マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大陸の病

2010年08月21日 07時35分21秒 | ぽつりと
モンゴルから出国して中国へ渡った次男から電話があった。

しんどいからと地元の医者に診てもらったら「即刻国に帰れ」と言われたそうだ。

なにやらが欠乏しているらしい。

電話口の声ではそのしんどさは伝わらないし歩ける状態。

往複船便の切符を持っているが船では発着日もあって時間がかかり過ぎる。

飛行機で帰らざるをえないぐらい急を要する。

ところがその航空運賃を費やすお金がない。

えらいことになったと話す。

それだけ連絡があってプツンと切れた。

電話口に出たかーさんはオロオロ。

飛行機で中国まで飛んで行きたいというがどこにいるやら判らない。

北京、上海それとも・・・。

キャッシュカードも持っていない次男。

送金しようにもどうしようもないが調べてみた。

送金には郵便もあるらしいが日数がむちゃかかる。

長男の話では航空便なら早いというが、調べてみりゃこれも数日かかる。

それからも電話はかかってこない。

行方は相変わらず不明だ。

海外で困ったらどうするか。

そのために海外保険も加入しておいた。

治療費や緊急帰国の費用は後払いで出るらしい。

今、必要なのは航空運賃だ。

保険会社で立て替えてくれはしない。

それならばと、日本大使館に救いを求めた。

翌朝に電話した。

なにやら流れるテープの声。

数時間後にかけたら簡単に繋がった。

まだ時間が早かったのだ。

事情を伝えた。

そうしたら担当官は次男が居る処へ行きましょう。

海外保険も手続きしましょうと返事が返ってきた。

救いの手は北京にあったが、次男の所在は未だ知れず。

昼過ぎに電話が入った。

昆明に居て飛行機で上海に向かうという。

切符代はどうしたのかと聞けば、よれよれ切断状態の為替を紙に張り付けてみれば通貨換金できたという。

なんということか。

そういえば国内でもその対応が可能だと存知している。

万国までとはいかないが共通なのだと認識した。

で、上海経由で翌日の21時には関西空港に着くという。

コレクトコールの方法も教えてくださった大使館の担当官。

その方法で大使館に連絡した次男。

それから1時間後、担当官から電話を受け取ったと知らせてきた。

翌日にも担当官から連絡があった。

それによればラオスで病にかかったそうだ。

人民病院で診療を受けた結果、おそらく検査入院であろうと一週間の診断。

下痢症状も併発しているという。

発疹も症状のひとつ。

入院措置をけって帰国の道を決めたことから、緊急帰国の要請だった。

この日のうちにラオスから上海。

そして関西空港へと手続きは進んでいるそうだ。

帰国するのは夜8時半ころだが出国できるかどうか判らない。

かーさんはそれでもと関西空港にでかけた。

飛行機は無事に到着したらなんとケータイが繋がった。

そこで見た発疹も見られない次男の顔に涙ぐむ。

日本での病院探しはこれから始まった。

天理のよろず病院で診療を受けたが特になにも検出されなかった。

自然治癒して病原菌は消えていたそうだが念のため細胞検査をすることになった。

それから2週間後の29日。

病院から結果が判ったと連絡があった。

デング熱(病)だという。

中国へ渡ってから熱があった。

それが始まりだったのかもしれない。

2度目の発病がラオスであったのだろうか。

次男はなんとか無事に帰ってきたが、海外へ旅する人はどう注意しなくちゃならんのだろうか、私では判らない。

(H22. 7.13 記)
(H22. 7.16 SB932SH撮影)

