皆さんが、音楽を聴いて、人生に安らぎを見付けたり、新しい価値を見出したりすることができるように、この世において、異常なテンポで生活していても楽観的な光を見付けることができれば良しとしよう、与えられた人生が美しいものと実感できるように、と彼は結語を述べた。

 

 

。。。メシアン、ショスタコーヴィチとの出会いも語ってもらいたかったですが、質疑応答が盛り上がっちゃったんですね。慈しみに満ちた「悲歌のシンフォニー」はとてもつらい思いをしたグレツキでなければ書けなかったのかもしれません。