ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.7.17 父の葬儀終了に思うこと

2016-07-17 22:24:44 | 日記
 長い1週間が終わった。
 父の逝去から今日の葬儀まで、とりあえず無事に終了することが出来た。厳しかった父が及第点をくれるかどうかわからないけれど、自分なりに精一杯やらせてもらったので、今はただただ安堵しており、悔やむことがない。

 家族や親戚、職場の方々、友人たち、そして目に見えない沢山の力に支えられてここまで頑張ることが出来たことに、改めて深く感謝したい。

 父の亡骸は、父がどこよりも好きだった自宅でまる3日間を過ごした。その間、ご近所の方たち、デイサービスでお世話になった方たち等からの弔問が続いた。
 自宅での3泊を経て出棺する際の湯灌。虫の知らせだったのか、入院する前日に床屋さんでカットを済ませていたので髪の毛はさっぱりしていた。生まれて初めて父のシャンプーを手伝わせてもらったけれど、それが亡くなった後のことで、これが最初で最後になるとは、なんとも複雑な気持ちだった。

 ドライヤーをかけ、髭をそり薄化粧をして頂き、準備したお洒落な夏服を着せてもらった。着替えの最後には母と2人で新しい靴下をはかせた。そして普段使っていたもの、好きだったものとともに棺に入った。
 やることなすことすべてが初めての体験。母にとっても私にとっても、とても重たい経験だった。

 亡くなってから葬儀まで1週間、はやはり長い。1週間の間、毎日実家に通い、落ち込む母の相手をしながら、あらかじめ出来る事務手続きや葬儀社との調整をし、ずっと気持ちをキープしておくのは正直しんどく、気持ちを奮い立たせながらの日々だった。
 その間色々不自由をさせてしまった夫には申し訳ない気持ちだった。
 ごく内輪の葬儀といっても、数十年ぶりに会う父方の従姉・従兄もおり、粗相がないように、とやはり緊張した。

 そして昨日が通夜式。指示された時間に斎場に到着すると、既に白と紫を基調とした生花で一杯の祭壇が完成していた。あれこれ打ち合わせや調整をしているうちに、三々五々親戚が到着。前日夜遅く息子も京都から駆けつけており、ほっとした。なんといっても父にとっては唯一の孫。どれだけ可愛がったかしれない。
 コンサート当日の部長挨拶だけはしなくては、ということで今朝早くのとんぼ返りだったけれど、よく来てくれた、と思う。

 遺影の写真は、5月の末、デイサービスで開いて頂いた5月生まれの誕生会のもの。とても穏やかな顔をしており、母が選んだ。まさかその時は、その1か月半後に亡くなっているとは誰も思わなかっただろう。

 夫が、息子が生まれてからの別人のように表情豊かで幸せそうな父の、沢山のスナップ写真を見繕って小さなアルバムにしてくれた。私には厳格な父だったけれど、こと孫には別人のように寛大なおじいちゃんだった。男の子が欲しかったという父は、私に息子が生まれて本当に嬉しかったのだろう。
 3年前の義母の葬儀の時は、生まれて初めて家族の葬儀というものを経験し、あられもなく大泣きしていた息子も、亡くなった父を棺から眺めながら、静かに焼香していた。これは息子なりの成長の姿なのであろう。

 ご住職にご挨拶を済ませ、予定通りに通夜が開式。喪主である母の隣に座った。ヨロヨロする母にハラハラしながら、とにかく明日まで頑張ろうね、と叱咤激励する。
 浄土真宗東本願寺派は戒名ではなく、法名という。「釋慶昭居士」という名前を頂いた。この宗派は特殊で、四十九日を迎えるまで白装束での旅支度もなく、即得往生なのだという。父は既に仏様になったわけだ。ご住職からは、88年という生涯を終えたという個人的な“喜び”ではなくもっと大きく深い“慶び”を表す法名だ、とのお話を頂いた。

 職場には内輪の式ということでもろもろご辞退させて頂いていたが、それでも上司やお世話になっている方々、友人、夫の職場からもお花や弔電等のお心遣いを頂き、恐縮した。有り難いことである。