大保八坂神社祇園祭の夏祭り

2010年08月20日 07時44分02秒 | 奈良市(東部)へ
七月ともなれば祇園さんと称する夏祭りが各地で行われている。

奈良市の大保町に鎮座する八坂神社も同時期に祭礼がされている。

とはいっても、祭祀されているのは十二人衆で組織される方々だ。

祭礼の祭りごとは長老の老主と副老主。

羽織袴姿の十人衆(オトナ衆とも呼ぶ)はいつもの通り、サカキを口にくわえて神饌を賑々しく運ぶ。

祇園祭における御供はソラマメを茹でたコフキマメ。



当家主が一升用意する。

地区の世話人が進行役を勤めて、修祓、祓えの儀など神事は淡々と執り行われ、夏の疫病にかからないよう祈った。

祇園祭は14日であったが、集まりやすいその前の週の日曜日に行われている。

神事を終えると社務所で一服。

これから始まる直会の料理支度は当家主の役目。

これもいつもの通り供えられた2尾の半身シメサバを切り身にさばいていく。



「料理人だったらもっと綺麗に包丁が入るのだが、いかんせん素人やしと言いながら」料理されて座敷に差し出し、コフキマメとリンゴは袋に入れて持ち帰り用に詰められた。

(H22. 7.11 EOS40D撮影)

電動サイク周回試車

2010年08月19日 08時09分58秒 | いどう
電動自転車は初めての体験。

ときおり追い抜かれてしまう電動自転車の威力を確かめるには乗るしかない。

試車する機会が突然やってきた。

これにはGPS記録もセットされている。

走った距離どころか速度も記録される。

留まっていればその時間まで算出される。

であるならばだ。

郡山の名所旧跡を一回りするにはどれぐらいの時間がかかるのか試してみようとサドルに跨った。

バッテリーの保ちはどうだか。

坂道を走っていて、突然にバッテリーがなくなったらと思いスイッチはオフにした。

まずは一直線に南へ。

金魚卸し売りセンターを抜けて筒井の町へ。

城跡周りの蓮畑を巡って市場へ行く。

快適な走りだが暑さでノドはカラカラ。

オークワで急遽お茶を買った。

そのタイムも記録されるであろう。

今度は西へ向けた。

どうせならと、今国府の杵築神社と小林町の杵築神社を巡った。

その足で小泉神社へ。

その前には庚申さんの金輪院へ。

なにやら灯籠に名前が記されている。

何度も来ていたが気が付いたのは始めてだ。

後日にそれは聞き取りしたい。

そして向かった先は山の上の松尾寺。

山田町からはダラダラ坂。

ところが急に勾配がきつくなってきた。

それを予期して小泉町から電動をオンにしていた。

途中まではスイスイ行く。

だが勾配はそれを越えていた。

杵築神社の前辺りからはローにしてもペダルが重い。

なんや、電動が効いとらんやないか。

神社を越えてからはさらに急勾配で長い坂道が続く。

とてもじゃないが松尾山までは無理と断念。

しからば北に向かって矢田寺を目指す。

新興住宅を抜けて郡山球場上に出た。

ここからは矢田寺の駐車場。

なんとかこぐが足に力が入らなくなった。

そりゃそうだまったくといっていいほど休憩はとってないのだ。

帰りの時間が気になり出す。

駐車場手前の坂道はきつい。

それでも登り切った。

バッテリーは半分に減っていた。

戻りの坂道はオフにした。

汗が風でぬぐわれる。

里へ下りて矢田坐久志玉比古神社。

そして東明寺を目指して坂道を登っていったがこれもきつい。



さすがにお寺まで届かず、朽ちたカンジョウナワを見届けて再び下った。

少年自然の家を通過して民博駐車場を抜け外川の八幡神社。

九条の町を経て植槻八幡神社から塩町、魚町、茶町。戻っていたらお尻がグショグショ。

汗が染みついていた。

走行距離はいくらであったかGPSを見れば電源がオフになっている。

あららだ。

距離は判らないが、みっちり2時間の周回だった。

(H22. 7.10 SB932SH撮影)

