東区山根町の聖光寺境内に建立されている「高間壮士之碑」です。
※明治3年春建立。撰文は、阪谷朗廬(さかたに ろうろ:1822-1881)。
※「高間壮士之碑」の前に“高間省三正忠之墓”の石柱が建てられています。
明治元年春・・・で始まるこの石碑、
聖光寺のweb siteにこの碑文の要約が紹介されていますので参照しました。
『高間省三は、この日〔慶応4年8月1日〕に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣一番乗り)。そして次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた。』
(向側に本堂屋根がみえます)
広島護国神社のweb siteを見ているとき、ここで取り上げた高間省三さんが筆頭祭神だったことを知ったのです。
高間省三をNET検索するとWikipediaに、ここ聖光寺に慰霊碑である「高間壮士之碑」が建立されていることが分かったので、ことし訪ねて撮影したのです。
(裕編集の)高間壮士之碑
※明治3年春建立。撰文は、阪谷朗廬(さかたに ろうろ:1822-1881)。
※「高間壮士之碑」の前に“高間省三正忠之墓”の石柱が建てられています。
明治元年春・・・で始まるこの石碑、
聖光寺のweb siteにこの碑文の要約が紹介されていますので参照しました。
『高間省三は、この日〔慶応4年8月1日〕に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣一番乗り)。そして次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた。』
(向側に本堂屋根がみえます)
広島護国神社のweb siteを見ているとき、ここで取り上げた高間省三さんが筆頭祭神だったことを知ったのです。
高間省三をNET検索するとWikipediaに、ここ聖光寺に慰霊碑である「高間壮士之碑」が建立されていることが分かったので、ことし訪ねて撮影したのです。
(裕編集の)高間壮士之碑
3月15日(安芸区のわが家付近)天候:はれ