中さん

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日記(8.8)

2022-08-08 13:38:07 | 日常
8月8日 (月曜日) 晴れ 酷暑

5.6日と一寸涼しかったが
昨日からまた激暑が戻った関東埼玉熊谷の地。
朝の一時間だけ畑で野菜収穫をして、あとはクーラの効く部屋に閉じこもる。
野菜も雨が降らないとキュウリがまっすぐ伸びない。ナスもつややかな肌が荒れる。
かぼちゃとバターナッツはそれなりにとれているが料理は面倒だ!

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この時期になると伯父が経験した戦争の話を聞きかじったことを
思い出す。もっとしっかり聞いておけばよかったと思うが
あまり多くは語れなかったのであろうな!何もわからずに2.26事件に参加させれれたらしいが
南方に戦線、ガダルカナルに行くと決まったときに本当に覚悟したとか言っていたなあ~!
この時期、記事も不戦への思いを語っている。
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上毛新聞のコラム
 ▼〈八月や六日九日十五日〉という有名な俳句がある。
 広島と長崎への原爆投下、終戦の三つの日付を挙げながら、
 不戦の誓いを詠んだものだ。
 類似句が多数あって「詠み人知らず」とされるが、
 死者を悼む特別な月である
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 ▼『ゲゲゲの鬼太郎』の作者として知られる水木しげるさんは1943年に徴兵され、
  過酷な戦争を生き抜いた。
  自らが体験した軍隊の不条理、戦場の姿を『総員玉砕せよ!』に描いている

 ▼鳥取連隊で初年兵教育を受けてラッパ卒に。
  だがいくら訓練しても情けない音しか出ない。
  配置転換を申し出ると「南がいいか北がいいか」と聞かれた。
 「南です」と答えると、激戦地ニューブリテン島のラバウルへ送られた
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 ▼のんびりした性格で、およそ軍隊には向かなかった。
  失敗しては殴られ、付いたあだ名は「ビンタの王様」。
  漫画では平手打ちの場面が「ビビビビン」という効果音で描かれる
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 ▼折り紙付きの劣等兵は危険な方、危険な方へと送られた。
  ついに敵襲を受け、10人の分隊は水木さんを残して全滅。
  海を泳ぎ、密林を抜けて命からがら戻ったが、上官の第一声は「なぜ死なずに逃げたのか」
  脳天を殴られたような衝撃だった
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 ▼左腕を失ったが命をとりとめ、終戦を迎えた。
  高崎歩兵十五連隊を描いた「ダンピール海峡」という作品もある。

  ことしは生誕100年。
  妖怪漫画家としての功績にあらためて光が当たっている。
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メモ
ダンピール海峡の悲劇
ニューギニア東部のラエには、すでに第五十一師団の一部が派遣されていましたが、
 連合軍がブナ地区を制圧するにおよび、いよいよラエ・サラモア地区への
 侵攻が現実味を帯びてきたことから、第五十一師団の残余部隊をラエに
 送り込むことが決定されます。
 1943年2月28日、駆逐艦8隻に護衛された輸送船8隻の船団が、
 第十八軍司令部と第五十一師団の残余部隊約7000人を乗せて、
 ラバウルからニューギニアのラエへ向かいました。

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しかし、敵の航空優勢下における輸送船利用は危険極まりないものであり、
 この船団は1943年3月2日から3日にかけて、
 ダンピール海峡で連合軍(米豪)航空隊による集中攻撃を受けることとなります。
 B-17、B-25、A-20、ボーファイターといった連合軍航空機の攻撃により、
 輸送船は全滅。駆逐艦も4隻が撃沈されました。
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船舶から脱出できた生存者らは、ボートや艀、筏に搭乗し、
 あるいは残骸の浮遊物などにすがりついて漂流しますが、
 連合軍は、これらの漂流者を航空機、PTボート(魚雷艇)により攻撃します。
 この残敵掃討は5日に至っても続いていたようです。
「合衆国海軍作戦史」には、日本兵は降伏しなかったし、海岸は泳いでいける距離にあるし、
 ラエの日本軍守備隊に合流するのも防がなくちゃいけないし、
 とか割と言い訳がましいことが書いてあるのですが、
 まあ、何とも惨たらしい話ではあります。
 歴史群像No.143には、ダンピールの悲劇を生き延びた
 岩田亀作氏へのインタビューが載ってますので、少し引用します。
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「突然、ヂュヂュヂュン……と水しぶきが上がりました、敵戦闘機の銃撃です。
 六機くらいが旋回しながら三〜四回反復して去っていくと、
 あれほど浮いていた味方将兵の頭が二〜三名しか見えません。
 今度は海底から何かヅシーンと突き上げてくるような強い衝撃を感じました。
 味方駆逐艦の爆雷攻撃です。その後、
 また、敵戦闘機の機銃掃射が浴びせられかけました」
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日本陸軍はこの船団で6912人を出航させましたが、
 そのうち約3600人が死亡しました。
 118人は捕虜となり、オーストラリアの捕虜収容所へ送られています。
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最後に戦争ってイヤですね。
などと前回と同じ普通すぎる感想を漏らしてみましたが、
 それだけで終わるのも何なので、少し追加情報を。
「ダンピール海峡の悲劇」やガダルカナル島への輸送失敗により、
 輸送船の行動が危険であることが判った日本軍は、
 以降、駆逐艦による夜間輸送を行なう「鼠輸送」、
 小型舟艇による「蟻輸送」など、苦し紛れともいえる輸送方式を考えます。
 当然、輸送量には大きな制限が加わり、また他にも色々と問題が噴出しました。
 結局、これらの輸送方式は、制空権・制海権が奪われた状況下では、
 有効な攻勢や防衛を行なうだけの補給は不可能であるという、
 単純な事実を知らしめることとなります。
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そういえば、ニューギニアに送り込んだ3個師団中の残る2個師団について
触れてませんでした。
2個師団、第二十師団と第四十一師団は「ダンピール海峡の悲劇」後に送り込まれます。
 米軍の航空威力圏を避けて上陸に成功するものの、
 戦域から遥かに離れた地点に到着したため当面の役にはたたず、
 ラエ・サラモアの陥落は確定的なものとなりました。
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コメント
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