田植え終いのフキダワラ

2010年08月18日 07時54分34秒 | 山添村へ
山添村北野で農業を営むIさんの奥さんが、田植え終いのフキダワラを再現してくださった。

9時、10時の朝からキンズイに持っていくおやつがフキダワラ。

皮を剥いたソラマメと一緒にお米で炊く。

塩を少々入れて水から炊いている。

炊けば青い色はなくなる。

炊きたてのご飯をフキの葉に入れて包む。

フキの茎は端から皮を剥ぐようにぴーっと引っ張って紐のようにする。

それを使ってほどけないように括っていく。

熱いご飯の熱でフキの葉が直ちに黒ずんでくるという。

そうするとフキの香りがご飯に移る。

畑仕事をしていてお腹が空いたらフキダワラをひろげて食べる。

昼からは昼キンズイというて午後3時頃に食べた。

その時間を「オマチカネ」と言っていたそうだ。

田植え終いにはオツゲ(ウツギの訛り言葉)の花を田んぼに添えた。

真っ白な花を咲かせたオツゲの木は植え初めと同じ位置に挿す。

その傍らにはキンズイのフキダワラを供える。

オツゲの木はヤナギのように枝垂れていると自宅前で再現してくれた。

おやつにはスリヤキもしていた。

オヤキとも呼ばれていたスリヤキの原料は小麦粉。

砂糖を入れて水溶きする。

粘った状態になったらフライパンでスリスリ(平たく)に焼く。

ホットケーキの素が登場してからはそれになった。

それでアンマキも作っていたと話すIさんは80歳。

お茶摘みの人たちには四つ切りにしてあげたと懐かしそうに語られた。

(H22. 7.10 EOS40D撮影)