 通夜式終了後は、翌日の告別式が早いので、母には義妹夫婦とともに式場近くのホテルに泊まってもらった。私は自宅に戻ったが、何やら疲れすぎてしまってここ数日すっかり不眠状態。
 
 そして今朝。息子は早朝京都へと戻り、夫と私が再び斎場へ向かった。
 猛暑でもなく、雨降りでもなく、やや蒸し暑い曇天だったけれど、来て頂く方たちには有り難い天候だったと思う。

 告別式は予定通り10時開式。
 葬儀、告別式終了後、初七日の法要もその場で終了し、弔電のご披露。出棺の前には祭壇の花々が入れられる。「お疲れ様、ありがとう。」と冷たくなった額に触れて小声で囁く。
 母は泣き崩れながら顔を撫でている。これもまたこの宗派のやり方で、棺に杭を打つことはない。皆で静かに蓋を閉めて、男性たちが棺台に乗せる。ここで喪主である母に代わって私が皆様に御礼のご挨拶をした。母が位牌を、私が遺影を持ち、同じ建物内の火葬棟に移動する。

 予定通りの時間に荼毘に付される。棺が移されてレールに乗り、消えていく。これでお別れ、と思うこの瞬間、義母の時には次にここに入るのは自分だろうか、と何とも言えない息苦しい気持ちになったことを思い出す。
 再び待合棟に移動して、昼食。さすがに疲れているのか、気圧の所為か今朝から胸痛が再燃している。

 収骨の準備が出来ました、とアナウンスが入り、皆で収骨場へ移動する。かつては174cmあった父は、立派な大腿骨で骨量が多い。股関節の美しい球体には驚いた。
 母が選んだ父が生まれた季節に因んだ新緑色した骨壺に、静かに骨を収める。さすがに圧迫骨折をしていた背骨から腰にかけてはかなり痛んでいたが、下顎骨にはいまだ入れ歯がなく、全て自分の歯だった奥歯が数本残っていた。両耳の骨、頭蓋骨等説明を受け、喉仏の骨や頭蓋骨が最後の説明とともに一番上に乗せられる。

 不思議なことに、義母の葬儀の時よりも自分のことに引き付けて考え過ぎることがなかった。これも瞑想でうまく心をコントロール出来るようになった成果なのだろうか。この1週間、心がざわつくこと、落ち着かないことも少なからずあった。その時には出来るだけ深呼吸をし、瞑想を繰り返した。瞑想というツールがあって本当に良かったと何度も思った。

 大きな骨壺を夫が持ち、位牌を母が、遺影を私が抱えて再び式場に戻り、解散。参列してくださった皆様に不慣れと不手際を詫びつつ、御礼。お見送りをした。

 帰途、数年前に建てた私たち夫婦用の墓地を母に見せてから、義弟の車で実家まで送ってもらった。雨が降らなくて本当に良かった。
 実家で一息ついたところで、葬儀社の方が、納骨の日までの後飾りを設えてくれ、整ったところで皆でお焼香を済ませた。
 今後のことの説明を受けた後、義妹夫婦を見送る。

 弔問に来てくださったご近所宅に、母に代わってご挨拶回りをしているうちに夕方を回る。このまま母を一人で置くのも・・・ということで、3人で夕食を摂りに出かけ、その足でタクシーで帰宅した。

 今は、こうして私が動ける体調で、順番通りに父を見送ることが出来たことに素直に感謝したい。
 義母の葬儀の時に「不肖の一人娘としては、実家の高齢の両親の行く末も気が気ではない。次は何としても逆縁だけは避けて、両親をしっかり見送りたいと願わざるを得ないが、今頃天国で再会しているであろう義父母が、私のささやかな希望を叶えてくれるよう見守ってくれることを望みたい。」と書いている。
 そう思うと、間違いなく義父母が見守ってくれているのだ、と心を強くする。

 母は60年連れ添った父を亡くし、その寂しさと喪失感は私には想像が出来ないほどなのだろうと思う。けれど、せっかく父が長患いをせずに旅立ってくれたのだから、これまで父がいるから、とあれこれ我慢してきたことを少しずつ解放しながら、残りの自分の人生を少しでも楽しく豊かに過ごしてほしいと思う。

