夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 最終回

2010-01-13 15:43:22 | 定年後の思い
私は母の生前の時、お互いの死生観の思いを話し合ったことがあり、
2006年7月23日に於いて、
【 されど長寿、母と私の思い・・♪ 】
と題して投稿していたが、今回、母がラブホテルのような連れ込み旅館を一時経営していたことなど、
発露して加筆している。

【・・
   序章  長寿のお祝い

長年に生きられたお方に感謝して、敬(うやま)う行事として賀寿祝いと称し、
室町時代に於いて、武家礼式を取り入れた頃からある。

還暦(かんれき)・・60歳
「十二支」、「十干」が60歳でひと巡りし、生まれ年の干支に還ることから。

古希(こき)・・70歳
中国の詩人の杜甫の詩の中で、『人生七十、古来より稀なり』から。

喜寿(きじゅ)・・77歳
「喜」の草書体が「七十七」と分解されることから。

傘寿(さんじゅ)・・80歳
「傘」と略体字が「八十」と分解できることから。

米寿(べいじゅ)・・88歳
「米」という字が「八十八」と分解できることから。

卒寿(そつじゅ)・・90歳
「卒」の略体字「卆」が「九十」と分解できることから。

白寿(はくじゅ)・・99歳
「百」という字から「一」を引くと、100-1=99から。

これ以降は、茶寿(ちゃじゅ)108歳、皇寿(こうじゅ)111歳、珍寿(ちんじゅ)112歳以上、
と称されている。

日本では、高齢化社会を迎えている、と昨今、マスコミに騒がしているが、
果たしてと思ったりしている。


            
   第一章  母の思い

私の母が77歳を迎えるにあたって、私達兄妹は喜寿のお祝いをしょう、と話し合った。

母は農家に嫁つぎ、長兄、次兄、私、そして妹のふたりの五人の子供を生み、
私達の父は1953(昭和28)年の3月に死去され、そして祖父は翌年の1954(昭和29)年5月に亡くなった。

農家にとって肝要の大黒柱がふたつ欠けので、まもなく我が家は衰退し、
家計のやりくりも困窮した。
父の妹である未婚の叔母の手を借りながら、女手ひとつで私達5人を育て上げたので、
苦労が絶えない日々を送っていた。

祖父が亡くなった当時は長兄が中学2年で、一番下の妹は5歳であり、
子供には何かしらお金を要したので、
母は何とか世間並みの生活にと、田畑を売り、小田急沿線の最寄駅『狛江』の近くに、
アパートを建てて、我が家の生計の基盤としたのは、私が中学一年の時であった。

しかし、子供たちは中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなり、
母はラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いたのが私が高校一年の時であった。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。
確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私達五人の子供は成人したのである。

まもなく、この地域で10数件あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自裁した。

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。

そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。


この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。


容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたのである。

このことは母は、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのである。


やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい甲で私に言った。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底からおもいながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。


母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私達兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997(平成9)年の初春、母の喜寿を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、なにかしら華やかなさを好んでいるので、
私達兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の初春の頃、死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。