北野で聞いた行商

2010年08月17日 07時31分52秒 | 民俗あれこれ(売る編)
採れたもんは朝4時に出荷していた。

5時には市場へ持っていった。

八尾や京都、神戸、大阪までお父さんが運んでいたと話すIさんの奥さん。

「おまえはどこから来たんや。『大和から』と言うたら驚かれた」という。

大阪では通天閣の灯りを見てから京都に行った。

着いた時間は朝5時だったそうだ。

どんどんと荷物が汽車でやってくる。

それを見届けてから帰宅していた。

I家は山添村北野で酒屋をしていた。

それ以外のモノも売っていた。

奥さんは始発のバスに乗って奈良から近鉄電車で鶴橋に買い出しをしていた。

サバやおジャコを買っていた。

百匁でなんぼと売っていた。

昭和45年からお孫さんが幼稚園だったというから平成9年ころまで買い出しをしていたのであろう。

現金で支払って、当時の値段は250円だったそうだ。

イワシとか小魚も買っていた。

買ったものは段ボール箱に詰めて風呂敷に包んで担いでいた。

アブラゲ、トーフも買って、段ボール箱の底が湿るのでビニールを敷いていた。

水分がないヒダラ(干ダラ)も買った。

ヒダラは棒ダラだった。

マダラは身が厚かって、値段も高かったけど美味しかったそうだ。

それは水にはめて塩抜きした。

酢をかけて年中食べていたという。

荷物は運賃を取られた。

エフ(荷札)を付けて荷物台を払った。

急行電車で通っていたころ、同業の人たちで車内はいっぱいだったという。

乗り合わせた人には伊勢で買ったおジャコを袋詰めしていたと回顧される。

10日にいっぺんぐらい。

北野の店の売りもんが切れたころに買い出しに行って12時半には帰宅していた。

鶴橋は中卸しの店がずらりと並んでいた。

テンプラ屋さんもあった。

その店の主人はテンプラを食べさせてくれた。

後日に来たときは家で採れた野菜を持っていって礼をした。

子供を連れていったら買い与えることが多なって遅なったと話される。

北野の店にはお菓子も売っていた。

大阪の松屋町だ。

お菓子の卸しや人形の町として知られている。

松屋町は親しみをこめて「まっちゃまち」と呼んでいる。

北野にはお菓子屋さんが出前販売をしに来ていた。

春日井のセンベイとか売りに来ていた。

毎月の集金のときにお菓子を持ってきてくれた。

お菓子を買いにくるのは子どもたち。

クジ付きのお菓子も売った。

三角クジの袋を店前でつらくっていた。

独楽が当たったら子供は大喜びだったそうだ。

鶴橋の買い出しのときに荷物が少なかったら子供の好きなものも買っていた。

当時のその様子を語るIさん。

そういえばといって、行商で使っていた風呂敷を蔵から探し出してくれた。

嫁入りのときに母親が手縫いしてくれた風呂敷。

反ものを4枚繋いだ四角い風呂敷。

これに買いだしたものを包んで近鉄電車、バスに乗り継いでいたという。

腰で支えた風呂敷包みは重たかった。

「ちょっと、そこ。のいた、のいたー」といって市場を通り抜けたそうだ。

結びを肩にかけて買いだししたものを持ち帰った。

木綿糸で縫った刺繍の柄は蛇の目傘をデザインしたものだ。



昭和の年代には近鉄電車で見た行商姿のご婦人たちを思い出した。

(H22. 7.10 EOS40D撮影)

丹生町の風習

2010年08月16日 08時45分51秒 | 奈良市(東部)へ
丹生町には旧地名が残っている。

北野山町との境にはマトバやカンジョウの名がある。

新道ができてからは判りにくくなっているが、そこはまさしく行事がされていたであろう旧地名だ。

マトバは的場。

おそらく弓打ちがなされていたのであろう。

カンジョウは勧請掛け。

悪病が入り込まないように綱(縄)を掛ける場だったと思われる。

トンヤ坂の地名も残っている。

今は布目ダム。

ダムができるまでは布目川だった。

川で運ばれてきた荷物はトンヤ口で下ろして上げていた。

トンヤは問屋の名残であろう。

テラジは寺の跡。

シロヤマは城山。

ヤオトメは山越えの峠道だ。

秋祭りに欠かせないのが半身のサバズシ。

竹の皮を敷いてサバを載せる。

それをくるんで藁で縛り重しで締める。

発酵しかけたサバは焼いて食べるという。

近隣の山添村北野、桐山、的野、峰寺、松尾、室津もその味わいがあるという。

F家の菩提寺は北野山町の明王院。

9月3日はイセキがあるといって当主も行かれる。

町は20軒。

本堂を開けてお供えをする。

村人みんなが寄ってきて屋外で過ごす。

昔は盆踊りをしていたそうだ。

イセキは会式が訛ったのであろう。

また、神社では元服の式典があるというが対象の15歳の子供がいない。

盆踊りは丹生でもしていた。

「丹生はよいとこ 住みよいところ とってんしゃん とってんしゃん」と丹生音頭で踊った。

「喰うに困れば丹生へ行け」と囃したのはトノサマオドリ。

今ではゴウシュウ音頭だけになったそうだ。

お盆の時には「モチヌスミ」の風習があった。

8月13日の晩だ。

その日はガキダナを作って先祖さんを迎える。

ガキダナの底にはドロイモ(サトイモ)の葉を広げて皿にする。

その上にカキの葉に乗せたナスやマメのた(炊)いたん、ナツメ、キュウリに湯がいたソーメンを置く。

傍らにはチョマ(苧麻)で作った一膳の箸。

チョマは水に浸けて柔らかくする。

皮を剥いだら真っ白になる。

ガキダナは縁側近く、戸袋付近に置いて、その横にはタラミ(箕)に乗せたモチがある。

するとガキサンと呼ばれる子どもたちがモチ盗みに来る。

モチをたわらして(賜るが訛って、たばる、さらにたわると訛る)いたと話された。

モチの他には水で練った米粉のオチツキダンゴもあったそうだ。

(H22. 7. 7 EOS40D撮影)

