<『都名所圖會』再板版>
さてここからは、石峰寺の五百羅漢が造られてからの記述を、時系列で追ってみよう。初出は天明六年(1786)に刊行された『都名所圖會』再刻版である。その六年前に発行された『都名所圖會』初版が、まず大ベストセラーになり、若干の変更を加えて後に再板再刻発行された。
初版刊行時には、羅漢建造は進行中であった。そのため図にも本文にも羅漢の記載はない。ところが天明版再版では、「近年当百丈山には石像の五百羅漢を造立し霊鷲山のここにうつれ」と山上の図の余白に記され、羅漢が並んでいる。
この記述は、意味のわかりにくい文だが、「近年、百丈山・石峰寺に石像五百羅漢が建立された。お釈迦様がかつて仏法を説いたところの霊鷲山(りょうじゅせん)よ。インド・天竺よりここに移り来たれ」という意味であろうか。
本文の一部を現代語で紹介すると、「開山は黄檗の六世千呆(せんがい)和尚なり(退院の後この地に住す)。…また左右に聯あり、ともに千呆の筆なり。表門の額は即非の筆にして、高着眼と書す。」
このページに、石峰寺の朱印がふたつ押されている『都名所圖會』再刻版を発見した。筆者が偶然、京都府立総合資料館でみつけた押印本『都名所圖會』再板全六卷だが、持ち主はかつてこの本を御朱印帳として利用し、京の各寺を巡っておられた。面白い発想だと思う。全冊に押された印を調べてみたが、寺社等の数は六十八、印判は百六十六個にのぼる。印章から推定するに、押印の時期は残念ながら江戸時代ではない。後世それも昭和十年ころの、巡礼行脚だったようだ。寺社以外にも、宇治橋の通圓茶屋、一条戻り橋の御餅屋山口五兵衛、方広寺大佛前の餅屋隅田屋の印まで押してある。相当の甘党だったのでしょう。ところでこの本は、傷みの少ない美本。持ち出すときには大切に扱い、自宅では仏壇に納めておられたのではないかと想像してしまった。
<『拾遺都名所圖會』>
『都名所圖會』再刻版発行の翌年、天明七年(1787)には『拾遺都名所圖會』が刊行された。都名所図会がたいへんなベストセラーになったため、柳の下のドジョウを狙って、続編が出たわけである。このあたりの思惑は、現代の出版事情とかわらないようだ。以下本文を意訳する。なお本冊に図はない。
「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
安永年間は十年間であったので多分、安永五年(1776)であろうか。若冲六十一歳、還暦のころに制作を開始した。昔の年齢は数えなので、還暦は六十一歳である。
そして天明のはじめ、六十六歳か六十七歳の時、おおよそ五年か六年ほどの歳月をかけて、第一期の造作を完了したと思われる。
石峰寺の石像群は五百羅漢と呼ぶにふさわしくない。このことは何人もの先学が指摘しておられる。明治期以前には千体以上の石像が後山にあったのだが、それを五百羅漢と称した原因は、最初に若冲が完成させた初期石像群が、上記のごとく、五百体余であったからであろう。
<天明七年石峰寺図>
石峰寺の五百羅漢についてのもうひとつの古い記述は、天明七年(一七八七)の小川多左衛門の書付である。石峰寺が所蔵する掛軸画「天明七年石峰寺図(仮称)」の裏面に貼られていた。「洛南深草石峰禅寺/有石佛五百羅漢/予命画師令寫祈置也/山科梅本寺主俊類和尚依需/為亡息悦堂祖閣居士/菩提喜捨正与者也」。子息の菩提を弔うために、画師に依頼して石峰寺の五百羅漢を描かせ、山科の梅本寺に寄進したものであるという。
天明のはじめに釈迦牟尼を五百羅漢たちが取り囲む景観が完成した後、わずか五年か六年ほどにして、壮大な数え切れないほど多数の石像群が、後山を覆っている。この図はたぶん、将来計画を含んだ設計図を参考に、若冲工房の弟子のだれかが描いたのではないかと思う。もっと検討が必要だが、おそらくこの画に近い無数の石像群の景観が、石峰寺裏山に出来上がっていたであろう。
ところで小川多左衛門という人物だが、代々多左衛門を名のる本屋である。屋号は小河屋、軒号は柳枝軒。黄檗僧の語録を数多く出版した。
<皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見>
天明八年正月二十八日(1788)、当時の京を代表する儒学者・文人の皆川淇園が石峰寺を訪れた。伏見に住む門人の寅こと米谷金城と、誘い合わせた画家の仲選、すなわち円山応挙や呉月渓らと連れ立って伏見に梅見に出かけたのである。途次、応挙の案内で、深草の石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した。ところで呉月渓とは画家の呉春である。後に応挙の円山派をしのぐほどの評価を得、四条派と称される。
なおこの日、若冲は不在であったが、淇園が釈若冲と記しているのが興味深い。淇園も応挙も、若冲を出家者・僧とみなしているのである。釈は釈迦の弟子であり出家僧をいう。皆川淇園著「梅渓紀行」の五百羅漢感想記の大略は、
境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に「遊戯神通」と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなしと、淇園はいう。
この原文は、これまであまり紹介されていない。参考までに紹介しよう。
路左見一寺ヲ望石表有云、百丈山石峰禅寺、仲選云、此釈若冲造構ヲ成ス、山上ノ石羅漢、皆其レ手刻ヲ成ス、同行之ヲ聞ク、皆往観ヲ欲ス、乃寺ニ入リ、、大路ヲ距テ里許、石磴山門旗杆鐘楼略備ル、境静神清、堂後ノ小山、阪高一二丈、上ニ小竹門ヲ設、扁ノ云、遊戯神通、阪上ニ門ヲ過、門内小径、壑ヲ右ニシ山径ヲ左ニシ、山ニ沿テ屈曲升降八九轉、其間或ハ渓ニ架橋ヲ設、或嶺ヲ繞シ磴ヲ築ク而旁乃置ク石羅漢ヲ羅、或ハ三五、或七八、岩掩林ニ映、高下乱置、率皆高二三尺過不、皆其石質ノ天然ニ因テ、略ク彫工ヲ施、以テ之ヲ為、是以其殊形異ノ状怪ノ貌奇態、往往人意表ニ出、殆ト観者ヲシ為ニ倒絶ヲ令、最後一大臥石ヲ彫、涅槃像ヲ作、左右諸天菩薩、眉目態度、其略刻麁鑿之間、亦皆彷佛哭泣之姿ヲ見、其下獅虎牛馬羊犬兎鶏、大小或ハ倫不者有、然レモ造意之工、無人奇歓者令不、観尽キ則道己ニ於前阪門下ニ到、乃寺門ヲ出、途ヲ南頭ニ取、而復大路ニ就、(筆者による読み下し)
この時には、釈尊が霊鷲山においてたくさんの衆生や羅漢を前に法を説く姿だけでなく、釈迦涅槃の像や複数の橋も完成していたことが知れる。獅子、虎、牛、馬、羊、犬、兎、鶏などの石像もたくさん並んでいた。
ところで、小さな竹の門に「遊戯神通」の扁額があったという記述は興味深い。石峰寺に木版画「城南深草百丈山石像之図」複写がある。米斗翁七十五歳画の行年、藤汝鈞印、若冲居士の印まで揃っている。描かれた諸仏羅漢天女鳥獣たちは、表情豊かで実に楽しい。後山の入口に描かれた黄檗風の門には、「遊戯神通」の扁額が明瞭である。若冲下絵による木版画であろう。なお同寺には、図はほとんど同じだが、扁額「遊戯」の版画もある。
明治十七年刊『石亭画談』では、この版画を紹介している。かなり後世まで、これらの扁額はあった可能性が高い。
「若冲ワンダーランド展」(MIHO MUSEUM 2009年)ではじめて公開された若冲筆の石峰寺「五百羅漢図」には、入口の門扁額に「遊戯」と記されている。画は京都国立博物館所蔵の若冲画「石峰寺図」(扁額は無地で白)によく似ており、制作年はともに同じ寛政元年(1789)とみられる。
「遊戯」の図には賛が記されている。大徳寺僧の大徹宗斗(1765~1828)が「般若大徹叟/額字応需/書之(花押)」と画の右下隅に小さくある。額字の「遊戯」は大徳寺四三〇世・大徹宗斗の書である。賛が書き込まれたのはだいぶ後、おそらく十九世紀はじめであろう。
萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代・石峰寺開山の千呆(せんがい1636~1705)和尚の書があった。大坂の明楽寺蔵の図巻題字「遊戯神通」である。千呆の書「遊戯神通」を、石峰寺後山入口門の扁額に使用したのであろう。なお深草・石峰寺の創立は十八世紀早々である。
<2016年12月13日 南浦邦仁>