ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の謎 第6回 <石峰寺五百羅漢 その3>

2016-12-16 | Weblog
〇お知らせ:TVで「若冲特番」が放送されます。
  BS朝日 12月22日木曜 19時~21時 
  仮題「生命を見つめた絵師 若冲は生きている」
 
 
 
<遊戯神通>
 
 横井清著『中世民衆の生活文化』に、遊び・遊戯・遊戯神通について次のような記述がある。
 橋本峰雄氏によれば、日本人の遊びの精神の転変をつらぬいてその根本にあるものは、実に大乗遊戯(ゆげ)なのであり、それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」の語に表現されるような、仏教的な遊びの精神でありながら、容易に、人生すべて遊びであるという、自由とゆとりの精神として世俗化できるものだという。
 「遊戯三昧」は「思いを労せず無碍自在(むげじざい)に往来すること」、また「優游(ゆうゆう)自在なること」。そして類似の語「遊戯神通」は、「仏・菩薩が神通に遊んで人を化(か)し、以て自ら娯楽する」をいう。
 
 多田道太郎氏は、橋本峰雄氏の「神遊びから大乗遊戯まで」は、ヨーロッパと日本の世俗化の二つの道を示している。そしてこの二つの道は、橋本氏によれば、ともに大乗遊戯の精神にいたる可能性を今日もっているのである。
 
 『岩波仏教辞典』では、<遊戯>(ゆげ)は、仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれないことをいう。漢語の<遊戯>(ゆうぎ)については、『史記』荘子伝の用例で、何ものにも束縛されることのない自由な境地を意味しており、『荘子』逍遥遊に代表される<遊>の思想を踏まえたものであろう。その意味では、書画や文章をはじめ芸術における自由無碍の境地を称して用いられる<遊戯>は、仏語によるよりもさかのぼって『荘子』の<遊>の思想に系譜づけることができる。この項は福永光司氏の記述であろう。
 
 『梁塵秘抄』には「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」。「遊戯」は自由自在のようである。
 
 
 
  河治和香著 小説『遊戯神通 伊藤若冲』小学館 2016年刊 本体1650円
 
 
 
<天明の大火>
 
 皆川淇園や応挙たちが石峰寺を訪れたニ日後、応仁の乱以来の大災が京の都を襲う。天明の大火である。正月三十日未明、鴨川の東岸、四条大橋の南の宮川町団栗辻子(どんぐりのづし)新道角、某両替店より失火した。折りからの強風で、火は鴨川を越えて寺町四条近辺に飛び火する。それより三方北西南に広がり、二昼夜焼け続けた。禁裏御所、二条城はじめ三十七社、二百寺、町数千四百余、町家三万七千軒、罹災世帯六万五千余戸と、京の五分の四以上を焼き尽くした。
 この大火の記録は数多く残るが、例えば「東風小、大変、京洛中、不残大火、不残、未聞之事とも、筆紙難尽次第」。若冲の師友であった相国寺の大典和尚は幕府公務のために江戸に赴いていたが、三月三日に帰京し「燃亡する者、十が九、実に未曾有の大変異と謂ふ可し」。後に述べる俳僧、蝶夢和尚は「火災など申にては無之、応仁後の大変にて候」「宗長法師が紀行に、粟田口より見れば上下の家、むかし見し十が一も見えず」と手紙に書いている。
 
 当然だが、若冲も錦街の家屋敷を失った。それまで京都有数の青物問屋「枡源」の若隠居として、弟に商売を任せきり、自由気ままに絵ばかり描いていた暮らしも一変する。錦市場に二軒あった大きな屋敷を人に貸し、その家賃で生活していた若冲だが、収入も途絶える。また弟の八百屋業も危機に瀕したが、若冲は京を去り、知己を頼り大坂そして豊中の西福寺に仮寓する。七十三歳の年であった。石峰寺の石像造営の事業は当然、中断したであろう。
 
 
  「天明の大火」京市街の八割以上が消失してしまった。
 
 
 