 明日は一日ゆっくり休んで、明後日からは通常通り出勤の予定である。

 この度の父の逝去に対し、コメント、メール、LINE等でお悔みをくださった皆様、温かいお心遣いをどうもありがとうございました。心より感謝いたします。
 これからもどうぞよろしくお付き合いのほどお願いいたします。
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2016.7.10 父、逝く

2016-07-10 22:32:22 | 日記
 今朝、母からの電話で起こされた。
 金曜日に見舞った時には会話が出来た父が、今朝方に容態が急変し、病院から「会わせた方がいたら・・・」と連絡があったという。

 私も急ぎ病院に向かったが、従姉も、私も僅かの時間で間に合わなかった。伯母(母の姉)が母に次いで駆けつけてくれて、母と2人で看取ったという。
 5月に米寿を迎えた88歳1か月。腰椎圧迫骨折で入院したのだが、誤嚥性肺炎によりすぐに食事が摂れなくなった。死因は肺炎。

 私が病院に到着した時はエンゼルケアの最中。「終わりました」と連絡があり、病室に入ると、穏やかな顔をした父が軽く口を開けて、眠っているようにそこにいた。

 入院する日まで普通に食事をしていたのだから、あまりにあっけないといえばあっけない幕引きだった。
 母は入院後、毎日バスを乗り継いで病院に向かい、一日おきに見舞っていた私から見てももうヨレヨレだった。長期戦になるかもしれないから、少し休まないと(母が)ダウンしたら元も子もないから、と説得した。
 
 そして、初めて「明日は1日休ませてもらうね」と一昨日の帰り際に父に了解を得た。私も「また月曜日も水曜日も来るからね」と言ったところ、手をびっくりするほどしっかり握って「ありがとう、親子だから・・・」と言った。
 それが父と交わした最後の言葉となった。

 突然のピンピンコロリなど、そうはあり得るものではない。寝たきりで長患いをしたわけでもなく、病院である程度の時間を過ごしたことで、私たち家族に寄り添う時間と覚悟する時間を与えてくれた。そして、最後には母にしっかり1日の休養をさせてくれて、静かに逝った父。娘の私が言うのもなんだけれど、遺していく母や私のことを思いやってくれた天晴な最期だったと思う。

 エンゼルケアの最中にすぐに葬儀社に連絡を取り、1時間もしないでお迎えの車が病院に到着した。入院して一番最初にお世話になった看護師さんたちに見送って頂き、父は母と伯母とともに、自宅に戻った。
 従姉が実家に先着してくれて布団の用意もしてくれ、本当に有り難かった。夫は少し遅れてお弁当やら飲み物やらを買って、汗だくで実家まで来てくれた。

 葬儀の日程は今週末。親族だけのごくごく小さな葬儀となる予定だ。
 それにしても、決めなければならないことが目白押し。当たり前だけれど初めてのことばかり。これはとても母一人では対処出来なかっただろうと思う。こうして私が元気に動き回れるタイミングを選んでくれて、本当に感謝だ。

 先ほどようやく帰宅したため、選挙に行くことも叶わなかった。
 明日はひとまず出勤して、午前中に1週間の段取りをつけてから慶弔休暇に入る予定だ。とにかく週末まで体調管理をしっかりして、母を支えなければと思う。

 というわけで暫く更新が途絶えるかもしれませんが、どうぞご理解くださいますようよろしくお願いいたします。
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2016.7.8 最善を期待し、最悪に備える

2016-07-08 22:14:44 | 日記
 愛読している朝日新聞の医療サイトアピタルの1分で知るシリーズで、一人の進行がん患者として本当にそうだ、と思った記事があった。以下、転載させて頂く。

 ※   ※   ※(転載開始)

1分で知るシリーズ:がん
進行がんの余命宣告は必要か(石塚広志2016年7月6日)

