チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

文化放送・東急ゴールデンコンサートの雑誌広告(渡邉暁雄/日本フィル、1959年)

2016-08-08 22:07:59 | メモ

(画像等を追加しました)

小説雑誌『宝石』1959年7月号裏表紙に文化放送「東急ゴールデンコンサート」の広告が載っていました。



↑ 渡邉暁雄氏が指揮する日本フィル。毎週木曜夜9時から10時までの1時間放送。「とうきょうきゅうこう」って言いづらい...

 

↑ 1960年2月号。チェロは松下修也さん?

 



↑ 同じく1960年5月号裏表紙。4月から金曜放送に変更。人気が高まったからでしょうか?

 

↑ ちょっとさかのぼって同1958年6月号より。月曜8時30分から。提供は東急ではなくて日本精工だったんですね。

岩淵龍太郎氏の顔が見えます。ピアニストは誰でしょうか?(ベンノ・モイセイヴィッチ??調べます。)


この番組で1962年に放送された、ミュンシュ・日本フィルによる幻想交響曲のCDが今月26日に発売されます(買いたい)。この録音はステレオらしいので、ほかの演奏もステレオ収録されているものがあるかもしれません。渡邉暁雄のシベリウスのライブ録音などがあったら聴いてみたいです。(一部はもうCD化されていました。沼辺信一様、情報ありがとうございました。コメント参照)

このラジオ番組についてもっと詳しく知りたいです。

 

(追記)

東急ゴールデンコンサートについては『日本フィル物語』(日本フィルハーモニー協会編著、音楽之友社1985年)に詳しいです。要約すると

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東急ゴールデンコンサートの記念すべき第1回は1959年4月2日、渡邉暁雄指揮のチャイコフスキー交響曲第5番ほか。この回は一般にも公開された生中継番組で会場のサンケイホールは無料招待の聴衆で満員(定員1800人)。高名な批評家も顔を見せていた。

初放送からおよそ10年、1968年10月25日には放送500回目を記録。このとき文化放送が作成した『東急ゴールデンコンサート――放送500回の記録』【見たい!】によると、指揮者が登場したのは500回のうち459回で、残りは日本フィルのメンバーによる室内楽など。最もよく出演した指揮者は渡邉暁雄で、計286回(60%)。その他15人の日本人指揮者があわせて104回を、27人の外人指揮者があわせて69回を指揮。

この番組の解説者は有坂愛彦で、500回のうち498回担当。

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。。。このラジオ番組はフジテレビの開局記念番組のひとつである『日本フィル・シンフォニー・コンサート』(第1回放送は1959年3月1日。指揮はやはり渡邉暁雄。「皇帝」のピアノは井口基成)とともに日本でクラシック音楽を広めるのに大きな貢献をしたんですね。


白鳥の湖・全曲日本初演(東京バレエ団、1948年)

2016-08-05 17:59:48 | バレエ

(2015年5月16日の記事に島田廣・服部智恵子ファミリーの画像を追加しました)

 

「白鳥の湖」全幕は1946年に東京バレエ団により日本で初演されましたが、2年後の1948年には同じく東京バレエ団により、今度は「全曲」が日本初演されました。

↑正直、全幕と全曲の違いがわかりませんが、1946年の初演のときは一部省略されていたってこと?(調査中)



東京バレエ団というのは、小牧正英バレエ団、貝谷八百子バレエ団服部島田バレエ団東京バレエ研究会の合同ということらしいです。

解説によると「このバレエ公演に貝谷八百子、島田廣、谷桃子の諸氏が加わっていることを見のがせない。このひとたちは、言わば完全に一本立ちでやっている舞踊家だ。それが『白鳥の湖』という一つの芸術品のまえには、つつましい奉仕者となってあわられているのである。私たちは、ずいぶん永い間、舞踊家のこういう協力をまちのぞんでいたのである。日本では、一人一人が孤立していたら、いつまで立っても、こういう作品を上演するチャンスはないかもしれないのに....。」ということで、当時のオールスター勢揃いの公演だったようです。

以下、主なメンバーの紹介です。

【小牧正英バレエ団】

小牧正英(こまきまさひで 1911-2006)


《小牧正英氏の振付をみていて、こんなに悪口を言いながら猛稽古をやるのに、よく皆がだまってついてくるものだと思った。ところが小牧氏にきいてみると「今度の公演は、私の意志というよりも、生徒たちの熱意に動かされてやったようなものです。私は上海から帰ってきて以来、夢中で仕事をしましたが、日本というところは、つくづく芸術家を育てない国だという気がして、少々くさっていたのです。しかし生徒の熱意は私をふるい立たせました。」というような訳で、なるほどと思った。どうせやる以上は、できうる限りオリジナルなものに仕上げたいと思い、こんどは前回の公演のときにくらべると、80パーセントは振付を変えてみた、と小牧氏はだんだん熱してきた。このひとは、どうみてもバレエに関しては気狂いのような熱血漢である。》


