ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

< 3・11 日本 > №5 安全神話

2011-04-03 | Weblog
 安全と安心、現代日本市民の生活を象徴するキーワードのように、よく使われてきた言葉です。今回の原発事故をみていて、あらためて「安全」とは何か? 参考までに、久米宏さんと池上彰さんの対談、そして堺屋太一さん「全治3年 日本の復興について」を引用します。


<TBSラジオ「久米宏のラジオなんですけど」3月19日放送 ゲスト:池上彰>

久米:あのー。原子力の事故についてはどうお考えですか?
池上:色んな思いがありますが、ひとつ。「言霊(ことだま)」という言葉がありますね。言葉自体が、魂というか霊を持ってる、それ自体がチカラを持っている、というのがありまして、「原子力発電所は『 安 全 』だ」と建設する時に言ってました。
久米:うん。
池上:「 安 全 だ 」というとね、「じゃあ事故が起こったときにどうしよう」ということになると、「いや、『 安 全 』だから、事故が起きた時のことは想定しなくていいですよ。」という論理が、どこかで忍び寄ってくるわけですね。
久米:うん。
池上:海外ですと、「原子力発電は『安全』 だ け れ ど も 、もし何かがあったときの為に周辺の住民の避難訓練をやりましょう」ということをやっているわけです。日本ですと、「避難訓練をやりましょう。」って言っても、「え ? 『 安 全 』 な ん で し ょ ? 避難訓練が必要なモノは作らないでくれ!」という話になるもんですから、結局、電力会社の関係会社の人たちが、住民の役をして、避難訓練をするということになったり、「 『 安 全 』 な ん だ か ら 、二重三重四重の安全対策は必要ないよね?」というある種の「言霊」にとらわれて現実を見ない。その結果、このような、「無様」な結果になっているんだな、という思いはしてますね。
久米:ボクもあれは「ぞっ」としたんですけど、あのー、水蒸気を抜いて圧力を下げる弁がありましたけど、あの弁はもともと付いてなかったんですってね?日本の原子炉には。「そういうこと」(事故)は起こらないから付ける必要はない!って付けてなかったんですけど、海外で付け始めたんで、「それじゃあ付けるか」ってんで、付けて助かったんですよ。危ないところだったって聞いてぞっとしましたけど。

http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20110319


<堺屋太一 「週刊現代」4月9日号>

 福島第一原発の事故の背景には、昔ながらの「基準主義があります」。「役所が決めた基準を満たせば問題はない。事故は絶対に起こらない」とする考え方です。旧ソ連の原発も同様の思想で作られていました。
 対してアメリカやフランスは「確率主義」。事故が起こる確率が、たとえ1億分の1でも存在すれば、そのための訓練をするという考え方です。
 野球にたとえると、日本や旧ソ連は「内野手を鍛え上げれば外野手はバックアップしなくてもいい」としてきた。アメリカやフランスは「内野手が上手でも外野手は必ずカバーすべし」と考える。
 これが大惨事となったチェルノブイリ原発事故と、ある程度で沈静化できたスリーマイル島原発事故の差でもあります。
 要するに日本は、役人のお墨付きが出ると、後は悪い結果が出たときのことを考えない。ダメージコントロールができていません。
 昔の日本海軍は、負け戦を想定していなかったため、ミッドウェイ海戦で空母4隻を沈められてしまった。それと同じ官僚的な基準主義の脆さがあったと言わざるを得ません。

 福島第1原発で最初の爆発事故が起きたとき、別の建屋のなかで作業に当たっていた下請けの方の手記を読みました。瓦礫をかき分け、這って安全棟までたどり着かれたそうです。うかつなことに、どこで見つけたのか、わたしはさっぱり分からなくなってしましました。
 記憶をたどると、東電には非常時のマニュアルがなかったという。なぜなら「絶対に安全なんだから、そのようなマニュアルもなければ、非常時作業訓練もして来なかった」。確かそのような内容だったと思います。電力会社は、爆発などという「危険」を微塵も認めてはいけないのです。「安全神話」は、現代の大いなる虚構ではないでしょうか。そもそも「神話」は太古の記憶であって、現代と未来には通用しません。
<2011年4月3日>
コメント (2)
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