中さん

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日記(8.23)

2022-08-23 14:22:10 | 日常
8月23日 (火曜日) 晴れ 蒸し暑い

中玉トマトのかたづけを朝のうちに行った。
20本程あったので結構手間取った。結構な木になっている。
キュウリが30本以上獲れる。ナスも次第に元気が出てきた。
第二畑の草刈りが手間取った。かぼちゃの蔓を整理する時に5個収穫。
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毎日新聞のコラム欄
  岩手出身の平民宰相、原敬は「一山(いつざん)」と号し
  落款印に「一山百文」と刻んだ。
  戊辰戦争時に新政府軍が東北を蔑視して使ったとされる
「白河以北一山(しらかわい ほくひとやま)百(ひゃく)文(もん)」をあえて用いた。
  藩閥政治を嫌った反骨精神の表れだった
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▲高校野球史で優勝旗が「白河の関」を越えたことがないと聞くたびにこの逸話が頭に浮かび、
 早く「白河越え」をと願ってきた。
 冷静に振り返れば、力の差というより、運に左右された面がある。
▲1915年夏の第1回大会決勝。秋田中が京都二中を八回表までリードしながら、
 守備の乱れで追いつかれ、延長十三回にサヨナラ負けした。
 勝負の女神のほほえみ次第でジンクスは最初からなかったかもしれない
▲戦後も69年決勝で太田幸司(おおた・こうじ)投手を擁した青森の三沢が
 愛媛の松山商との延長18回の激闘の末、引き分け再試合で涙をのんだ。
 2年後には福島の磐城が「小さな大投手」と呼ばれた田村隆寿投手の大会唯一の失点で大魚を逃した。
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▲仙台育英が下関国際を破り、頂点に立った。
 89年に延長戦で敗れ、2015年は同点の最終回に突き放された。
 01年春も猛追及ばず1点差の準優勝だった。
    コロナ禍の中で高校生活を送った選手たちが4度目の挑戦で「100年開かなかった扉」(須江航(すえ・わたる)監督)をこじ開け、歴史を作った。
▲21世紀の東北勢は春夏の決勝に計9回進出し、他地域にひけをとらない。
 今大会の4強には福島の聖光学院も残った。「白河の関」の呪縛が解けた東北勢が今後、
 さらに多くの優勝旗を手にしても誰も驚くまい。
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白河の関から上が東北なんだ。

 新聞も”河北新報”がある。河北春秋には
 その瞬間が訪れた。高校野球甲子園大会の・・
 その瞬間が訪れた。高校野球甲子園大会の優勝旗を東北で初めて仙台育英が勝ち取った。
 太田幸司、田村隆寿、大越基、ダルビッシュ有、菊池雄星、吉田輝星-。
 高校球史に残る決勝の主役も届かなかった全国の頂点である。
▼大旗の「白河の関越え」に意味はあるのか。
 東北はともすれば「遅れた地域」のイメージがつきまとった。
 甲子園でも、敗色濃厚の終盤に安打が出ると、
 実況者が決まり文句のように」と「これが東北人の粘りでする絶叫する」
 時代があった
▼21世紀、時代は変わる。東北のチームは2001年以降、
 今回を含め春夏で9回、決勝に進んだ。
 判官びいきなど吹き飛ばしたが、「東北初」の重荷は残った。
 「白河の関」を持ち出すならば、呪縛からの解放である
▼実は近年、東北勢の優勝は遠くなったと感じていた。
 超強豪校のエリート大型化がより進んだからだ。同じ土俵では分は悪い。
 1点をもぎ取る走塁力、緻密な守備、多数の投手、野球脳。
 育英ナインは自分たちの土俵をつくり、その上で打力など総合力を高めた。そう見た。
▼「100年開かなかった扉が開いた」(須江航監督)。

  東北の人間として「ありがとう」と伝えたいが、
  最も大切なのは彼らの努力が結実したことだ。
  まず一番に贈る言葉は、おめでとう
コメント
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