 進行がんであることがわかると多くの患者は医師にこう聞くそうだ。「あと、どれくらい生きられますか」。日本医科大武蔵小杉病院の勝俣範之教授(腫瘍(しゅよう)内科)は「そこで医師は『実は○カ月です』と言ってはいけない」と余命宣告の廃止を提唱する一人だ。
 かつて勝俣さんも患者の強い希望で伝えることはあったそうだ。だが、悟りきったような聖職者、あるいは度量のありそうな社長や政治家であっても、具体的な余命期間を告げられると、がっくり肩を落としたり、ぼろぼろと涙を流したりする。ショックでうつ状態になる人もいたという。
 勝俣さんは「一方的な余命宣告は患者を傷つけるだけ」と指摘する。さらに医師の告げる余命は当てにならないというデータもある。勝俣さんが、自身を含む医師14人の担当した進行がん患者75人の余命予測を検証したところ、実際の期間と一致したのは約3割にとどまったという。
 医師がいくら「不確かだ」と強調しても、患者は数字にとらわれる。
 勝俣さんは余命宣告の代わりにこう言うそうだ。
 「最善を期待し、最悪に備えましょう」

(転載終了)※   ※   ※

 私も再発・転移を告げられた時に、「もし治療しなければ・・・(どのくらい生きられるのでしょうか)?」と聞いたことはある。その時は「年単位は難しい」との答えだった。けれど「きちんと治療をすれば数年単位で(延命できる)」とも言われた。

 その後転院し、紆余曲折を経て続けてこられた再発治療のおかげで8年半が経過し、今に至る。
 転院して今の主治医にお世話になってからは、余命については一切聞いていない。もう聞く必要はないと思っているからだ。

 その時、その時、自分にとってベストだと思う選択をする。結果として余命が延びるか、縮むかわからない。けれど、仮に縮んでいたとしても後悔するような選択はしてきていない、と自信を持って言える。
 何より自分なりに勉強し、主治医とも相談しながらよくよく納得した上で、治療を選んできたからなのだと思う。

 生まれたからには人は必ず死んでいかなければならない。その動かしがたい事実を人は頭ではわかっている。けれど、誰だって自分の命の限りについて宣告されたら平静ではいられないだろう。平均寿命を十分に超えて、傍から見れば大往生と思えるような人であってもそうなのだから、それがまだ働き盛りで若い患者だとしたら、そして、それが自分が思っているよりも短い期間を告げられたとすれば・・・どうしたって思考がネガティブになるだろう。

 もちろん、なにくそと思って逆に頑張る方も中にはいるかもしれない。けれど、医師も長く見積もってしまって、実際はもっと短かかった(亡くなってしまった)となって、後からトラブルになることは避けたい、と考えて短めに言うということも聞いたことがある。

 世の中には科学で割り切れないことは沢山ある。人の身体は本当に不思議だ。
 だからこそびっくりするようなことが往々にして起きる。思わぬ長生きをするケースあり、そうでないケースあり。
 けれど、聞いたらガックリくるのであれば、やはり聞くべきではないと思う。

 とはいえ、他でもない自分の身体だ。ずっと治療を続けていれば動物的な勘が働くとも思う。その時は、従容として来たるべき死を受け容れられるよう、心静かに穏やかに準備を進めたい。だからといって決して早々と諦めることなく、その時に出来るベストを尽くして生き抜きたいと思う。

 常に「最善を期待して、最悪に備え」ながら。これは進行がんと向き合う術というだけでなく、仕事でも日常生活でも、生きる上でのセオリーではないかと思う。

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2016.7.6 父の入院に思うこと

2016-07-06 21:35:04 | 日記
 今日は母の3ヶ月検診に付き添いの日。私鉄、JR、バスと乗り継いで病院の受付で合流した。受付後30分ほど待って採血を終え、外科の待合室で再び小一時間待つ。
 診察室に入ると、T先生から「お加減はいかがですか」と訊かれ、「おかげさまでまだ便秘はありますが、体重も少し増え、食事も普通に頂いています」と母が答える。薬もなるべく飲まずに自力で頑張っているということで、下剤は頂かず、睡眠剤だけ処方して頂いた。採血の結果は異状なし、とのこと。無事術後9か月経過。ほっとする。

