小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



小田原の原風景ともいえるお堀端周辺。春になると通りの桜並木が満開になり、天気の良い日は陽光にお堀の水面が輝く。この風景が小田原に残っているのは、明治末期から昭和の初めまで様々な活動を行った小田原保勝会の功績と言っても過言ではない。その小田原保勝会の記念碑がお堀端に立っていることを知り、先日写真を撮りに出かけた。お堀端の小田原駅寄り。ボート乗り場の脇に高さ70cmほどの記念碑が立っている。この記念碑は大正11年11月にお堀端に建てられたもので、翌年の大正12年9月の関東大震災の時に、お堀の中に落ちてしまったようだ。それから30余年後の昭和31年の11月、二の丸堀の修復工事の際に偶然、水泥中から発見。その後、馬出曲輪跡近くに再建したが、近年この場所に移設された。この記念碑の四面には小田原保勝会の由緒や既成事業が刻まれている。小田原保勝会の発祥は明治37年。小田原小学校男子同窓会員を中心に結成。目的は名所旧跡の保護や雑誌、地図、絵葉書の発行。また景観美化にも積極的に取り組んだ記録が残っている。碑面に刻まれた文字には、この外堀に桜やツツジを植えたことが刻まれている。このほか小田原保勝会の既成事業として、御感の藤の移植や、御幸の浜での煙火及び灯篭流し、居神神社境内への牡丹の株の植え付けなど景観美化や町おこしに積極的に取り組んでいたようである。碑面には小田原保勝会の会員や賛同者の氏名が刻まれている。お堀端に桜を寄付したのは、辻村家6代当主の辻村常助氏で、寄付人名に「桜樹(全部)小田原町へ 辻村常助君」と刻まれている。現在、お堀端に植えられている桜は辻村常助氏が寄付した桜の3代から4代後のもの。小田原保勝会の活動も大正12年の関東大震災を機に衰え始めたようだが、昭和2年に外堀の埋め立て工事が小田原町会で決議された際に、外堀埋立反対同盟を組織して熱心な活動を展開。その結果もあり外堀は埋め立てることなく当時の姿を伝えている。

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