「蕉斎筆記」
 
 天明の大火の五年後、石峰寺門前に居を構える若冲のことを、寛政五年(1793)に広島浅野藩の平賀白山が、大坂の奉時堂松本周助からの聞き伝えとして記している。
 今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後の山の中へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立している。それで斗米翁と落款を書いている。金銭だと、相場によらず一斗換算、銀六匁ずつを取る。すぐに石工の手に渡し、依頼者の好みの草画を一枚ずつ贈る。妹もありて、外へ嫁居していたが、後家となり、一人の子を連れて若冲と同居している。尼になっており心寂という。和歌を好み、石摺版画をこしらえて売っている。他人は若冲の妻なりという者もある。
 
 翌年の寛政六年、平賀白山は十月十八日に、はじめて石峰寺門前の若冲を訪ねる。「百丈山石峰寺へ参る。是には若冲居士門前に居住せり。しばらく咄をきゝぬ。ふすまに石摺のやうに蓮を書けり。面白き物好き也。五百羅漢を一見しぬ。是は山上に自然石を集め形り(ママ)に若冲彫付たり。段々迂回して道を作れり。其外涅槃像もあり。甚面白き事なり。又其山の入口に新に亭を建たり。是も若冲の物好き也。寺の左に若冲の古庵あり。庭もさびておもしろし。妹を眞寂尼といふて両人住居せり。」
 
 罹災の数年後には、若冲は後山の石像群造成の作業を再開していた。その費用捻出は、墨絵を相手の希望にあわせて描き、米一斗あるいは銭六匁と交換することであったという。衆生の作善であろう。この時、白山は若冲に詩を贈っているが、「本来無二畫禅師」と記している。畫禅師という言葉には後で触れる。
 それと興味深い記載がある。旧庵である。大火の後に、門前に居を構える前、寺の左、すなわち北隣の地に、アトリエを兼ねた小さな住居があったのだろう。後に観音堂が建つ場所辺である。
 
<画乗要略>
 
 そして三十年ほど後、天保二年(1831)に刊行された『画乗要略』では、「しかるに形似に務めず、写意を貴しとする。居を深草石峰寺のかたわらに構え晩閑す。その画をもって一斗米に換え、よって自ら斗米庵と号す。石像五百羅漢を造り、その像をいま見るに、往々その自然にしたがい、彫琢を加えず。また似に務めず」とある。
 
<筆形石碑>
 
 天保四年(1833)、石峰寺に若冲の遺言という筆塚が立てられた。文政十三年(天保元年)に京都に大地震が起き、石像群も被害を受けた。多くは倒れ、崖から転落するものもあった。そして震災の三年後に、筆塚が若冲の墓のすぐ横に据えられたのであるが、謎が多い。幕末三筆のひとり、貫名海屋(ぬきなかいおく)の碑文、筆形石碑銘撰の一部を意訳する。
 「その心霊、その腕の妙は、仙爪の所に至る。ついに仏経中の諸変相を描き出し、よって宇宙の秘を開き発した。幻の技はここまでに至った。…遺言によって墓を筆形に造り銘を記す。いまも居士のなつかしさを忘れることが出来ない。悲しいかな。三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた。そして私をして、それらの由を墓表に記させた。居士には孫があるのである。貫名海屋撰」
 
 若冲は妻を娶らなかった。子も孫もいなかったはずだ。しかし白山は、清房を若冲の孫と断じている。筆塚の銘原文なり草稿は、清房が記したに違いない。
しかし宝蔵寺過去帳から、清房は若冲の次弟である白歳の孫とされている。平賀白山が若冲は、妹らしき尼と一人の男児と同居していると記していたその子ではないかと推測する。筆塚建立の天保四年、清房は四十三歳。平賀白山が石峰寺に若冲を訪れたのは、清房四歳のときである。
 
 しかし若冲の立派な墓は既にあった。なぜ遺言として彼の没後三十三年も経ってから、それも筆形にして再度、清房は墓横に建てる必要があったのだろうか。
 ひとつには三十三回忌であろう。かつて「動植綵絵」の相国寺献納を終えたのも、ちょうど若冲の父の三十三回忌に合わせている。また絵は総数三十三枚であるが、観音三十三身、観音霊場三十三所にも、ちなむのであろうか。若冲は、三十三という数字にこだわった。
 真寂と清房のことと、筆塚のことは、いまだに謎である。
 
<2016年12月16日 南浦邦仁>
 
コメント
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