 次回は3ヵ月後。ちょうど術後一年になるので、9月末に大腸内視鏡検査、10月頭に造影CT検査と採血を経、その翌週に診察の3つの予約が入った。
 80歳を超えた小さな体で、生まれて初めて全身麻酔の手術を受けてからもうすぐ1年。よく頑張りました、お疲れ様。そして主治医のT先生、母を救ってくださって本当にありがとうございます、という思いだ。

 一方、父のこと。
 お風呂好きの父は、一昨年の大晦日に浴槽内で滑って腰を強打し、お正月の食事会で会った時に痛みですっかりしょぼくれていたのはここでも書いたのだったか。それ以来、ますます外に出る気力がなくなったように思う。
 母も手術後は痩せて体力が落ち、入浴介助をするのは大変だから、お風呂は要注意、くれぐれも無理はしないように、と言ってあった。

 ところが先週末、父が、母の介助がなくても大丈夫だから、と一人で入浴したところ、のぼせたのか自分で浴槽から出られなくなったという。
 母がなんとか手を貸して外に引きずり出したものの、足元がおぼつかなくて父が尻餅をついてしまったそうだ。
 母は少し太ったといっても148cmで34kg、父も痩せたとはいえ170cm近くあり40数kgだからそれは大変だったろうと思う。
 その時に父は腰椎の圧迫骨折を起こしたようだ。

 時間の経過とともに痛みが酷くなり、病院嫌いな父が手を合わせて「病院に連れていって欲しい」と母に懇願したという。
 そして、救急車で緊急入院。近くの病院にはなかなか受け入れ先がなく、かといってあまりに遠い病院では母が通えない。救急隊員の方たちに調整して頂いた結果、何のご縁か、母が昨秋入院した時、父がショートステイで1ヶ月ほどお世話になった老人ホームに隣接した病院に落ち着いたのである。

 父の圧迫骨折は今に始まったことではない。数年前から背骨はあちこちが潰れ、まっすぐな姿勢がとれなくなって久しい。そもそも運動らしいことは何もしないし、外出もせず、太陽に当たらないお家大好きな人だから、いくら薬を飲んだとしても骨粗しょう症が進行するのは致し方ないとも言える。

 座薬のおかげで大分痛みは落ち着いたもののずっと横になって動けなかったことが原因で肺が圧迫され、食後に痰が溜まって、誤嚥性肺炎を起こし、痰の吸引が必須となった。おかげで絶飲食となり、酸素吸入のマスクを施され点滴に繋がれている。以前から呼吸は荒くゼイゼイ言っており、息苦しさはあったようだが、結局、肺気腫・COPDの状態との診断を得た。

 ということで、今日は午前中に母の病院の付き添いを終えた後、午後から入院先の医療相談員さんも立会いのもとで、主治医と今後のことについて相談の時間が設定された。
 治療が奏功すれば別だが、肺の状態が悪くなれば急変することも窒息に至ることもあるというが、気管切開や心臓マッサージなど体に負担の大きい治療はせずに、出来るだけ自然に緩和する方向で治療方針が示された。

 現在は痛みが落ち着いて意識もしっかりしており、私が見舞えば酸素マスクごしに、「ありがとう」や「悪かったな」などと言葉を発することも出来るのだが、口から食事をすることが出来ず、点滴だけではとても栄養不足ということで、来週にも鼠蹊部から中心静脈ポートを入れて高カロリー輸液を開始することを提案された。

 胃瘻は誤嚥の恐れがあるので、ポートがベターだという。痰の吸引も必須だから医療行為が行えない施設に転所するわけにもいかない。勧められたのは療養型病院への転院だ。幾つかの病院のパンフレットを頂き、希望を聞きながら調整して頂けることになった。ベッドの空きが出るまでは今の病院でお世話になることも出来るとのこと。
 可哀想だけれど、もう自宅に帰ってこれまでのような生活は出来ない、ということを受け入れなければ、と母に話をしながら病院を後にした。

 父は88歳。もちろんもう十分生きたかどうかは私が勝手に言えることではない。けれど、少なくとも定年後、自分のしたいようにして四半世紀以上を過ごしてくることが出来たのだから、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。
 5月に脳神経外科で受診した折には「100歳まで生きたいです」と言っていたけれど、本当のところ、生きたいというより何より、判ってはいても老いてもう遠くない将来逝かねばならないという事実を受け容れることが怖いのではないかと思う。
 今回、夫婦で父の故郷である四国を訪れたのも、父に呼ばれた旅だったのかもしれないとも思える。

