チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ベートーヴェン後期四重奏曲をきいて

2014-07-16 22:41:32 | 何様クラシック

明日飛び立つ特攻隊員は決してベートーヴェンでなく、モーツァルトを聴いていたという話を聞いたことがあります。

でも自分が明日死ぬんだったらベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲(12-16番)のうちのどれかを聴くかも。

ベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲って、大編成オーケストラのロマン派音楽やゲンダイオンガクとかどんな音楽を巡りめぐっても必ず安心して帰ってこれる故郷みたいに感じます。

自分にとってはこれ以上心優しくて、包容力のある音楽って無いような気がします。ある意味寅さん。

ちょっと前まで一部の人たちがこれらの四重奏曲を決して足を踏み入れてはならない「禁断の森」的に神格化していたようですが、それって単にドイツ音楽崇拝者とかの洗脳の賜物では?逆にベートーヴェンの、上から目線が消えた最も人間的で親しみやすい音楽だと思うんですが。

そもそもベートーヴェンはこれらの曲で、誰に対して語りかけているんでしょうか。その当時の聴衆や社会?自分自身?あるいは宇宙とか神さまとかの誇大妄想系。。??

自分としてはベートーヴェンはここでは未来の人間(現代人)一人一人としゃべろうとしているように思えてしかたないです。例えば神にしか語りかけてなかったら聴いてる人間は置いてけぼりな気分になるはずですよね。

しかもその話の内容は「病気が治ってマジうれし~んです」、「道端の花がきれいだったよー」、「今度の家政婦もちょームカつく」、「何百年後ってどんな世界なん?おせーて」とかだったりして?

。。。ゲヴァントハウス四重奏団のCDは大フーガですら可憐に聞こえます。




↑15番第1楽章11小節の、あえてチェロの高音域でやらせるからこそ心にぶっささるカッコつけなしの悲痛な叫び。ハルサイ冒頭ファゴットの先駆?


指揮台から落ちたバーンスタイン(1982)

2014-07-12 17:30:27 | どうでもいいコーナー

1982年5月、アメリカ・テキサス州の「ジョーンズ・オーディトリアム」におけるイスラエル・フィルの演奏会本番でのできごと。

指揮者レナード・バーンスタインはチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏中、熱烈に盛り上がる箇所で体のバランスを失って指揮台から落ちてしまったそうです。

「演奏を続けろ、僕は大丈夫だ」''Keep playing! I'm all right.''とバーンスタインはフロアで四つん這いになりながら叫びました。

バーンスタインは指揮棒を振りながら指揮台によじ登りました。イスラエル・フィルは何事もなかったように演奏を続けていたそうです。

演奏会のあと、バーンスタインは肩をすくめてこう言いました。「ちょっとだけ痛かった。」''Just a little pain.''

(音楽の友1982年7月号+ニューヨーク・タイムズのサイト)


。。。聴衆は笑いを堪えられたんでしょうか?

ネットで調べたら、バーンスタインはこの時以外にも何度か指揮台から落ちているようです。

 

↓若い頃のバーンスタイン(1957年LIFE誌より)


雑誌『音楽文化』創刊号(「音楽芸術」の前身)

2014-07-09 19:39:16 | 音楽の本

「音樂文化」創刊号の表紙です。昭和18年(1943年)12月号。

この雑誌、調べたら「音楽芸術」の前身なんですね。昭和21年2月号から名前を変えています。

いよいよ激しくなってきた戦局のもとでの発行のためか紙の質が悪く、ページをめくるハシからボロボロに崩れていきます。

 

↓創刊の報告です。音楽雑誌も「統合」されたんですね。

 

裏表紙↓

レコードの宣伝広告は比較的平和です。ワルター似てね~。草間さんは安川さんですね。

 

↓あぶないご時世に藤原歌劇団が歌舞伎座でフィデリオやってます。大東亜交響楽団とは!?

 

↓ここでも大東亜交響楽団。斎藤秀雄指揮。米英激滅大行進曲「闘魂」聴いてみたい!

 

↓厚生音楽って?山葉はヤマハか。

 

↓いよいよ目次を見てみましょう。さらにイヤな気分になるかも。。

如何にして音楽を米英撃滅に役立たせるか」。。。

とりあえずそれ置いといて、最も重要な記事は山田耕筰さんによる「國民音樂創造の責務」という記事だと思います。

自分なりに要約してしまうと。。


・苛烈な戦局の今こそ、音楽の持つ威力を最高度に発揮すべき時である。

・国民音楽の創成が音楽界全体の悲願であった。

・私が音楽の道を私の天職として選び、今日までそれを自分の職分として努力してきたのは何の為であるか。それは今日只今、国家と共に、国民と共に殉ずる精神を持って、音楽を武器とすることに外ならぬ。

・いつ如何なる事態に際しても、いささかも動じない我が民族特有の、而して、東亜共通の音楽を持つこと、これが私の言う音楽の自主性、即ち、自力依存である。

・我が国固有の伝統的音楽たる民謡や古典音楽の系統的研究がなされなければならない。

・我が国の音楽界は西洋音楽万能という、変則的な発達を遂げてきた為に、作曲、演奏、批評が、総て外国の基準に於いて享受されてきた状況は音楽の専門的立場に於いては、かかる態度を一掃すべきであろう。ベートーヴェンやドビュッシーを最高に置こうという考え方の中からは、絶対に、今日の、明日の、健全な日本の音楽が生まれて来ないのである。

 

。。。山田先生、本当はそんなこと思っていらっしゃんなかったんですよね!? むっちゃつまんない音楽になりそ。

いつの時代も音楽は楽しくなくては。ましてや決して武器ではないと思います~


ウィーン・フィル第1回コンサートと最初の写真

2014-07-07 21:33:43 | メモ

ウィーン・フィルの第1回目のコンサートのポスターです。

1842年3月28日(月)午後12時半から、オットー・ニコライ(Otto Nicolai, 1810-1849)の指揮でした。

平日の真っ昼間に聴きにくる客おるの?それに、コンサートの一曲目がいきなりベートーヴェン第7交響曲とは!?

 

ウィーン・フィル最初の写真(1864)。

明治元年(1872年)の8年前かー。さすがに誇り高そうな面々ですが、どんな音を出していたんでしょうか?ヒゲ率高い!(写真:音楽の友1969年3月号より)


「NHK交響楽団」の誕生(1951)

2014-07-06 17:44:52 | メモ

昔の音楽雑誌を読んでいるといろいろな楽団の名前が出て来て混乱するので、まずNHK交響楽団の名称の変遷について整理してみます。(出典:文藝春秋「N響80年全記録」佐野之彦著)

新交響楽団と名乗っていた時代から彼らは「日本放送交響楽団」の名で放送出演を続けていたが、新響が同時に別名の交響楽団として出演するという歪な状態を改善するため、彼らは財団法人日本交響楽団(日響)になり、経営上の責任を公式に放送協会に分担してもらうことになった。

そして戦後、日響と日本放送協会の関係はいっそう緊密なものとなり、1951年8月1日、財団法人NHK交響楽団は誕生した。こうしてN響はようやく安定した経営基盤を手にすることができた。

。。。なんとなく、ある天体が遠くから地球に近づいてきて、地球の衛星軌道に入って安定し、月になったという話を思い出しました。

↓「日本交響楽団から...NHK交響楽団をになう人々」(音楽之友昭和27年5月号より)。

皆さん、希望に満ちたいい顔していますね!

紺野美沙子さんのお父様(ホルンの佐藤栄二氏)はまだいらっしゃらない?