丹生町三日地蔵

2010年08月15日 07時22分16秒 | 奈良市(東部)へ
「お客さんやでー」とか「お客さん来やはった」と言って三日地蔵を迎える奈良市丹生町。

およそ60軒で三日おきに各家を持ち回っていく地蔵さんは、縁側から出て行って隣家の縁側に持っていく。

持っていくときは少しでも軽くするように花挿し瓶の水を捨てておく。

自家や付近で咲いているお花を水挿しに挿しておいた。

F家では三日地蔵を受けたときに野の花のドクダミを挿した。

送られてきたときはやアザミが挿してあったという。

それから一週間も祀っていた。



基本は三日だというがそれぞれの家の事情で一日だったりすることもある。

受け入れてからの日々は湯飲みにお茶と高坏にご飯を供える。

ご飯はダイコンメシと決まっている。

ダイコンやったら地蔵さんが喜びはるからそうしているという。

三度、三度に供えるわけではなく、当家の食事にまかなうご飯を炊いたときになる。

家族構成の関係で一日一回もあれば二日に一回のときもあるがお茶は三度、三度と決まっている。

家の食事で作ったおかず料理も供える場合がある。

アゲ、シイタケ、コーヤドーフ、コンニャク、マメなどをその時に炊いたものやと話す。

魚や肉を使わない煮浸しであって、いわゆる精進料理。

ちなみにダイコンメシの作り方はといえば、千切りしたダイコンを水からお米と一緒に炊くのである。

千切りはナマスと同じ切り方だ。

その際、味付けにというて塩を一つかみいれておくそうで、味はまさしくシオメシ。

また、お汁を作ることもある。

それはやはりダイコンであってみそ汁になるらしい。

ダイコンの葉っぱは供えないが、ジャコと混ぜて醤油、味醂で味付けしてごま油で炒める。

これは家の食事で食べられる。
若いダイコンの葉(ダイコバと呼ぶ)が青々してとても美味いそうだ。

お産の神さんが回ってくるという三日地蔵の風習。

子安地蔵とも呼ばれる地蔵さんは「お産に失敗した人が丹生にはいーひんで。嫁に行った子も手を合わせたらお産をしくじったことがない。」と話される。

どっしりとした厨子に納められた地蔵は二体だそうだ。

引き出しには簪(かんざし)があるという。

傍らに置かれているのは瀬戸物の高坏を収納している弁当箱。

面白い名称だが丹生ではその名で呼ばれている。

この弁当箱の蓋には「昭和5年十二月吉日 今久保」の銘記があった。

当時の大工さんだったというから、その人が作って寄進したものと思われる。

母親から地蔵さんは大事に祀らなあかんと言われていたHさんが話すには、受け取ったら台に風呂敷を掛けてその上に置いていたそうだ。

台はミカン箱でもよかった。

今は座敷机になっているがそれでいいのだという。

隣家のKさんもそういているという。

それにダイコンメシを供えるのは地蔵さんを送る三日目の日だった。

床の間もお供えも違っていたのだとこのとき気がつかれたF家。

夕刻を迎える時間になってきた。

そろそろ行こかといって厨子を背中に担いだ娘さん。

嫁いだ娘さんは実家で同居している。

兄家族もともに暮らすF家は11人家族。

厨子の重さは肩にずっしりと食い込んだ。

「重たい」というたらお産が重くなるので禁句の言葉。

思いかけてもいえない厨子担ぎは家族の手助けを受けて門を出て行った。

三日地蔵を運ぶのは一人で行ったらあかんというが、そのときの家族の状況もあるので臨機応変。

場合によっては旦那さんや息子が担ぐこともあるし、車に乗せていくこともある。

いずれにしても運ぶのは人目を忍んで夕方時間である。

今回の手伝いは小っちゃな息子さん。

出発前には地蔵さんに手を合わせた子供さんだ。

弁当箱を手にして母親に随行した。

縁側で受け取ったK家。

新しい水を入れて花を挿す。

この花は旅だった家が供えたアジサイ。

それはそのままにしておき、線香をくゆらせて灯明に火を点ける。



その夜は地蔵さんにおましてから家の食事になる。

「(地蔵さんに)おまさんと先に食べることあるか」と先代から小言をいわれたそうだ。

(H22. 7. 7 EOS40D撮影)

移転間近のさつき

2010年08月14日 08時41分35秒 | 食事が主な周辺をお散歩
お昼どきに現れた、2ヶ月ぶりに久しく民俗行事の取材はご無沙汰しているK氏と対面して写真談義。