 冷たい娘なのかもしれないけれど、家事能力が全くない父が1人で100歳まで生きることはあり得ない。母や私、あるいはそれ以外のサポートが必須になるだろう。12年後だなんて、母だって私だって元気でいられる保障は全くない。
 けれど、今のタイミングであるなら、私も父を見送ることが出来そうだ。逆縁という私が恐れていた一番の親不孝をすることなく、きちんと順番を守ってその勤めを果たすことが出来る、と考えれば、今、父がこういう状況になったことは、やはり神様の思し召しなのではないかとも思う。
 なるべく苦しまずにソフトランディングしてくれることを祈りたい。

 気圧の所為かこんなお天気の所為か、はたまた重たい現実に直面した所為か、昼頃から頭痛が始まった。昼食後にもロキソニンを追加したが殆ど改善されず。出張先から直帰で、私より早く帰宅した夫に夕飯を準備させてしまった。夕食後にもまたロキソニン。それでも今も頭が割れそうに痛い。早く休め、ということだろう。
 義母の時のように長期戦になるかもしれない。まずは母の体調とともに自分の体調管理に努めていかなければ。

 そうそう、昨日届いた今月初めてのお花。
 ビタミンカラーのひまわりが3本、極楽鳥のようなヘリコニアが2本、紫色のリアトリスが2本、アワが3本。それぞれ花言葉は「あこがれ」、「風変わりな人」、「燃える思い」、「調和」だという。すっかり夏らしいアレンジメントが出来上がって、我が家を彩っている。

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2016.7.3 旅行3日目、猛暑にめげず予定は全てコンプリート!無事帰京

2016-07-04 22:13:53 | 
 少々無謀なチャレンジだった785段制覇の後遺症・筋肉痛でふくらはぎが酷く痛む。起床後は恒例の足湯で揉みほぐすが、なかなか元通りにはならない。今日もいいお天気どころか朝から燦燦と太陽の陽射し。予想気温は35度に達するかもしれないとのこと。

 レストランでビュッフェの朝食。郷土の味が沢山。じゃこ天や五色素麺を頂く。ジュースはフレッシュなオレンジの絞り立て。ちょっと苦味があるが、それがまた食欲をそそる。美味しい。ジャムも柑橘類のホテルメイド、美味である。
 熱中症予防のため水分もたっぷり補給し、荷物をまとめてチェックアウト。荷物を預けて身軽になったら、まずはホテル傍にある「坂の上の雲ミュージアム」に向かう。朝9時から開館という嬉しさ。
 「坂の上の雲」はいわずと知れた司馬遼太郎氏の長編歴史小説だが、NHKが足掛け3年間に渡ってドラマ化したのが記憶に新しい。放映開始当時の2009年11月末は、ちょうど再発治療で休職中。ご贔屓の阿部ちゃんが秋山真之の兄、好古役を演じていたこともあり、録画してワクワクしながら視たのだった。

 タキソテールの副作用で緊急入院、から自宅に戻ったばかりで体調は最悪だった。3年後の完結編まで見届けることが出来るのだろうか、などと半ば冗談でなく心配したものだった。

 それが2011年末の完結編はおろか、その5年後の現在、松山のまち全体を屋根のない博物館とする「フィールドミュージアム構想」の中核施設である、2007年開館のこの美術館にまで足を延ばしているのだから、我ながら大したものだ。
 一歩足を踏み入れると、なぜかとても懐かしい雰囲気。建物は三角形の大胆な形状をしており、展示フロアは2階から4階。各階はスロープで結ばれている。小説の冒頭の語りからスタートし、知らないうちに坂の上の雲を目指してなだらかな坂道を登っていくような作りになっていて、いい感じ。1968年から1972年までの新聞連載全1296回分が壁一面にプリントアウトされていたのは圧巻。

