ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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母の日なので・・・母の思い出なんぞ

2005-05-08 10:47:50 | つれづれ日記
今年の「母の日」は母の日どころの騒ぎじゃなくて。
それでも息子が「ママにプレゼント買う」って
言ってくれた時にはとーーーっても嬉しかったのよ。
(たとえ言葉だけでも)

さて、我が母は亡くなってもう10年近くなる。
生れは大正。育ちは台湾。職業は教師・・だったのに
戦後、引き上げてきてからはしがない下宿屋のおかみさん。
エリートでプチブル育ちのお嬢様は一気に転落の
人生を歩むことになったのだ・・・・

そもそもが南国育ちで、しかも血統そのものが九州人だから
やたら楽天的で贅沢で自分の欲望に忠実だった人。
「金は天下の回り物。
使ったっていつか返ってくるわよー。深く考えてもしょうがないわー」

と、通販にハマり、社交(洋服と美容院とお食事代)に全身全霊を傾け、
電話代も気にせず仙台から九州まで週に1度は2時間の長電話をかけた人。
こういう価値観は東北人にはないもので
うちの姑みたいに「何事も我慢。女はひっこんでらっしゃい」の
世界とはかなり趣を異にする。

北国の仙台に住みつづけて30年以上経っても
二言目には「台湾に帰りたいわ」と言って
戦前の楽しい思い出を語り、そのよすがとして
デパートで1個1000円もするパパイヤを買って来たり
お友達がポケットに忍ばせてきた台湾産のライチを
得意げに私に食べさせて「ほら、こんなおいしいもの
内地にはないでしょ。仙台でこんなものを食べているのは
あんただけよ。感謝なさい」と言いつづけた人。

母は戦後、夫について仙台に帰国したあと、
自分の出身女学校(台中第一高等女学校)の同窓生を
捜すのに一生懸命だった。
全国組織の同窓会で東北支部の支部長になり、
以後は、その同窓生達との語らいに夢中になったのだ。
彼女にしてみれば、異国みたいな仙台で窮屈な生活を
送っている事をしばしば忘れさせてくれるのが
同窓会だったということだろう。

私が高校生くらいになった時は母はすでに60代も
後半。それでも社交は続けていたので、月に何度かは
お出かけする(仙台では主婦が出かけるなんてあまりなかった)
その時にいつも「ついてくる?」と声をかけてくるので
「また荷物持ちか」と思いながらもついついついていったもの。

いわゆる「お付きそい」のメリットは
1・・おいしいお料理を食べられる
2・・運がよければ服やアクセサリーを買って貰える
これに尽きる。
母たちがお食事するのは絶対に中華料理屋。
お茶はデパートの最上階。
新年会はホテルで。そんな風だったから、娘としては
華やかな気分と、特別な「味」を味わえるというわけ。
しかも、母は同窓会では支部長で、人気者。
教師時代の教え子達からも慕われていたものだから
「まあ・・お嬢様っ!」って感じでちやほやされる。
いちいちご挨拶して、私の知らない思い出話を聞くのは
苦痛だったけど、
一応見た目のよい服装をさせてもらえたし、
「今時お母様におつきそいするお嬢さんって素敵」なんて
言われるものだからすっかり舞い上がっていました。はい。

おかげさまで
普通の仙台に住む女の子にしては
色々な経験をさせて貰ったし、視野も広がったと思う。
母はどんなに家計が苦しくても
私が本を買ったり映画を見たりという事は容認してくれたし
おいしい物を食べることを止めなかった。

だからこそ、結婚して以来、
旦那の家に馴染めないのだし、あちらからしたら
私は何十年経っても「嫁失格」「母失格」なんだろうと思う。
「家族に奉仕する事こそ女性の幸せ」と
育ってしつけられて来た姑には
私の母の生き方は絶対に認められないものであり、
いまだにいい感情を持ってはいない。

厳密に言うと私と母は相性がよかったとはいえない。
母の後先考えないお金の使い方は頭に来たし
かなり自己中心的な性格には怒りさえ覚えたし。
私が落ち込んで「どん底だわ」といえば
「どん底ならこれ以上悪くなる
事はないんだからいいじゃないの」

なーんて楽天的なこと言うしhiyo_oro/}
(私としては「何とかしてあげるわ」って言って欲しかったの)

でも、今、こんな風にHPやブログを管理し
舞台を見つづけている私は
やっぱり母親に似てしまったんだと思う。
コメント (4)
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