私達兄妹は、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。

母は昭和の時代まで人一倍苦労され、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。


   第二章  そして私の思い

過日、21日の読売新聞の夕刊で、論説委員・穂高芳昭・氏が、

【長寿の称号どこまで】

という記事があり、興味を持って読んだりした。

一部、無断引用をさせて頂きます。

《・・
今の時代、還暦はもちろん、古希(70歳)の年齢では、と祝うとしても長寿祝いの雰囲気ではない。

先日公表された国勢調査の速報で、
高齢者(満65歳)の占める割合が21%に達し、イタリアを抜いて世界一になった。
90歳以上がなんと100万人超。

いまや70歳どころか卒寿(90歳)の年齢ですら、
『古来稀なり』と言えないのである。
・・》

以上、一部を引用させて頂いた。


一昨年の定年退職後のまもない晩秋、義姉とスーパー・マーケットで偶然にお逢いした時、
『お元気そうね・』
と義姉は私に言った。

『お陰さまで・・だけど、退職した今、
せめて10年間だけは五体満足で生かしてほしいが、
後は余生と思っている・・』
と私は言った。

『あらぁ・・そう・・あたしは平均年齢まで生きたいわ・・』
と義姉は言った。

私は年配のお方達が、心身健全が何よりであるが、
身体が多少不自由になっても、目の輝きは失ってほしくないと思っている。

高齢者の一部のお方で、いきがいをなくされた方をときたま見かけるが、
生きている価値はない、と思ったりしている。

高齢者のお方は、少なくとも若い人々から感謝され、
敬(うやま)うようにされて、初めてご年配者と尊ばれる。

惰性に歳月を送るなと思っている。

このようなことを夕食の時に、家内に話していたら、
『貴方のような捻(ひね)くれ者・・70歳は軽く超え、長生きするわ・・』
と皮肉を言われたりしている。

・・】


このように私は少し気負いながら綴っていたが、
高齢者の入門となっている65歳の私は、死生観、長生きするばかり良いとは限らない、
と思いは変わらないのである。

この【 亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。】に於いての特集は、
今回で八話となり、父が死去された後の母の男性との交際などを新たに発露したいが、
いずれ後日に綴ることとし、一端、最終としたい。

                             《最終》




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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑦

2010-01-13 08:49:23 | 定年後の思い
私は小学生の4、5年の時、我が家の困窮していた家計状況期であったが、
母に懇願して百円をねだり、独りで映画館に通い、
今から振り返ると、余りにも私は身勝手な時期のことを綴る。

【 私が映画を観はじめた頃・・♪ 】
と題して、2007年8月23日に投稿している。

【・・
私は東京の郊外の調布市で、昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。

祖父、父が長兄、次兄と生まれたので、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
私の数年後に妹が生まれ、溺愛した様子を私なりに見たりし、
幼児の私は何となくいじけた可愛いげのない子であった。

私のおぼろげな記憶をたどれば、
私が最初に映画を観たのは、小学校の入学前、『長崎の鐘』だった、
と思い返している・・。

この頃は、ラジオからこの主題歌が流れていて、
私の幼児なりに、物悲しさを感じ、涙を浮かべたりしていた。

近所のお寺の境内で、隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。

帰宅の途中、母に手を引かれて歩いていた時、
夜空の銀河の天の川が綺麗であり、
年を重ねた62歳の今の私でも、あのような満天の煌(きらめ)いた星空は一期一会であった。

これ以前に観た映像作品は、祖父が自宅で近所の人達を集めて、
幻灯機で『母をたずねて三千里』を観たのが、幼児なりに記憶があった。

この後、私が小学2年に父が病死し、その後まもなく祖父も死去したので、
農家の大黒柱のふたりがいなくなり、我が家は衰退し、生活に困窮した。


私が小学校の四年頃になると、
映画館にひとりで行き、東映の時代劇の3本立ちをたびたび通いはじめた・・。
『里見八犬伝』、『笛吹童子』、『紅孔雀』等であった。

母に100円を懇願して頂き、子供の入場料が40円で、電車の往復で10円であり、
帰路の街の中華店でラーメンが35円だったのでたびたび食べたりした。
そして、映画館の売店で残りの15円で都こんぶ等を買えたりした。

この映画館は翌週になると大映映画を放映していたので、予告編も上映されていた。

山本富士子、京 マチ子は大人の人すぎて興味がなかったが、
若尾文子、川上康子、八潮悠子を観たりすると、
都会の綺麗なお姉さんと感じたり、まばゆい文化にふれて、子供心にため息をしたりした・・。

そして特に若尾文子には、色っぽいなお姉さん、と私の人生で最初にときめいた人である。

このような映画に熱中しはじめ、
やがて私は大学を中退し、映画青年の真似事まで一時的に過ごしたりした。
・・】

このように我が家が家計が苦しい中、
私は映画観たさに母に百円を懇願したのであるが、母が私の身勝手なことに、
よくぞ百円を出してくれた、と後年の二十歳過ぎ、
恥ずかしく思ったりしながら、母に感謝をしたのであった。


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