 司馬遼太郎氏直筆の原稿を見たり、騎兵隊で有名な好古が乗っていた馬の模型に跨ってその高さを体験してみたり。いや~、来られて良かった。10時からはミュージアムカフェもオープンして、土日限定「ふるさとの空」というスイーツも供されるということだったけれど、時間がないので残念だけれど、ぐっと我慢。のんびりしていられないということで、もう一人の主人公であった子規の特別展も超特急で見せて頂き、ショップでちょっと買い物をして、僅か小一時間で後ろ髪を引かれる思いで建物を後にした。

 ホテルの部屋からその姿が見えて気になっていた萬翠荘も見学。戦禍を免れ、歴史と風格を備えた国の指定重要文化財。大正11年、旧松山藩主、久松定謨(さだこと)伯爵の別邸として建てられ、皇族方のお立ち寄りの館とされていたという。今は愛媛県美術館分館として利用されているそうだ。

 ミュージアムから緑溢れる道なりに進むと、フランス風の洋館がその優美な姿を現し、絵葉書のよう。池のほとりには色とりどりの紫陽花が暑さにうだっている感じ。2階の居室まで見学する時間はなく、1階の晩餐の間等のみで、我慢。それでも日本初のマントルピース、素晴らしいシャンデリアやステンドグラスを拝み、大正浪漫溢れる雰囲気にうっとりとしてため息をついた。

 次なる目的地、江戸時代に建築された天守が現存する全国12城の1つ、松山城へ向かう。徒歩圏内だが、それにしても暑い。日傘を差していても汗が滴る。帽子も被らず、丸腰の夫はちょっと気の毒。坊ちゃんのコスチュームを身にまとった係員の方たちが、券売機の前で大勢の来館者をさばいていた。

 ロープウェイ・リフト往復はどちらを選んでもOK。ちょうどロープウェイが発車間際だったので、そのまま乗り込む。車中ではマドンナの衣装を着た女性係員が案内してくれる。どこにでも入りたがる私は「ロープウェイを降りても、お城までは坂道を結構歩くし、遠いし、あとの時間を考えると急がないと。」と、以前訪れた夫から釘を差され、天守閣入場は諦める。

 それにしても暑い。34度だという。青い空に青い海、でどこを撮っても写真は映えるが、うだるような熱風にだんだん顎が出てくる。天守閣とマスコットキャラクターのよしあきくん(加藤義明公)と、ツーショットの写真を写して、早々に引き上げる。帰りは重要文化財の門の前で、槍を持って鎧兜に身を包んだ(どれだけ暑いだろう・・・熱中症にならないとよいけれど、お気の毒にと思う。当時のサウナスーツといったところか。)方たちと記念写真。

 ここでしか頂けないという“いよかんソフトクリーム”を頂き、水分も摂って、しばし売店内で涼む。帰りは一人乗りリフトで。日傘がさせず、僅か数分の空中散歩の間でもじりじり肌が焦げる感じ。暑い。水を飲んだら今度は塩気が欲しい。

 帰路は愛媛物産館で“蛇口をひねるとみかんジュースが出る”いう、観光客のフォトスポットでジュースを頂いて喉を潤す。美味しかった。
 秋山兄弟生誕の地も入館する時間はなく、門の外から記念写真を撮っておしまい。残念。そして、一日数回運行されている坊ちゃん列車に乗ろうと駅へ急いだのだが、運悪く運休。そのまま普通の市電に乗って道後温泉リベンジに向かった。車内の冷房が本当に涼しく、生き返る感じ。

 10分少々で道後温泉駅に到着。真っ暗だった昨日と比べ、燦燦と明るく雰囲気がまるで違う。まずは入浴を済ませてしまおうということに。「本当は霊の湯の個室席がいいのだけれど、10年前に息子と一緒に訪れた大広間を見てみたいでしょう。」と夫に言われ、札場で神の湯2階券を購入。当時は、湯上りにお茶と坊ちゃん団子が供されたのに、お煎餅になってしまったと夫がブツブツ言っている。

 下足箱に靴を入れ、改札で入浴券をもぎってもらって急な階段を上がり、2階のお休み処に移動。当然冷房はなく、かなり暑い。館内写真は撮れないというのが残念。息子と一緒に来た10年前は撮れたのだけれど、とのこと。ゆかたを貸して頂いて、籠と座布団のある場所に案内される。記念に浴用タオルを購入。いい香りのみかん石鹸がセットになっている。