関直人(せきなおと)



《こんど、王子に抜擢された関直人君は、きいてみると、まだことし二十歳の青年である。いったい、どうしてバレエに志す気になったのかときくと、「丁度二年まえでした。ぼくの田舎(白河)から出てきて、はじめてバレエ『白鳥の湖』をみたのですが、矢も楯もたまらなくなって、小牧先生に弟子入りしたのです。本名は関根直治って言うんですけれど、先生が関直人という芸名にしてくれたんです。」と至極明快にこたえた。》


野邊(涌井)武子

 


廣瀬佐紀子

 


横山はるひ、笹本公江、太刀川瑠璃子、岸清子、日高淳

 

↓参考(小牧バレー団の白鳥の湖。1950年8月25日東京有楽座。大束元氏撮影。朝日新聞報道写真傑作集より)




【貝谷八百子バレエ団】

貝谷八百子(かいたにやおこ 1921-1991)



《貝谷八百子さんだが、街であっても、このひとは絶えずたくましいバレエ魂といったようなものを発散している。何か人を押し倒しそうな気力である。「とうとう結婚期もすぎちゃったァ」平気でそんなことを言う人だが、こんな何でもない言葉のなかに、じつは貝谷八百子の不屈な魂が窺われるのだ。18歳でパヴロヴァ門下から独立して今日まで、彼女の恋人はトゥ・シューズ以外のなにものでもなかった。「今にアメリカへ行って勉強してくるわよ。」......彼女は今もなお真剣である。》

 


町田旬子、佐藤けい子、長谷川千鶴子




【服部島田バレエ団】

島田廣(しまだひろし 1919-2013)



《島田廣氏は、いうまでもなく「島田服部バレエ団」の主宰者で、亡くなったエリアナ・パヴロヴァ女史の門下生だ。おそらく外国の雰囲気のなかで育ったのでもないのに、彼くらいに雰囲気を身につけたというのは、非常に稀なのではないだろうか。》


服部智恵子(はっとりちえこ 1908-1984)

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(追記)島田廣さんと服部智恵子さんはご夫婦。そのファミリー写真がアサヒグラフ別冊「映画と演芸」1954年9月号にありました。

左から笹田雄二(次男)、お弟子さん3人、笹田慎一(長男)、島田廣、服部智恵子、昇(廣の弟)、エリ子(繁子の長女)、笹田繁子(長女)。

笹田繁子さん、綺麗ですね。やはりバレリーナで、ワトソン・繁子というお名前で有名なかたらしいです。

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松岡みどり、古藤かほる、早野和子、浅井郁子 (この中に上の写真に写ってる方がいらっしゃるかも?)




【東京バレエ研究会】

谷桃子(たにももこ 1921-2015) 4月26日にお亡くなりになりました。



《谷桃子さんは、古くは石井小浪に師事し、のち日劇ダンシング・チームに入っていたが、小牧氏の帰国と同時にバレエ団に加入した。小牧氏と一時結婚していたのは周知のとおりだが、こんどの稽古を見ていると、『桃ちゃん、そんなポーズじゃダメだよ!』という小牧氏の言葉に従順で、凡俗な私的感情などというものは覗いてみることもできなかった。まことに不思議な世界である。》

 


長谷川訓子、内田道生

 


藤田繁(歌手の尾崎紀世彦さんのお父さんだそうです。ご隠居さま、情報ありがとうございました。)

 

↓ キャストです。この時は東勇作さんはいなかったんですね。上の方々以外に有名な人いますか~?(河内昭和氏も出演されています)

 

以上、有楽座のプログラムより↓


3人の先生とお弟子さんたち(谷桃子・宮城喜代子・四家文子、1957年)

2016-08-01 21:26:24 | 日本の音楽家

『主婦と生活』1957年10月号に、女性の音楽家とそのお弟子さんの写真が載っています(敬称略)。



1. バレリーナ・谷桃子(1921-2015)



先生、きれいですね!目黒柿の木坂・八雲学園の講堂にて。
お弟子さんたちが若すぎて将来の有名人がいたとしてもわかりませんでした。



2. 箏曲家・宮城喜代子(1905-1991)



お師匠さんの宮城道雄(1894-1956)がお亡くなりになった翌年に宮城家の大広間で撮影された画像。一番手前のお弟子さんの顔が写ってなくて、彼女がこの雑誌を初めて見たときの落胆ぶりを想像すると心が痛みます。。



3. 声楽家・四家文子(1906-1981)



前列と後列はどういう分け方?

先生の四家さんはクラシック以外の場合は「藤野豊子」というお名前で活躍されていたそうです。お弟子さんの一人、東敦子(あずまあつこ、1936-1999)がここに写っているかを知りたいです。当時21歳くらい。