お腹も減ったので昼食の店を探してみた。

こってり中華がいいのか、あっさりお寿司がいいのか。

それとも女性好みの新しいお店に行ってみようかと公団駅前ビル街を通り抜けようとしたらランチ800円の看板が目に入った。

コーヒー付きでその値段に目も輝くがお品書きは「うなぎ丼」。

これで決まりと暖簾をくぐった。

注文はと聞かれたら「お店の前に書かれている、アレ。」と速攻で反応した。

膳に並んだ丼にはゴマ和えキュウリ、冷や奴にみそ汁も付いていた。

サクサク、フワフワの鰻は短冊切り。



がっつり食べて、撮影談義に食がすすむ。

お店のランチは日替わり定食。

毎日さまざまな料理がでてくるという。

昼ころに店前を通ったときに目に入るメニュー。

私の食べたいものばかりだ。

お店は酒坊。

夜向けのお酒が棚に並んださつき店。

来月には向かいのビルに移転される。

(H22. 7. 5 SB932SH撮影)

救急病棟

2010年08月13日 07時01分07秒 | むびょうそくさい
就寝しようとしたらかーさんがお腹をかかえて痛い、痛いと連発する。

症状は極めてひどい痛さでこらえきれない。

夕方、帰宅したときから痛いと言っていたが我慢できる程度だった。

それは昼間から現れていたそうで夕飯も食べる気が起こらなかった。

テレビを見て笑いで気が紛れていたのが消したとたんに頂点に達した。

救急車を呼ばないでほしいと嘆願されて車に乗せた。

それまでに電話で救急医療に確認をしていた。

それなりの医者が居る病院に決めて走った。

道路がこれほどまでにボコボコで、身体に直接振動を与えていることに始めて気が付いた。

呼び鈴を押して院内に入った。

静まりかえった救急病棟。

次男が長男とけんかして風呂のガラス破片を浴びて行ったときもそうだった。

不思議な空間にもてあます時間に心臓の鼓動が音もなく響く。

CTスキャンを撮ってもらった結果、尿路に石があることが判明した。

左右にあった尿路結石。

これが痛みの原因だ。

痛み止めなどの薬をもらって帰った。

が、痛みはとどまることを知らない。

朝まで寝付けなかったかーさんはぐったりしているがどうすることもできない。

それから3時間後。

突然のように痛みが消えたと電話があった。

薬が効いたのかすっきりとした。

溌剌さを取り戻した元気な声にほっと胸をなで下ろす。

それから一週間、なにごともなく生活をしている。

(H22. 7. 4 SB932SH撮影)

修理枝八王子神社夏祭り

2010年08月12日 07時35分01秒 | 桜井市へ
山間部は靄が発生した。

それからは晴れ間もでたが午後からは俄に曇ってポツポツと雨が降り出した。

そのころ桜井市修理枝に鎮座する八王子神社に氏子たちが集まってきた。

神饌を準備する宮司。揃えば拝殿に移す氏子総代。

境内では村人たちが境内の雑草を綺麗に掃除している。

今日は田植えが終わった報告祭を兼ねた夏祭り。

アンパン、ジャコ、コンブや修理枝で採れたナス、ゴボウ、ニンジン、ピーマン、トマト、キュウリを祭壇に供えて始まった。

かつて夏祭りは7月1日だった。

若い人は勤め人。

集まりやすい日曜日になった。

当時はムギのアズキ入りのセキハン(赤飯)をこしらえて供えていた。

二毛作もしなくなってムギが消えた。

それならばと考えられて代替を務めているのはアンパン。

ジャムパンでもなくクリームパンでもない。



こだわりのアズキ餡のアンパンである。

ムギは小麦で作られたパンに変化したわけである。

お供えのムギのセキハンは夏病みせんようにともらって帰った。

それを加減がえーようにと味噌に混ぜていた。

そのような風習はなくなったが自由参拝に村人たちが登って豊作の祈りを捧げた田植え報告祭はサナブリとも呼ばれている。

(H22. 7. 4 EOS40D撮影)