 籠には何か目印を置いて席を立ってくださいね、といわれ夫と別れて浴場までの通路に案内される。女性には更衣室があり、ゆかたを汗取りに使った後着替えにお使いくださいとのこと。お風呂は1階。銭湯感覚でフレンドリーな雰囲気。お昼だからか、それほど混んでいない。地元の年配の女性が数人。だんだん観光客らしき方たちが入ってくる。

 丁度良い大きさに丁度良い湯加減。いいお風呂である。脱衣所にはドライヤーが3分10円、マッサージ機が20円と、10円玉の威力を感じさせるお値段設定でレトロさに和む。

 なかなか汗が引かないまま2階に戻ると、夫は既に団扇片手にお茶とお菓子では足りずに牛乳を飲んだ後。さらにサイダーもなどと言っている水タンクである。私も懐かしのフルーツ牛乳を頂く。日本人でよかったと思う瞬間である。それにしても暑い。ずっとここで涼んでいるわけにもいかず、意を決して着替えへ。女子更衣室とある小部屋には、期せずしてエアコンが入っていた。この汗だくでどうやってストッキングを履こうと思っていたが、ほっとする。

 温泉を後にして、向かいの麦酒バーで湯上りビールと洒落込んだ。夫は「坊ちゃん」という名前の道後ビールを、下戸の私は無粋だが、有機栽培オレンジジュース。じゃこ天をおつまみに塩分摂取。美味しく沁み渡る。暑くてとても食欲はないと言いつつも、冷房の効いたカウンターでお腹が空いてきたという夫は鯛茶漬けを注文し、私もちょっとお相伴。

 当初の予定ではこの後、古民家カフェに行ってお茶をして帰るだけだったのだが、突然夫が「近くに八十八箇所の札所のいいお寺があるので行ってみないか。」という。う~ん、暑いし無理しなくてもと思ったのだが、息子が病気療養中だった私に初めて病気快癒のお守りを買い求めてくれたところだと聞き、では、とタクシーに乗り込んだ。

 初乗り料金ですぐに到着。団体さんが来ており、お遍路さんの姿も沢山。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもあるという。立派な山門があり、ちょっと独特の雰囲気の熊野山虚空像院石手寺は第51番札所である。ご本尊の薬師如来様にお参りを済ませ、タクシーを呼んで駅まで戻る。残された時間はあと30分。

 それでも諦めずに予定通り古民家カフェへ急ぐ。1階は愛媛県産の優れものを扱う、というコンセプトのセレクトショップ。2階がカフェだ。階段は急で、建物は80年も経っているそう。格子戸のガラスがやや歪んでいて年代を感じさせ、風情がある。ちょうど3時。坊ちゃんやマドンナが出てくる駅前のカラクリ時計を、窓から見られてラッキー。手作りケーキと美味しい紅茶を頂いて、あわててお支払いをして市電に飛び乗る。

 予定したより1台早い市電に乗れ、ホテルで荷物ピックアップ。リムジンバスも1台前のものに乗り込めた。30 分ほどで空港到着。近くて便利だ。

 チェックインしてすぐにお土産品を調達。同時刻に福岡、伊丹と東京行きの3便がかぶっていて、保安チェックが長蛇の列。ラウンジでお茶をするのは諦めて列に並び、定刻どおり無事乗り込む。やはり行き(の高松)よりも遠いね、と言いつつ風景を楽しみながら定刻に羽田に着陸。夕食を済ませてリムジンバスで自宅最寄り駅へ向かった。日曜夜ということで渋滞もせず、スムーズに到着。最寄り駅周辺も、うだるような暑さの残りがまだ蔓延している感じ。

 簡単な買い物を済ませてタクシーで帰宅。すぐに荷物整理と洗濯を済ませ、翌日の仕事に備えてブログアップは諦め入浴、就寝。ふくらはぎが痛むままバタンキュー。力尽きてあっという間に寝ついてしまった。あぁ・・・・。


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